猫たちの夜前・2
 黒尾から言い渡された時間は、夕食を終えてから明日の対戦相手である清川高校の試合記録を見るまでの空き時間だった。この時間は一年生から順番に風呂の時間を設けているようで、後輩が入り終えるまで暇だからということらしい。
 ホテルなのだから皆ではいればいいのに、と思ったけれど、どうやら一応他校に配慮したのだという。確かに大人数で男湯に群がったらとんでもないことになりそう。Wみょうじはちゃちゃっと風呂入っちゃえよWと、チャット内でもお母さんムーブをかます黒尾には、猫が背を向けているスタンプひとつで返事を返しておいた。
 
 向かった大浴場は、家の風呂がこじんまりして見えるほど大きい。一言で言えば最高だった。
 向かった時間が良かったのか、他校のマネージャーと鉢合わせることもなく、大浴場は貸切状態。しかもどうやら一番風呂。テンションが上がって普段ならサッと終える風呂を長風呂してしまうほどだった。やっぱり広いお風呂は最高の極み。心なしか体が軽くなった気がする。
 そんな高待遇を受けた私は、折角だからと行く途中で見つけた自販機でフルーツ牛乳を買おうと女風呂を出た。つまり、自分でも珍しく浮かれていたのである。

「ねえねえ君、どこの高校?」
「ばっかお前、背中に高校名書いてあるだろ!」
「あ!ほんとだ!なんて読むんだろ…おとこま…?」

 まさか女湯を出てすぐ絡まれるとは誰が想像しただろうか。ちなみに私は全くしていなかった。逃げようとした道は二人組によって阻まれ、身動きの取れなくなった私はただひたすら斜め下を向き、じっと黙り込む。
 黙り込み返事も返さない私の態度は、彼らにとって気にすることではないのか「何県から来たの?」「俺ら東京なんだけどさあ」「ちょ、東京って」「千葉も東京と変わらないだろ〜!ねっ?」とまるで空虚に向かって話すかのように口を動かしている。何が面白いのかゲラゲラと笑う二人組ははっきり言って恐怖でしかない。というか、二人で話すだけならせめて私を解放してほしい。

「ねえ君たち、うちのマネージャーに何か用?」

 こうなれば体当たり覚悟で走り去るしかない、と覚悟を決めたところで聞き馴染みのある声が聞こえた。思わず勢いよく顔を上げれば、他校生二人組の後ろに、黒尾が立っている。
 190センチに近い身長は、目の前の男たちよりも高く、見下ろす目にはどこか圧を感じる。え、こわ。ヒッと声を出した他校生に混じって小さく悲鳴を上げれば、黒尾の視線がこちらを向いた。

「あのねえ…なんでみょうじがビビってんの」

 逃げるように去っていった他校生に見向きもせず、黒尾は呆れたように私に言った。「び、ビビってませんし」と目を逸らした私に、黒尾は「そういうのは目を見て言いましょうね?」と私の顔を覗き込む。それでも頑なに目を合わせない私をみて、黒尾はそのまま私の頭に手を伸ばし、一度だけ弾ませるようにポンと置いた。

「遅いと心配するでしょうが。連絡くらいしなさい」
「…スマホ見てる余裕なかった」
 
 黒尾は「そーかい」と私の頭を2、3度叩く。まるで拗ねる子供をあやすような手つきに、私は「いつもだったら走って逃げられるし」と、聞かれてもいない言い訳をこぼした。実際、夏合宿ではそれで日向を撒いているので嘘はついていない。
 黒尾は私の言葉になんとも言えないような顔をしてゆっくりと私の頭から手を退けた。そのまま「あー…」と首に手を当てながら視線を彷徨わせる黒尾は、私に向ける言葉を探しているようだった。チラリと黒尾を見れば、さっきまでの圧などとうに消えている。
 こういう時助けてくれるのっていつも黒尾なんだよな、と思わず笑いが溢れる。黒尾がお母さんなのはあながち間違っていないのかもしれない。

「…お前、やっぱりキャップ被ってた方がいいかもな」

 ふは、と声を出して笑っていると、黒尾が何かを言いたげに口を開いた口を中途半端に閉じて、ため息混じりにそう言った。何の気の変わりか分からないが、突然脱帽宣言を撤回した黒尾に私の目が輝く。
 つまり、顔を隠してオッケーということ!?と喜んでいると、黒尾はそんな私を見て「そういう意味で言ったんじゃねえけどな」と呟いた。よく分からんけどつまり明日も帽子は被ってていいということだよね?と、首を傾げて黒尾を見るが、呆れなのか困っているのか、黒尾はよく分からない表情で私を見つめている。やがて黒尾は大きなため息をその場に落とすと「行くぞ」と私に背を向けた。


「おせーよ、黒尾。みょうじ迎えに行くのにどんだけかかってんの」
「それは僕じゃなくてみょうじに言ってくれませんかね」

 な?と黒尾は私の頭に腕を置き私を指差す。あ、これ何となく言ったらまずいやつ。サッと目を逸らした私を見て、夜久は首を傾げた。
 何とか話題をそらそうとしたものの、黒尾が許すはずもなく、黒尾はあっさりと私が他校生に絡まれていたことを夜久に話した。しかもちょっと大袈裟に話している。
 訂正する暇もなく夜久に正座させられた私は、「そういう時はすぐに連絡しろ!」と、ついさっき聞いたばかりの言葉を言われ項垂れた。夜久、黒尾よりも圧が強い。思わず「ごめん…」と謝れば、隣で話を聞いていた黒尾が「え、俺の時と態度違くない?」と笑った。

「で、初全国の感想はどうよ?」
「初全国かあ。もっと遠出したいよなー」

 新幹線乗りてえ、とソファーにもたれ掛かる夜久に、黒尾が「今年のインターハイは応援行こうぜ」と笑う。

「もちろんみょうじもな」
「えっ…」
「何でそんないやそうな顔するんだよ」
「黒尾と行きたくないんじゃね?」
「やっくんは黙っててください」

 まさか自分も数に入ってるとは思わず聞きかえせば、黒尾はおかしそうにケラケラと笑っている。

「それって、卒業しても会ってくれるってこと?」

 首を傾げた私に、三人はそれぞれ顔を見合わせてから私へと視線を向ける。

「当たり前だろ」
「むしろ卒業で終わりだと思われてたことにショックを受けた」
「たしかに」

 夜久、黒尾、海と口々に言う彼らは、当たり前のことのように言った。「まあ卒業よりも先にこっちだけどなあ」と夜久は階段から降りてくる孤爪を見て笑う。

「目立つの嫌いな研磨をとうとう全国に連れ出しちまったなあ」

 ケラケラと笑う夜久に、黒尾は何やら思うことがあるらしい。そういえば黒尾と孤爪は幼馴染なんだっけ。

「全国まで来れば、WやっててよかったーWとか思えるかな、とかね。思うわけで」
「研磨はそういうのわりとどうでもいいんじゃね?」
「夜久って本当そういうのハッキリ言っちゃうよね」
「…確かに孤爪ってそういうタイプじゃないよね」
「だろー?」
「この同中コンビは本当に……」

 はあ、とため息を吐いてこちらを見る黒尾に、「だって本当のことじゃんなあ?」と夜久は不思議そうにこちらに視線を寄越す。黒尾は海に声をかけられ近寄って来た孤爪と何やら話しているようだった。

「続ける絶対的理由はないけど、辞める理由も別にない。どっちでもないは、普通だよ」

 何言ってるんだ、と言わんばかりの視線を向ける孤爪の言葉に、夜久と私はううん?と首を傾げる。孤爪の中で好きと楽しいはイコールではないのだろうか。難しい話をしないでほしい。

「そう考えると、みょうじはハマると一直線なタイプなのかもな」
「え、そ、そう…?」
「たしかに、あっという間にマネージャー業務も覚えてたしね」

 いつも助かってるよ、と笑う海に、私は目を瞬かせる。まさか突然感謝されると思っていなかったので慌てて「ド、ドウモ…?」とぺこりと頭を下げれば、夜久もウンウンと頷いた。

「そこの後輩に想いを馳せてる黒尾もそう思ってると思うぞ」
「…やっくん、情緒って知ってる?」

 呆れたように言う黒尾を無視して「俺が1番目立つ!」と意気込んだ夜久に、私と海は目を見合わせた。この二人、試合以外はいつも締まらないんだよなあ。コートの中にいる二人を思い浮かべながら頬杖をつく。
 まあ、カッコいい二人は、明日見れたらいいか。フッと笑った私に、夜久と黒尾が「え、こわ…」と引き気味に呟いた。ひとまず二人には明日迷子になる呪いでもかけておこうと思う。

20230619
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