猫たちの夜前・1
「ねえ待ってむり帰る」

 宿泊するホテルを目の前にして後退する私の右肩を黒尾ががしりと掴む。それでも後退しようともがく私の左肩を夜久が掴んだ。そのまま攻防戦を繰り広げること数十秒。暴れる猫を捕まえるように首根っこを掴まれた私は、そのままずるずるとホテルへと連行された。
 
 全国初出場の私たちは、当日を明日に控え、前日にホテルに宿泊することになっている。予選ではホテルに泊まることもなかったので、黒尾たちは「なんか全国来た〜!ってカンジ」と笑っていた。かくいう私も、都内に住んでいれば都内のホテルに泊まることなど滅多にないし、部屋に風呂とまでは行かないけれど大浴場があると聞いて今日を少しだけ楽しみにしていた。広いお風呂が嫌いな人はいないと思う。多分。
 イヤイヤと首を振る私に、私が楽しみにしていたことを知っている夜久が「お前昨日まであんなウキウキしてたじゃん」と呆れたように言った。いや、ウキウキはしてない。ソワソワはしてたかもしれないけど。それでも、目の前の光景を見て嘆かずにはいられなかった。

「…他校も泊まってるなんて聞いてない…!」
「はあ?」

 確認しなかった私も私だけれど、誰か教えてくれたってよかったじゃん…。ウッと両手で顔を覆い嘆く私に、「ウチにホテル貸切できるほどの財力があるわけないでしょーが」と、黒尾の容赦ない言葉が飛ぶ。そんな私たちを見て、一年は「あーあ、みょうじさんまたやってる」と笑い、灰羽に至っては目の前のことしか見えていないのか「見て犬岡!カーペットふかふか!」と階段に敷かれたカーペットを踏みしめている。さすがコミュ力おばけ。灰羽の身長の高さにギョッとしている他校生なんぞ視界にも入っていないのだろう。

「せめてリュックに入ってる帽子を…!帽子を被らせて…!」
「だーめ。お前そろそろキャップなしで体育館歩けるようになったほうがいいぞ」

 そのための訓練だと思え、と黒尾は私に言い放つ。ただでさえ他校生が宿泊しているという衝撃から立ち直れていないと言うのにこの追い討ち。この人には人の心がないのだろうか。サッと顔を青くし「死刑宣告…?」と呟いた私に、夜久も海も苦笑いをこぼす。けれど、何も言ってこない二人を見るに、二人も黒尾と同意見なのだろう。ここに味方はいないのか…と絶望しかけた瞬間、チラリと視界に金髪がうつりこむ。
 そうだ、私にはまだ孤爪がいた。期待の眼差しで孤爪に顔を向ければ、思ったより勢いよく見てしまったようで孤爪は驚き肩をビクリと反応させた。しかし今の私にはそんな孤爪を気遣う余裕もない。孤爪は私の味方だよね?ね?と視線で訴える。
 孤爪は私と黒尾たちを交互に見て何かを察したのか、めんどくさそうな表情をしてそのままスマホに視線を落としてしまった。この間わずか1.5秒。あっという間に孤爪にも見放された私は、渋々海の後ろをついていくしか選択肢が残されていなかった。終わった…と嘆く私に、夜久が控えめにポンと肩を叩く。そんな中途半端な慰めはいらないんだよ。思わず呟いた私の肩に容赦なく力を入れた夜久にギブアップを告げたのはあっという間だった。

△▼△


 ホテルの部屋についてみると、大きなベッドが私を出迎えた。本来であれば二人一部屋あてがわれるところを、女子だからと一人用の部屋を用意してくれた監督たちには感謝だ。どん底のテンションから一転、ドヤ顔で黒尾を見た私に、黒尾は「現金なやつだな」と笑っていた。別に、監督たちと同じ部屋でもよかったのだけれど、監督たちには苦笑いで首を横に振られてしまったことだししょうがないよね。一人万歳。

「いいか、戸締りはちゃんとすること」
「チャイムが鳴ってもすぐにはでないこと」
「誰も部屋に招き入れないこと」
「……はあ」

 夜久、海、黒尾と私の部屋の前で仁王立ちをして言った彼らに、私は困惑の表情を向ける。あんたらは私のお母さんか?いや、私のお母さんにすらそんな事言われたことないんだけど。思わず生返事をしてしまった私に、黒尾は「ちゃんと分かってんだろうなあ!?」と怒り気味だ。いや、一応聞いてはいたけど。「つまり黒尾が来ても部屋には入れるなってことでしょ」と追い払うように手を振れば、黒尾は数秒黙ってから「俺の入室は許可する!」と叫んだ。いやうるさ。
 思わず耳を塞いだ私に、海が「じゃあまたあとで」と手を振り、ようやく私は部屋のドアを閉める。ドアが閉まる瞬間、夜久が思い切り黒尾に足蹴りを入れていたけれど、見なかったふりをした。
 一人になった部屋は案外広く、ぐるりとあたりを見渡しながらリュックを下ろす。数日分の着替えが入ったリュックは案外重たくて、下ろした拍子にどさりと音がした。なんとなくテレビをつけてみても、変わり映えのしない番組が映るだけ。そりゃそうか、ここ東京だもん、と一人頷いて、ベッドに寝転がってみた。そのままゴロゴロと転がってみるも、特に面白みもなくピタリと体を止める。
 あ、なんだろう、今すごく家のベッドが恋しい。そう思ってしまうのは、一人で時間を潰すための道具がないからなのか、知らない場所での一人の心細さ故なのか。
 手持ち無沙汰のままスマホを確認すると、マネのグループトークを開く。烏野もどうやら体育館での練習を終えて宿泊先についたようで、潔子と仁花がツーショットの画像をアップしていた。その下には、明らかに私たちとはグレードの違うホテルに泊まるかおりと雪絵のツーショット。

W露天風呂もあるよ!W
W梟谷豪華だね!うらやましい!W
Wようやく男どもから解放された!今女子会してる!W
Wこっちも、女子会W

 烏野も梟谷も、マネージャーが二人だから同じ部屋なのか。この流れで一人の写真送るのだいぶしんどくない?と、トーク画面を閉じると、マネのグループトークの下で黒尾たち三年とのグループトークに通知が入っていた。つい先ほど別れたばかりだというのに何だろう。業務連絡だろうか、とトーク画面を開く。そこには黒尾から”風呂あがりに自販機の前集合“とメッセージが入っていて、つい口元が緩んだ。私の部屋に人を招き入れるのはダメだけど、部屋の外で会うならいいらしい。一人の部屋もいいけれど、折角だし彼らと話すのも悪くない。
 了解、と送信したメッセージは、あっという間に3人の既読がついた。

20230618
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