その日は、兵庫の街に数年ぶりに雪が降った日だった。
 朝、チャロが鳴く声で起きてみれば、普段なら軽々と上がってこれるはずの階段下で足を引きずっていた。驚いて母親に連絡すると、どうやら寝坊した母が急いでいたところ、出かける間際にチャロの足をドアに挟めてしまったらしい。特にチャロの様子を確認せず出かけてしまったらしい母はW骨折させてしもたかも!Wと慌てた様子でメッセージを送ってきていた。
 母の話とチャロの様子を見て、病院に連れて行った方がいいだろうと判断した私は、2年のグループチャットに部活に遅れると連絡をいれ、チャロとともに数駅離れた動物病院へと向かう。
 動物病院についてすぐチャロの状態を告げれば、獣医が診察室へと案内してくれた。診察にはそれほど時間もかからず、獣医から言われたのは即入院。手術が必要だろう、とのことだった。どうやら足の骨を折ってしまったようだ。幸いにもそこは馴染みの動物病院だったので、獣医は優しく丁寧に入院から退院までの流れを教えてくれた。

「と、いうわけでな。明日も部活午後からになるわ」
「おん、分かった」

 部活に顔を出してすぐ事情を説明すると、銀は「今から抜けてもええんとちゃう?」と私を心配そうに見つめた。というのも、獣医からW入院中は馴染みのものがあった方がいいのでいくつか持ってきてくれないかWと言われたため、明日の午前中に再度病院へ向かうことになったからだった。「急ぎやないから大丈夫」と首を横に振るも、銀は心配そうな目を止めず、それでも私の様子を察したのか分かったと頷いた。

「お前のかーちゃんって、こういう時でも仕事なん?」
「せやね」
「…なんや薄情なやつやなあ」

 ボールをリズミカルに手から離しては受け止める侑に、銀から「おいやめえや」と制止が入る。「人の親悪く言う奴があるかい」と怒った銀に、私はええよええよと手振りした。母は仕事が忙しく、朝は誰よりも早く起き、夜は誰よりも遅く帰ってくる。家は母子家庭なので、母ができないことは当然私がやる。それはいつものことなので気にしていないが、侑のように母をW薄情Wと評価する人たちだって一定数いることも知っている。今回の件は完全に母の不注意で起こったこととはいえ、メッセージを送ってきた母の慌てっぷりを見てしまえば娘としては何も言えなくなってしまうのだ。

「ま、今日の雪で明日の練習もどうなるか分からんけどな」
「凄いよなこれ。数年振りの大雪だって」
「マジか。明日積もるんとちゃう?」

 角名が見せてきた画面に表示されたウェザーニュースの記事を見つめる。そこには、兵庫県内だけでなく全国的に夕方から夜にかけて雪が積もるだろうと予測がたっていた。「今日は早く練習切り上げるかもね」と笑った角名に、すかさず治から「お前は寒いで帰りたいだけやろが」と呆れた声が飛んだ。

「でも、雪降ったんが今週でよかったかもなあ」
「え、なんで?」
「何でって。来週の土曜が北さんらのセンター試験日やん」

 銀の言葉に、角名は思い出したかのように「そういえばそうだった」と体育館の外を見る。雪は相変わらず降り続けていて、うっすらと積もりかけている。それを見た侑が、高く上げていたボールをぽすりと両手に収めて起き上がった。「来週が雪やったら、アランくん、ほんまに滑ってたかもしれへんな」と呟いた侑の言葉に、脳内では尾白さんが「なんでやねん!」と豪快に突っ込んでいる。隣では銀が「だから縁起でもないこと言うなや…」と呆れたように侑の頭を叩いた。

「今日の練習、早めに切り上げるで〜」

 交代の時間になり、角名と銀がコートに入ろうとしたところで、監督の声が体育館に響き渡る。それに隠しもせず喜ぶ部員たちに、監督は「見た目だけでも悲しんどれや!」と叫んだ。

 

△▼△


 翌日起きてみると、昨日降った雪は街を白く染めていた。どうやら大雪とまではいかずともそれなりに積もったらしい。
 スマホを確認すれば、監督から「自主練習にする」と連絡が入っていたので、2年のグループチャットに連絡を入れると、何人かの部員は公共機関が止まり来れないという。双子や銀の住む地区はそこまでではないらしく、参加すると連絡が入っていた。いつまでたっても連絡を寄越さない角名に対し、痺れを切らしたらしい侑がW角名は強制参加Wと一言メッセージを送っていて、それに即座に反応した角名が狐が嫌そうにしているスタンプで返事を返している。
 まあ角名寮生やから、誰よりも学校近いしな、とメッセージのやり取りを見守っていると、角名はそのすぐ下に同じ狐のスタンプを送った。吹き出しにはWおやすみWと書かれており、私は思わず声を出して笑った。メッセージ画面では、瞬く間に侑によるスタンプ攻撃が始まっていた。

 電車は多少遅延しているものの運休することなく動いていたので、私は事前にいくつかピックアップしておいたチャロの愛用品を持って家を出た。玄関には「ごめんね、よろしく」と書かれた紙と、少しのお金。それを財布にしまい、歩き出す。
 チャロの病院に着いて荷物を引き渡した私は、思ったより早く用事を終えた事に驚きながらも、駅の方角へと歩き出す。雪の積もった地面で足を動かすたびにシャリと音が鳴る。その音を暫く楽しんで、何となしに足元から視線をあげると、地元の掲示板が目についた。
 そこには市からのお知らせや探しものなどが掲示されていた。その一角、今月の催しという紙を見て、私は足を止めた。そこには、来週の土曜日の欄にW大学入試センター試験Wと書かれており、括弧書きでセンター試験の会場名が書かれていた。
 そういえば、北さんたち来週センター試験なんやっけ。折角だし、北さんにお守りでも買ってから帰ろかな。
 今日は自主練習なので、顔を出すのが少し遅れても問題はないだろう、と私はスマホを取り出し近くの神社を検索にかける。すると、歩いて15分もしない場所に学業の神様を祀る神社を見つけたので、私はひとまずその神社に向かってみることにした。
 

 目的の神社に着いて辺りを見渡すが、休日の昼間からいる人はおらず神社の中は閑散としている。
 まずは参拝した方がええんよな?参拝の手順って何やったっけと首を捻っていると、脳内の北さんが「二礼二拍手一礼や」と教えてくれる。ぎごちない動きで参拝を終えると、私はさっそく社務所に向かった。
 ずらりと並ぶお守りを見ながら中を見るが、人は立っていない。どれが学業のお守りなんやろう…?と一通り目を向けるも、どれがいいのかいまいちピンとこない。というか、お守りの値段高すぎひん?おみくじが200円やし、同じ値段かと思てたわ。
 これはどっちにしても北さんの分しか買われへんな、とかれこれ悩むこと数分。人の気配を察知したのか、人のよさそうな巫女さんが「どうされました?」と、ひょっこりと顔を出した。それに驚きながらも「先輩がもうすぐ受験なんです」としどろもどろに説明すれば、巫女さんはひとつ頷いてから「ならこちらですよ」とたくさんあるお守りのうちの一つを手のひらで指し示した。その仕草がどこか大人っぽくてなんとなくじっと手元を見つめてしまう。巫女さんって、やっぱりお上品な人しかできないお仕事なんやろか。ぽけっと見惚れていると、巫女さんがクスクスと笑って「買って行かれますか?」と首を傾げたので、私は慌ててお守りの一つを持ち上げた。
 
 鳥居を再びくぐったところで、私のスマホが着信を知らせる。そこにはW銀島Wと表示されており、私は首を傾げながらも通話ボタンをタップした。

「もしもし」
『あ、すまん!テーピングの予備ってどこやったっけ?』
「ああ、それなら倉庫の右奥棚にあるで」
『そう思って探したんやけどな、見つからへんねん』

 困ったように言った銀に、私は「ええ…?」と困惑した声を出しながら記憶を辿る。確か、一昨日まではあったような。その後どうしたんやっけ、と考えてあっ!と思い出す。そういえば、あの棚少し埃っぽくて掃除したんやった。掃除するためにあの箱も部室に一時避難させていたはず。

「ごめん、銀。部室のロッカーの上かもしれん。大耳さんのロッカーの上あたり」
『あー、そこまでは見とらんかった!すまん、見てみるわ!』
「おん。ついでになおしといて」

 銀が『おう』と言った声の後ろから、侑が「ええからはよ来んかい!」と騒ぐ声がする。それに続くように「お前が指変や言うから電話してくれてるんやろが」と治の呆れる声がした。角名の声は聞こえないが、おそらく近くで三人の会話を聞いているのだろう。「部室やって!」と叫ぶ銀の声とともに切られた電話に苦笑いをしつつも歩いていると、再びスマホが音を鳴らす。
 今度は誰や、と画面を確認すると、そこには2年のグループチャットのさらに上に、“北”とシンプルな名前が表示されていた。それに心臓が跳ねて、私は思わずスマホの画面を落とす。
 え、北さん?なんで?
 普段連絡を寄越さない北さんからの連絡に、私はバクバクとうるさい心臓を押さえつけるように片手で抑える。もう一度画面をつけて確認してみると、簡易表示の欄で全てが読めてしまうくらい短い文章でW雪、大丈夫かWと送られてきていた。北さんの住んでいる地域は日陰が多いので、おそらく北さんの家の周りではそれなりに雪が積もったのだろう。
 
 返事をしようと既読をつけようとした瞬間、視界の端に小さな影が映り込む。少し視線を上げた先では、小学生くらいの男の子がバレーボール片手に歩いていた。
 小さい動きでボールを空に向かって上下させながら歩く姿はどこか危なっかしい。それでも鼻歌を歌いながら歩く小学生に、こんな雪の中でバレーしようとするヤツ他にもおるんやな、と今頃体育館で練習しているであろう同級生を思い浮かべる。小さくハハハと声を出して笑ったところで、私の視線はピタリとその後ろで止まった。
 先ほど小学生が歩いてきたであろう道の端、電柱の側に、男が一人、立っていた。その姿を捉えた瞬間、ぶわりと身震いをする。猫であれば全身毛が逆立っていただろう。男の表情はあまり見えないが、どこか恍惚しているようにも見えた。それを視界に捉えた瞬間、私の脳内ではW不審者WW小学生Wと、どこかで聞いたワードが思い浮かぶ。まさか、嘘やろ。自分が遭遇するとは思っても見なかった。しかも、こんな真っ昼間に。

 気づけば私は、小学生の手をとり走り出していた。突然腕を引かれた小学生が、「痛いねんけど!?何!?誰!?」と混乱しているのを「黙って振り返らんと走れ!」と怒鳴りつける。その言葉選びが悪かったのか、小学生は「はあ!?」と言いながら後ろを振り返り、その顔を青くした。

「まって、姉ちゃん、あの包丁もった人なんなん!?」
「ハァッ!?」

 まさかの追加情報に、私の脳内がパニックを起こす。包丁?今この小学生包丁言うたか!?驚いて後ろを振り返ると、男が包丁を持って走ってくる瞬間だった。嘘やろ、まじか。脳内は煩く言葉を発しているというのに、実際の私は口も動かさずにただひたすら足を動かす。キョロキョロとまわりを見渡せば、歩道橋を渡った先に交番があるのが見え、私は慌てて体を捻り、歩道橋へと走る。
 それほど足が早くないらしい男も、階段を駆け上がる私たちとの差を徐々に縮めていく。ちょっと本当にやばいかもしれん、と焦っていると、それに気づいた小学生が「姉ちゃんちょお止まって!」と私の腕を振り払い、バレーボールを男に向かって投げつけた。それにグッと唸り声をあげて蹲った男に、私たちは慌てて再び走り出す。この先の階段を下れば、すぐ側は交番だ。
 駆け降りようと階段の一段目に足をかけた私たちの後ろから、「ふざ、けんな!」と怒声が聞こえる。逆上した男が近づいてきているのだ、と頭はどこか冷静に今の状況を分析していた。
 視界の端で、男の腕が小学生に伸びる。腕を掴もうとしたのか肩を掴もうとしたのかわからないその手は、勢いよく小学生の背中を押した。
 ――まずい、落ちる。
 階段に積もった雪がジャリと音を立て、足が浮いた。そう頭が理解したのと、小学生の腕を引き抱きしめたのはほぼ同時で、私は抱き止めた小学生の肩越しに男を見る。男は勢いあまって転倒したのか、その場に倒れ込んでいた。あれならきっと、すぐには起き上がってこない。安堵して力を抜いた途端、視界いっぱいに見えたのは青い空と白い雲。あ、そういえば私。北さんに返事、返してないや。
 
 それ以降、私の記憶はない。

20230531