春を迎える準備
「みょうじ、本当にいいのか?」

 暖房の効いた職員室で、担任が顎を撫でる。その手元には、合格通知と書かれた一枚の用紙。喜ばしいことのはずなのに、その場で笑っている人は一人もおらず、用紙に興味を示さない私に担任は難しい顔をしたままだ。担任の問いかけにこくりと頷いた私を見て、担任は用紙片手に「はああ」と深く息を吐く。用紙はそんな担任の心境を表したようにへなりとしていた。

「その専門学校への入学、辞退します」

 今度ははっきりと言葉で告げれば、担任はとうとう諦めたように分かったと頷いた。「まあ、その…理由も理由だしな」と、大切であるその紙をどこかぞんざいに扱う担任に少し笑ってしまった。担任も今回の件について思うところがあったらしい。
 辞退については、専門学校側には既に連絡を入れている。専門学校側も、理由が理由だからと受理してくれた。「あてはあるのか」と難しい顔をした担任に、元々考えていたもう一つの専門学校名を告げる。一般入試での出願が間に合うことを伝えれば、担任はそうかと一言頷いてから頑張れよと笑った。

 
 身バレ未遂事件から暫く経った今日。私がSNSで否定したこともあり、ネットではその話題が多少囁かれることはあるものの、その話題が大きく呟かれることはなかった。収束しつつある状況を見て、夜久は「人の噂はなんとやらってやつだろ」とホッとしつつもどこか面白くなさそうに頬杖をついていた。散々騒ぐだけ騒ぎやがって、と夜久は言っていたけれど、正直なところ私自身は何も変わらない日常に心底ホッとしている。
 そんな現状ではあるが、私は春高本戦が始まるまでのこの期間で少しずつ作曲活動を再開していた。とはいえ、春高本戦へと出場を決めたのだから練習も当然力が入っているし、一応学生なのだから授業やらテストがあるので公開できるほどのものが出来上がっているわけではない。部活や勉強の合間を縫ってちまちまと、少しずつだ。
 なぜ今のタイミングなんだと夜久には呆れられそうだけど、私は春高予選で感じたものをすぐにでも形にしたかった。それほどまでにあの代表決定戦は作曲をする上で自分のモチベーションになっていた。
 けれど、やっぱりあと一歩何かが足りないのだ。どこか納得いかないそれに修正を入れては首を傾げる毎日。一体何が足りないんだろう。そう考えるのは一度や二度ではなかった。目前には、春高本戦が待っている。全国から県代表が集まってくる大会。その春高が終われば、この曲も完成するんだろうか。そんなことを考えながら、私は家でひっそりとただひたすらにとギターを鳴らしている。

「みょうじ、ちょっといいか」
「…なに?」

 職員室から出てきた私を待ち伏せするかのように壁に凭れかかっていた黒尾がちょいちょいと手招きをする。その横には夜久と海も揃っていて、私は首を傾げた。歩きながらでいいじゃん、と警戒した視線を向ければ、黒尾はすんなりとそれもそうかと頷き歩き出した。
 え、素直な黒尾怖…。引き気味に見つめながら三人の後ろを歩く。一体どこに連れて行かれるというのだろう。まさか、今更部活辞めろとかそういう話?警戒した顔から一転、顔を青くする私に三人は気づいていないのか「この間のアドラーズ対レッドファルコンズやばかったなー」と仲良く世間話を繰り広げていた。
 そうして気づけば私たちはクラスに戻ってきていた。クラスメイトたちは「バレー部の圧やば」「にゃんちゃんが一際小さく見える」だなんて笑って話している。いや、なんで?教室で話す内容なの?戸惑っている私に夜久が「みょうじなんか眠そうじゃね?」と声をかけてくる。いや、眠くないけど。見当違いにも程がある。いつもの観察眼どうした、と思ったけれど、そういえば夜久はいつもこんな感じだった。
 未だ訝しむ私に、黒尾が「まあ座れって」と私の肩を掴み無理矢理腰を落とさせる。いや、座れってここ私の席…。黒尾はその前の席に座り、こちらへと体を向けてくる。夜久と海はその場で立っていて、どうやら話をするのはこの目の前の男らしいと私は黒尾に視線を向けた。

「いいか、みょうじ。今からする質問に嘘偽りなく答えろよ?」
「ええ…?」

 まるで今から尋問でも行われるのかと言わんばかりの雰囲気に戸惑っていると、黒尾から「返事は!」と催促されたので、適当に頷いておく。チラリと立ったままの二人に視線を向けると、どことなく緊張した顔でこちらを見守っている夜久の隣で海は相変わらずニコニコしていた。いや、正反対すぎないか?
 
「お前…クリスマス暇か?」
「………はあ?」

 今までにないくらい真面目な顔で黒尾が問いかけたのは、私の予定を確認するものだった。途端に体から力が抜けて、ポカンと口を開けたまま固まってしまう。ようやく出た言葉に、黒尾はいやだから、と律儀にも同じ言葉を繰り返した。いや、聞こえてなかったわけじゃねえよ。何言ってんのこいつって意味だよ。

「いやな、実はバレー部ではGW合宿と夏合宿の他に冬合宿があるんだが、みょうじに伝え忘れていたことに気づいたわけよ」
「はあ…」

「冬合宿に関してはうちだけで行う合宿だし、寝泊まりは校舎でするから入部のタイミングで同意書とか案内渡しちまうんだよな」と夜久が申し訳なさそうにスマン!と手を合わせる。私の入部はGW合宿が終わってからだったから、三人もすっかり伝え忘れていたらしい。冬合宿は12月24日と25日の一泊2日。なるほど、それで黒尾のあの言葉か。納得している私に「さすがに用事あったらそっち優先していいからね」と申し訳無さそうに眉を下げる。

「…まあ別に、用事とかないから大丈夫だよ」
「ま、みょうじ彼氏いないしな」

 俺はそこら辺は心配してない、と腕を組んだ黒尾にイラっときたので、伸びている足めがけて蹴りを入れた。「イッ…!?」と上半身を倒した黒尾をざまあみろと見下ろす。ついでにその頭爆発してしまえばいいのに、とこちらに向いた寝癖の髪を払うように手を動かしていると、夜久と海に「お前らほんと仲良いな〜」と笑われた。いや、だから仲良くなんてないって。

 
△▼△


「クリスマスに合宿っておかしくないですか!?」
「おかしくないだろ。あと、その言葉を言う権利はみょうじしか持ち合わせていないからな」

 ぎゃん!と騒ぐ灰羽の後ろで、夜久がエナメルバッグを下ろす。「去年は年末前とかじゃなかったっけ」と呟いた孤爪の言葉を拾った灰羽の騒ぎようは正直耳を塞ぐほどだった。音駒バレー部の冬合宿は必ずしもクリスマスと被るわけではないらしい。

「そういえばこの前買い物行ったら大将に会ったわ」
「え?マジ?」
「美華ちゃんとヨリ戻したらしい」

 クリスマスプレゼント買ってたわ、と思い出すように言った黒尾に、山本と灰羽が「リア充滅びろ!」と叫ぶ。いや誰だよ大将とミカちゃんと思っていたら、孤爪が「戸美の1番」とポツリと呟いた。どうやら私の考えていたことはお見通しだったらしい。いや、それにしてもいらん情報だけども。

「そういえばみょうじは戸美の12番とはあれから何かあったのかよ?」
「……べつに、なにも」

 サッと目を逸らした私に、夜久は「エッ…!?」と驚きの声をあげる。そういえば、連絡先を交換したこと誰にも言ってないかもしれない。驚いたのは夜久だけじゃなかったようで、灰羽や山本が「みょうじさん嘘ですよね…!?」と顔を青くする。
 何もないって、と視線から逃れるように体を背けようとしたところで「…みょうじ」と黒尾に肩を叩かれた。その顔は今までに見たことのないような顔をしていて、私は怯んでしまう。「エッ、な、なに」と歯切れの悪い返事を返すと、黒尾はずいっとその顔を少しだけ近づけた。え、なに、怖…。

「いいか。お前だけ抜け駆けはなし、っダァ!?」

 スコーン!と黒尾の横顔がボールを受け止める。衝撃のまま黒尾の顔が横に傾き、黒尾は静かにその場に蹲った。どうやらボールを当てたのは犬岡だったらしく、合宿を楽しみにしていたのか早々にボールで遊んでいたようだ。「スミマセン!」と遠くから駆け寄ってくる犬岡に蹲りながらもよろよろと手を上げた黒尾を見て、夜久は「自業自得だな」と切り捨てた。
 私、一人でこいつらの面倒見きれるのだろうか…。そんなことを思いながら、私は夏合宿を共にした彼女たちに思いを馳せた。

20230521
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