07-3


「おい、マネージャー!俺のドリンクうっすいねんけど!」

 連日の扱きによる疲れが溜まっている中、体育館に侑の怒声が響いた。ここ最近の侑は何かと名字さんに突っかかることも多く、俺や角名はまたかと顔を顰める。しかし、それがいつも通りでなかったと気づいたのは、アランくんの「なんやこれ濃ッ!」という驚愕した声が続け様に体育館にこだましたからだった。

「ちょお、すんません。俺のドリンク濃いねんけど、他の奴らのドリンク大丈夫ですか?」
「…え?」

 心配そうにボトルを差し出したアランくんに、名字さんは不思議そうにしながらもドリンクを口に入れる。疲れ果て休息を求めた者たちが集まる中で青春の甘酸っぱい雰囲気など生まれるわけもなく、ごくりと喉を鳴らした名字さんは一瞬のうちにカッと目を見開いた。体を前のめりにしてゴホゴホと咳き込んでいる様子を見るに、想像以上の濃さだったらしい。名字さんは眉をこれでもかと寄せて「ごめん、ボトル一旦回収するわ」と口元を押さえながら他の部員にも聞こえるように叫ぶ。その声にボトルに口をつけようとしていた俺たちはそっと口元からボトルを離した。少しピリついた雰囲気の中わざとらしく「ええ、俺喉乾いてんけど…」と言った三年生たちに対し、名字さんは予備で置いてあるジャグで水分を取ってほしいと体育館の入り口近くを指差した。
 
 まあ、合宿しんどいし。誰だってミスの1つや2つあるやろ。ペコペコ頭を下げながら回収していく名字さんをぽけっと見つめながら、タオルで汗を拭く。「名字さんでもこんな失敗するんだ、ちょっと意外かも」と言ったのは角名で、隣で銀も驚いたようにコクコクと頷いていた。
 しかし、その失敗を許せない男が一人。そう、人でなし代表の我が片割れである。

「なあ、マネージャーさんはドリンクもまともに用意できひんの?」
「ちょお、侑」
「疲れてるとか言い訳はなしやで。ろくに部員のサポートもできひんのなら、マネージャー辞めたらええんとちゃう」

 侑は、他人のミスに容赦がない。つい昨日だって、試合形式の練習で侑の要求についてこれなかった部員と揉めたばかりであったし、なんなら俺も理不尽にキレられ乱闘騒ぎを起こしたばかりだった。とはいえ、俺を含め部員に対して侑が厳しいはいつものことで、俺からしてみればそれは中学時代から何も変わらない。
 けれどそれがまさか、自らが点を決めるわけでもないマネージャーにまで同じ態度を取るとは想定外だった。
 女子の中では高い方なのかもしれないが、俺らからしたら小さな背。そんな名字さんの顔は、俺らが見ようとすると随分と低い位置にある。名字さんを見下ろす形で凄んでいる侑に、名字さんはじっと黙り込んだままだ。
 もしかして、名字さん、泣いてしまったりしないやろうか。ありえないだろうと脳内では思うものの、侑から容赦ない言葉を受けた女子は大抵泣き出してしまう。一応相手は上級生なので、俺は内心ハラハラしながら事を見守った。
 まるでその瞬間だけ時が止まったのではないかと錯覚してしまう雰囲気の中、ゆっくりと名字さんが口を開く。

「ごめん。けど、これっきりやから安心せえ」

 凛々しく、はっきりした声が体育館に響く。名字さんから出た言葉には、もう二度とないという意味が込められていた。ピリついた体育館の雰囲気がいくらか和むのを感じていると、名字さんの返事を聞いた侑がムッと眉を顰める。それでも名字さんから目を逸らさず、やがて侑は「…ならええけど」と歯切れの悪い言葉を吐き捨て練習へと戻っていった。

「う、ウワー…怖!侑コワ!」
「てかあの顔で睨まれて平然としてる名字さんも怖い」

 まるで止まっていた時が突然動き出したかのように喧騒を取り戻した体育館で、銀と角名が思わずといったように自身の二の腕を擦る。そばで見守っていた赤木さんが「一触即発みたいな雰囲気やったなあ」と苦笑いする隣で、アランくんが「俺生きた心地せえへんかった」とほっと息を吐いた。

「それにしても名前さんがミスなんて珍しいなあ」
「去年の合宿では、ミスしてるの一度も見てへんもんなあ」

 ひそりと名字さんに聞こえないように話す二年生に、俺は少しの違和感を覚えた。けれど、その違和感の正体はよくわからなかったので、まあいいかと一人サーブ練に入る侑を眺める。
 侑は合宿の間、ジャンプフローターサーブの練習をしているらしかった。つい先日、昔のバレーの国際試合を見返して目を輝かせていたので、おそらくその試合に影響されたのだろう。そんな侑に嫌な顔一つせず付き合っている三年リベロの先輩は本当にいい人だと思う。
 拾われる度に悔しそうに顔を歪める侑はきっと、先ほどの出来事などすっかり頭から消えて無くなっている。侑はそういう奴だ。それに軽蔑すると同時に、一方的に刃を向けられた名字さんにほんの少しだけ同情を向けてしまう。
 ある意味それがあいつの人でなしぶりに拍車をかけているのだと思うけれど、正直俺からすれば侑は昔からそういう男だ。本当に忘れていたとしても今更驚きもしない。けれど、それを入部してまだ数ヶ月足らずしか一緒にいない人たちに分かるわけがないとも思う。これは自分がどこかでフォローを入れた方がええんやろうか、と片割れのせいで無駄に増えた心労にため息を吐いた。

△▼△


「なあ、名前。あれ、どないしたん」

 その日の練習も終わり、夕飯を終えて角名と部屋へと向かっていると、名字さんと藤さんが話し込んでいる声が聞こえた。俺と角名は言われてもいないのに慌てて壁に張り付き、そっと息を潜める。曲がり角からチラリと様子を伺えば、そこにはソファーに座り込んでいる二人が見えた。

「あれってなんやねん。何のことか分からんわ」
「とぼけんな。今日のドリンクの件に決まっとるやろ」

 まあ、せやろな。隣にいる角名も察していたらしく、小さな声で「もしかして、ここでこれから説教始まったりする?」とその後の展開を想像して居心地悪そうに身を縮こませた。あの二人に限ってまさか、とは思うものの、主将としてマネージャーのミスをしかるのは何らおかしいことではない。何より、そう思わせるほど藤さんの声が固く厳しいものに聞こえたのだ。あっという間に立ち去るタイミングを逃した俺らは、ハラハラと二人を見守ることしかできない。

「あれ、一年がやったんか」
「…なんでそう思うん?」
「アホ。俺らが一年の時も全く同じことあったやろ」

 藤さんの言葉に、俺と角名は目を見開いた。それだけでも驚くというのに、藤さんは続けざまに「原因は何や。侑か?」と詰め寄った。原因?侑?訳がわからず頭上にはてなマークを飛ばす俺の隣では、角名がパズルのピースがハマったかのような顔で「ああ…成程」と呟いている。

「ああ、て。なんやねん」
「ようは部員に対する嫌がらせってことでしょ」

 角名が言った言葉に、俺は数秒の脳内処理時間を要した。「はあ!?」と声を荒げた俺の声に驚いた角名は「ちょ、バカ!」と俺の口を慌てておさえこむ。角名の手が俺の声を抑えるには一歩遅く、俺の声に反応した藤さんは「誰かおるんか?」と顔をこちらに向けていた。

「…いや、あの、すんません」
「…っス」

 ばっちりと目が合ってしまった俺たちは、できるかぎり背中を丸めておそるおそる二人に歩み寄る。二人は俺たちがいたことに少しだけ驚いていた様子だったけれど、俺らの顔を見るなり「なんやなんやお前たちか!」と笑顔を向けた。

「すまんな。もしかしてうるさかったか?」
「あ、いえ。大丈夫、デス」
「…っス」

 気まずそうに、それでも会話を試みる角名の隣でただただ同意を示す俺に角名は何か言いたげな視線を俺に寄越していた。その目は確実に俺を非難している。すまんて、と内心謝罪を向けていると、そんな俺らの反応を不思議そうに見つめていた藤さんが突然ハッとした表情で「もしかして気分悪くしたか?」と言った。今日のボトルの件が単にミスでなかったことに加えて原因が自分の兄弟だった、なんて話を聞いて俺が嫌な思いをしたと思ったのだろう。眉を八の字にして「すまんなあ」と謝る藤さんに「イエ…」と返すのが精一杯だった。

「…あの。今日のドリンクの件って、俺らの学年のやつらの仕業やったってことですか」

 おずおずと藤さんにそう問えば、藤さんは苦い顔をしたものの、首をはっきりと縦に振る。ということは、角名の言っていた嫌がらせというのも本当だったのだろう。なんだかそれがショックで、俺は今度こそ呆然としてしまう。
 今まで陰口を言われるようなことはあったが、侑があんななので大抵の奴は諦めるかキレて直接言ってくるような事が多い。だからか、そんな陰湿なことをする奴らは周りにいなかった。反対に、角名は心当たりがあるのか「まあよくあることですよね」と顔を歪めている。

「やったヤツ、分かってるんですか?」
「まあ…昨日侑に散々言われてた一年やろうな。あの後練習離脱して、今日からマネ業務に入っとるはずやから」
「あいつ、ですか」

 昨日、同級生に容赦ない刺々しい刃を向けた侑を思い出す。その時、同級生はどんな表情をしていたのだったか。嫌がらせするほどキレてたようにも思えないけどな、と首を傾げていると、角名が「治ってそういうところあるよね」と隣でため息をはいた。

「え、てことは名字さん単純に巻き込まれただけやん」

 ハッと顔を上げた俺に、藤さんは頷いた。まるで本当に「うん。」と声が聞こえてきそうなくらい深い頷きに、俺も角名も視線を名字さんへとスライドさせる。「いい加減名前も部員庇うのやめや」と呆れたようにいった藤さんの言葉を聞くに、これがはじめてではないのだろう。
 そもそもマネージャーを三年も続けている名字さんが、あんな初歩的かつ大胆なミスをすること自体がおかしかったのだ。アランくんたちが話していた時に感じたあの違和感の正体はこれだったのか、と一人納得する。
 各々が名字さんに思い思いの視線を向ける中、名字さんはただ黙ってこちらをじっと見つめているだけだった。その表情は相変わらず何を考えているのかよく分からない。

「…名字さん、もしかしてその一年のこと庇ってるんですか?」

 何も言わない名字さんに、ふとそんな疑問を抱く。沈黙を貫くというのは、そう言うことじゃないのか。そう思った瞬間、なんだか自分ががっかりしていることに気がついて、俺は思ったまま口を開いていた。けれど、それに対し、名字さんは「違う」とはっきりと首を横に振った。

「ボトルの中身ぐちゃぐちゃにするとか、タオル隠すとか。卑怯なことするやつらを庇うつもりはないねん」

 なんか増えてる、と思いつつも「じゃあなんで?」と名字さんに問えば、名字さんは少し考え込んでから、ゆっくりと口を開く。

「部員に無駄な時間使てほしくないだけや」
「…は?」
「仮にあそこで私がW私じゃないWって言うたとして。こうやって、原因なんやろな、犯人誰やろなって言うてる間に何本スパイク打てる?わざわざ貴重な練習時間を無駄にする必要あんの?」

 けろりと言いのけた名字さんに、俺と角名は目を瞬かせた。藤さんは、手で顔を覆いながら、「お前、ほんまそういうところやぞ…」と呟いている。その反応を見るに、名字さんのこれは今回が初めてではないようだ。

「なんで。部員は自分のことだけ考えてればええんや。今日のことだって、丸く収まったやろ」
「そういうこと言うてるんとちゃうねん…」

 もうほんとこの子は!と藤さんがキレたように叫ぶ。それに心底理解不能といったように首を傾げた名字さんに、俺も角名も藤さんに同情の目を向けるしかなかった。

20230528