07-1


GW合宿一日目にして、俺は異様な光景を目にしていた。

「なあ、アランくん」
「なんや、どないしたん」
「いや、どうして名字さんまであそこおるん?」

 俺が指差した先ーー隊列の一番最後尾を見て、アランくんはああと渋い顔をして納得したように頷く。そこにいたのは、つい先ほどまで雑用をこなしていたはずの名字さんだ。
 名字さんは、宿泊しているからと部員たちが普段より早く起きたというのに、食堂に向かった時には既に厨房に立っていた。一体この人何時に起きてるん。驚く一年に対し、名字さんはケロッとした顔で「そこ立っとらんで早よ入って来い」と一喝した。そして走り込みをする直前まで何やらバタバタと走り回っていたはずなのに、気づけばそこにいたのだ。いや、ホラー番組かっちゅうねん、まだ夏には早いぞ。
  
「名字さんな、毎回合宿の時だけ俺らと一緒に走るねん」
「え、そうなん?」

 アランくんの言葉に俺は驚いて名字さんを凝視する。走るって、いつもより倍ある距離を?俺とアランくんの会話を聞いていたらしい侑が「どうせママチャリで着いてくるとかやろ。ほんま鬱陶しいわ」と吐き捨てる。それに対しアランくんは「なんでお前そないに名字さんにだけ当たり強いねん…」と呆れている様子だったが、俺はなるほどなと納得していた。思い出すのは昔に母親が見ていた野球ドラマ。そういやあのドラマに出てくるマネージャーも、チャリで部員のこと追いかけて来とった気がするわ。あれってほんまなんやな。

「全員屈伸したか〜?あっ、名前はちゃんとストップウォッチ持っとるやろな!?」
「持っとる」
「それならええけど。去年みたくもう一回は嫌やからな」

 主将の藤さんの言葉に、周りに固まっていた一年がぎょっと顔を上げる。アランくんはその時を思い出したのか「あれはほんま地獄やったな…」と遠くを見つめていた。この距離2回って、どんな罰ゲームやねん。「ほな行くで〜」と藤さんが声を張り上げたところで、俺はなんとなく一番後ろにいるはずの名字さんへと視線を向けた。
 え、名字さん、自転車持っとらんけどええの?もう出発やけど。俺の心配をよそに、藤さんが両手を鳴らしたところで部員が一斉に走り出す。走り出して早々に「ほなお先!」と侑が駆けて行ったことで、俺の中の競争心に火がついた。
 ええやん、勝負したるわ。「おい、双子飛ばしすぎやぞ!」とアランくんの声を背中で聞きながら侑を全力で追いかける頃には、俺の頭の中には名字さんの存在は綺麗さっぱりなくなっていた。


「俺の、勝ちやろ…!」
「いいや、俺のが早かった!」

 ゼエゼエと肩で息をしながら、体育館の入り口で両膝に手をつき息を整える。ここでいつもなら名字さんが「ドリンク持っていき」と声をかけてくれるのだが、今日は待てど待てどもその声が聞こえない。不思議に思ったところで、そういえば名字さんも一緒に外周しとるんやったわと思い出した。

「うお、ボトル綺麗に並んどるわ」
「…え、あの人いつの間にここまで準備したん?」

 あの人、ここまで準備するのにどんだけ早起きしたん?と再度彼女の睡眠時間を心配したところで、他の部員たちがチラホラと帰ってくる。一年は並べられたボトルに俺らと同じような反応をしたものの、二年三年は見慣れているといわんばかりの表情でボトルを手に取っている。いや、この量、普段なら俺らが外周行ってる間に用意してるやつやで?その本人、今日俺らと外周行っとるんやで?誰も疑問に思わへんのかい。

「そういや、名字さん、自転車の用意間に合ったんやろか…」
「名字さん、普通に俺らと走っとったで」

 ボトル片手に苦笑いを浮かべた銀に、俺と侑は「はあ!?」と同時に声を上げる。一緒に走るって、あの距離を!?あんなひょろい女子がか!?

「外周着いてきて大丈夫やったん!?」
「大丈夫どころかあの人、一切ペース乱さずにあそこで汗もかかずに涼しい顔してるよ」

 角名はげっそりとした表情で、顎で名字さんを指し示す。視線で追えば、そこには確かに一切汗をかかずに監督と話し込んでいる名字さんがいた。

「え…なんなんあの人。ほんまにロボットなんちゃうの…?」
「言えとるわ。それかサイボーグやな」

 俺の言葉に、侑が続ける。確かに、サイボーグかもしれん。あの距離を自転車でもなく走って、汗かかんって人間やないやろ。どことなく余裕そうに見えるのは、その表情がいつも通りうんともすんともいわないからだろう。

「いや、名字さんはロボットでもサイボーグでもないからな?」
 
 アランくんが、冷静にツッコんだ。どうやら俺らの会話を聞いていたらしい。「アランくん盗み聞きかいな」侑がじとりと見ると、アランくんは「なんでやねん!お前らの声がでかいんや!」とキレキレにキレている。角名と銀は、先輩とそんな会話を繰り広げる侑に「お前先輩になんて口を」と言いたげな表情を向けていた。

「あの人、合宿中いつもこうやねん。そのうち見慣れてくるで」

 そう言って笑ったのは、赤木さんだった。いつの間にか大耳さんまで集まって頷いていて、俺の背筋が伸びる。アランくんは昔からの知り合いだが、彼らは違う。「そう、なんスね」と敬語にもなっていない言葉を返すと、赤木さんは「そないに緊張せんでもええやん!」と俺の背中を数回叩いた。

「赤木、中学校一緒なんやろ?あの人中学で運動部入っとったん?」
「んー、仲良かったのは俺の姉ちゃんやからよう知らんけど、運動部やなかったと思う」
「へえ。あの足で運動部やないなんて、なんや勿体無いな」

 大耳さん、赤木さんと続いた言葉にアランくんが思わずといった風に呟いた。それに続くようにして、角名や銀がすごいと名字さんを褒める。まあ、確かに長距離走の選手とかやったらいいとこまでいくんとちゃうかな。そんな事を考えていれば、気に食わないと頬を膨らませる男が一人。そう、我が家イチの人でなしこと侑である。

「なんやねんみんなして!そんな足早ないやろ!実際、あの人ビリやったやん!」
「いや、名前さんはタイム測るついでに走ってただけやから、普通に走ったらもっと早いと思うで」

 赤木さんが呆れたように言う隣で、角名が「タイム測るついでにあの距離を…?」と引き気味に口を開き舌を出す。角名の気持ちは分かる。俺、走らなくてええならあんな距離走らんし。やのに、あの走り込みに着いてくるんやからやっぱり名字さんってちょびっと変な人や。
 ほほお、とその場の数人が関心しているのが気に食わなかったのか、侑は「なんやねんみんなして!」と喚いたので、さっきまで走り込みしてたというのにうるさい奴やな、と視線で語る。「お前うるさいねん」言葉にもしてみれば、侑は癇に障ったらしく、俺を睨みつけてからズカズカと無駄に長い足を躊躇なく動かした。

「あ、ちょお侑…!」
「あいつ、名字さんとこ行きよった!」

 アランくんや銀が狼狽える中、その長い足が向かった先にいた名字さんは侑の姿を確認するなり持っていたバインダーを胸元まで下げる。マネージャー業務を邪魔してまで話しかける片割れは珍しく、俺は侑の方へと一歩を踏み出そうとしていた。それを制したのは意外にも赤木さんで「まあ見とき」と口元に人差し指をあてている。
 
「おい、マネージャー!」
「…なんやねん」
「明日の走り込みで、俺と勝負や!」
「はあ?なんでやねん」
「そんなん、お前が邪魔やからに決まっとるやろ!ノコノコ走り込みについて来よって」
「せやから邪魔にならんように最後尾走ってたやろが」
「うっさいねん!いいから勝負せぇ!負けたら一生ついて来んなよ!」

 どこのガキ大将やねん、と思わず声に出そうになるのをなんとか堪える。隣では赤木さんが耐えきれないとばかりに笑っているし、角名に至っては「絡み方が小学生レベル」と呆れている。

「そもそも走り込みで私はタイム測ってんねん。そんなことしてる暇あるわけないやろ。遊びちゃうぞ」

 侑の威嚇を戯れレベルに感じ軽くあしらう名字さんに、なんだか自分が恥ずかしくなってくる。いやもうほんと、身内がすんません。自分が悪いことをしていないのに謝りたくなる衝動を何とか抑える。侑も侑で、練習に支障が出ることは避けたかったのか、ぐぬぬと口をモゴモゴと動かす。どうやら妥協案を探しているようだった。

「なら今日の練習終わり!体育館二周で勝負や!それならええやろ!?」
「夕飯の準備あるから無理」
「なんっでやねん!」

 会話が完全に構ってもらえない小学生のそれなのだが、侑本人はどうやら気づいていないらしい。それよりも肝心なのは飯がなくなることなので、俺はそうそうに侑を回収しに名字さんへと近寄った。

「お前何名字さん困らしてんねん。いくぞ」
「ちょ、なんやねんサム!やめろや!」
「すんません、名字さん」
「ええよ、治」
「あ、メシ、楽しみにしてます」
「はは、ありがとぉ」

 侑を回収しに行けば、侑はなぜかピシリと体を硬直させたので、これ幸いとペコリと首だけでお辞儀をしてから侑の首根っこを掴みズルズルと部員の元へと引きずっていく。
 いつもの無表情で控えめに手を振る名字さんと俺を交互に見る侑は、壊れたロボットのように同じ動作のみを繰り返す。お前、名字さんのことロボットとか馬鹿にできひんやん。
 「おかえり〜」と一部始終を撮っていたらしい角名に出迎えられて、はっと我に返った侑はバッと俺から距離を取る。ついでに足を踏んづけていった。このポンコツ…!思わず痛みに悶えながら蹲って「何すんねん!」と睨みつければ、侑は「お前…お前…!」と口をはくはくと動かした。
 
「なんで呼び捨てやねん!」
「はあ!?」
「治ぅて呼ばれとったやないか!どういうことや!」

 いや、名字さんそんなねっとりとした呼び方してへんかったけど。思わずじとりと侑を睨む。角名と銀は何ごとかと顔を見合わせていたが、侑が騒ぐ理由が分かったらしく、段々と揶揄いの表情へと顔を変えていく。

「俺、倫太郎」
「あー、俺は結やな」

 そこで俺はようやくああと合点がいく。つまりこの片割れ、まだ名前で呼ばれたことがないのだろう。というより、まともに会話もしていないのだし本人が嫌っているとまではバレていなくとも苦手だと思っていることはバレているはずなので、呼ばれるわけがないのだが。
 これ面倒くさいことになるやつやん、と発狂するであろう片割れを想像して身構える。けれど、待てど待てど侑の喉から声が発せられることはなかった。不思議に思い侑へと視線を向けると、侑は何を言うでもなくただただ呆然としていた。

「え、やば。もしかしてめっちゃショック受けてる?」

 ニヤニヤ顔から一転し、面倒くさそうに顔を歪めた角名に、俺は同意の意味を込めてゆっくりと頷いた。

20230504