イタチ、梟、それから
 もわっとした体育館を抜け出せば、いくらか涼しい風が私の頬を撫でた。片手でグッと目元を乱暴に拭って、ようやく息ができるようになったかのようにゆっくり息を吐く。なんだか今日は長い一日だった。リュックを抱え直して歩き出そうとした瞬間、目の端にチラリと扉に貼ってある紙が映り込む。
 トーナメントが印字されたその紙の下欄。四角い枠で囲まれ、朝にはまっさらだったそこに、手書きの文字が増えていた。どうやら代表が出揃ったようだ。第一代表と上から視線を落としていった先――開催地代表と書かれたそこに埋まった高校名に、私の視線が釘付けになる。

 ――開催地代表、音駒高校。

 最後のひと枠を書き終え、完成したトーナメント表。手書きで書かれた高校名を手でなぞれば、再び目頭が熱くなって慌てて目を擦った。終わった、終わったのだ。長い長い一日が、ようやく。
 
 数歩歩き出したところで、前方から見慣れた白いジャージが走ってくるのが見えて、私は焦点を合わせるように瞬きを繰り返した。見知った顔だな、と思った時には私の体はその衝撃を受け止めていて、「ぐえっ」と潰れたカエルのような声を出してしまう。

「なまえ!おめでとう!」

 抱きついてきたのはかおりと雪絵だった。二人に抱きつかれた私は、あっという間に二人の間に埋もれて息が出来なくなってしまう。お願いだから離れてくれ、と身じろぐ私に気付かない二人の間で「ギブ…」と小さく呟けば、ハッと気付いたかおりによってようやく離された。「ごめん!」と謝るかおりの横で肺いっぱいに空気を吸い込む。ああ、酸素美味しいなあ…。
 それでも昂った感情は抑えきれないようで、破顔した笑みで「今日一日お疲れ様!」とかおりは私の肩を叩いた。その隣ではいつもの調子で「なんだかお腹すいたね〜」と雪絵が頬に手を当て何やら考え込んでいる。どうやら梟谷の試合も終わり、撤収を終えたらしい。
 そういえば、黒尾やリエーフなんかは梟谷の試合を見にいったはずでは?と周りを見渡していると、「音駒の連中はさっき見にきてたみたいだけど、なまえがいなかったから探してたの」とかおりが言う。どうやら私の姿が見当たらなかったからわざわざ探しに来てくれていたらしい。

「戸美と音駒の試合も見たかったな〜」
「あ、そうそう。夜久怪我したんでしょ〜?大丈夫そ?」

 首を傾げて言う雪絵に、大丈夫の意を込めてこくりと頷く。「アイシング、私がした」とふふんと胸を張れば、かおりと雪絵は顔を見合わせてから小さく吹き出して「すごいねなまえ〜!」「頑張ったねえ」と頭を撫でてくれた。そうでしょうそうでしょう。頑張ったんです、私も。テンパって泣きそうだったけど、そこはあえて言わないでおこう。

「…私、雪絵とかおりにずっと言いたかったことがあったの」
「? なあに?」
「梟谷との試合前に、声かけてくれたでしょ」

 どっちが勝っても恨みっこなしってやつ。私の言葉に、二人は思い出したようにああと頷いた。あの時、私はうまく返事が返せなかったけど。今日一日の彼らの試合を見ていたら、彼らは試合後の気まずさとか、そういうものを一切考えることなくプレーしているのだと分かったのだ。ただそこにあるのは勝ちたいという意思と、試合を楽しむ気持ち。そこには遠慮も何も一切存在しない。そんな彼らに私は今日一日で染め上げられてしまったらしい。あんなに気まずくなりたくないと怯えていた気持ちは、終わった時には既に吹き飛んでいて、そこにあるのはお互いのプレーを賞賛する気持ちと、その瞬間を目撃できた嬉しさ。だからこそ。

 「今日、最高の試合だった。だからその、梟谷と試合できてよかった…と思う」

 次に彼女たちに会ったら伝えようと思っていた私の本心。気づけば私の口角は上がっていて、かおりと雪絵がポカンと呆けた顔で私を見つめていた。視線が集まった事になんだか居た堪れなくなって、私はそそくさと二人を置いて歩き出した。慣れないことはするもんじゃないな、と両頬を抑える。「え、ちょ、なまえ!?」「ええ!?」と驚く二人の声を背に、気づけばハハと声を出して笑っていた。なんだか気持ちがスッキリしている。こんな二人の反応を見れるなら、きちんと気持ちを伝えてよかったなと思った。

 
△▼△


「お、みょうじ帰ってきた」
「忘れ物チェックにどれだけ時間かかってんだよ」
「みょうじさんトイレ寄ってたんじゃないですか?あ、もしかして大ですか?」
「…うるさいな」

 散々な言葉で出迎えた部員たちを睨みつける。こいつらの脳みそには労いという言葉はないらしい。「なんか疲れてね?」と不思議そうに言う夜久に視線を向けてから、プイッと目を逸らした。「えっ…!?」と夜久がショックを受けたような声が聞こえたけれど今はそっとしておいてほしい。

 かおりと雪絵と別れてからすぐ、私は戸美の潜とエンカウントしていた。向こうもまさか私がいるとは思わなかったようで、赤くなった目の端を隠すように視線を逸らす。え、まさか泣いていたのだろうか。というか、泣くのかこの人…。見てはいけないものをみた気がして慌てて横を通り過ぎようとした瞬間、ぐっと腕を引かれ、「スマホ出してください」と凄まれたのだ。意味がわからない。というか、さっきまでの気まずいですって雰囲気はどこにいったのやら。恐怖心が勝った私は、あっという間にスマホを人質に差し出していた。潜はそんな私に見向きもせずにポチポチとスマホを操作して、あっさりと私の手にスマホを戻す。は?と首を傾げている間に彼は「じゃあまた」と去っていった。まるで嵐のよう。残ったのは私と、スマホに登録された潜という名の連絡先だった。

 そんなエンカウントなど知らない彼らは「何かあったのか?」と各々好き勝手騒ぎ立てているが、正直伝えるのも面倒くさい。というより疲れたので早く帰りたい。少し考えてから「なんでも」と首を横に振って歩き出せば、部員たちは不思議そうにしながらも後に続くように歩き出した。

「あ、そういえば今日の試合見てたら、私たちが一年の頃のこと思い出した」
「あー、そう?」
「あの頃の黒尾、何か知らないけど夜久と仲悪かったじゃん。成長したなーって」

 一年の頃は、黒尾がなぜか夜久に敵対心を持っていたからか、その近くにいた私まで睨んできていたことを思いだす。それが今日、こうして春高出場を勝ち取った。スポーツは絆を深めるとはよく言ったものだと思う。「初めて会った時、お前と夜久って付き合ってんの?って聞いてきたの面白かった」と言えば、黒尾は頭を抱えて「忘れてクダサイ…」と手のひらをこちらへ向けた。どうやら彼にとっては思い出したくない過去だったらしい。

「つまり、今日の俺のプレーがかっこよかったってことかな?なまえチャン」
「そーね。あの頃の黒尾と夜久が、今日のプレーを見たら感動して泣いちゃうかもね」
「…なあみょうじわざと言ってる?」

 からかってごめんって、と謝る黒尾に、私は「何のこと?」とわざとらしく首を傾げた。こんな風に黒尾と話していることを見たら驚くのは、昔の私だって一緒だろうけどね。そんなことを考えながら、今日こうして皆で笑って帰れることにひどく安堵した。

20230516
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