目が覚めたら、知らない天井が見えた。
 昔、そんなことを言っていた同級生がいたけれど、まさか自分が言う日が来るなんて。ピントが合わないカメラのような視界でぼうと天井を見つめる。木目の目立つその天井は、富田のおばあちゃんちを思い出させる。
 状況が理解できないままぼうと天井を見つめること数秒。ようやくピントが合ってきた目に写ったのは、まるで鏡写しのような自分の顔だった。

「……!?」

 人間本気で驚くと声が出ないというのは本当だったらしい。この短期間で二つも実証されてしまった。がばりと起き上がった私と瓜二つの顔を持つ目の前の少女は、目を瞬かせてからケラケラと笑った。いや、確かに笑ったのだが。まるでそこが消音になったかのように、声だけが聞こえなかった。
 驚いて固まったままの私に、少女は首を傾げる。そしてああと納得したように頷いてから、彼女は自分の腕をこちらにずいと向けた。
 彼女の腕は、透けていた。どうやら幽霊らしい。もはやキャパオーバーの脳みそでなんとか処理しようと脳みそを回転させていると、彼女は私の腕を指差した。
 
 あ、なんだ、私も透けてるじゃん。
 
 一周回って冷静になった私は、ふっと乾いた笑みを浮かべる。なるほど、つまり私は死んだのか。ならここは天国?いやでも、天国にしては日本ぽい、というか、田舎のおばあちゃんちみたいというか。
 ううん?と首を傾げた私の顔の前で、幽霊の彼女がヒラヒラと手を振った。それに視線を上げると、彼女は私と視線が交わったことを確認してから腕をめいいっぱい伸ばしてある一点を指さした。
 
 彼女の腕の動きに沿うように視線を動かした先――家の縁側に、座り込む男が一人。その人は、まるで農作業をするかのような服装でぽけっと青空を見つめていた。
 その後ろ姿は成人男性のようだったけれど、キラキラと輝くあの銀灰色の髪を、私はよく知っていた。

「…北、さん?」

 ようやく絞り出した声は、自分の目の前にぽとりと落としてしまいそうなくらい弱々しかった。思わず喉に手を当てていると、僅かにでも届いたらしい声に反応したその人が、くるりと頭をこちらに向けた。

「なんや、目が覚めたんか」

 ふ、と笑みを浮かべた北さんに、目を瞬かせる。北さんが笑ったの、なんや久々に見た気がする。ぽけっと北さんを見つめていると、北さんは混乱してる私に状況を説明してくれた。
 曰く、農作業を終え部屋に戻ってみると、私が寝ていたのだと。本当はちゃんと布団に寝かせたかったが、なぜだか透けていて、触れられないから仕方なく転がしておいたのだと。
 じゃあなに、ここは天国ではなく未来ということ?と、絶句していると、北さんは迷うことなく頷いた。

 じゃあ、私の隣で「そういう事です」と言わんばかりの顔で頷いているこの人は誰やねん。いや、分かるで。分かっとるんやけど、なんや認めたくないやん。
 多分、この子は私だ。それも、この世界で死んでしまった私。
 いつからここにいて、北さんに憑いているのかは分からないけれど、そう考えれば突然未来の北さんから電話がかかってきた事も、私が今ここにいることも説明がつく気がした。

「そんで、自分なんでこないなとこおるん?」

 不思議そうに説明を求めた北さんに、今度は私が説明をした。小学生を狙った不審者に追いかけられたこと、交番に駆け込もうと歩道橋を渡った事、その階段から落ちた事。
 話せばだんだんと頭もクリアになってきて、ようやく自分の置かれた状況を整理できたような気がした。そうして感じた疑問を、私はぽつりと呟いた。

「…北さん。私、死んだんやろか」
「……」
「北さんの言うとおりにしたで。ちゃんとは守ってへんけど。でも、まだ北さんの返事オッケーしてへん」
「……」
「なのに、結果は同じやったんですか?なら、私、なんのために自分の気持ち抑えてまで北さん待たせてたんか分からへん」

 死ぬならせめて、ちゃんと好きと伝えてから死にたかった。視界がぼやける。幽体でも涙って出るんやな、とどこか他人事のように落ちる雫を見つめていた。

「多分、みょうじはまだ死んでへん」

 長い沈黙ののち、ようやく口を開いた北さんの言葉に、私はポカンと口を開けたまま北さんを見つめる。北さんはそんな私の表情がおかしかったのか「どんな顔してんねん」と困ったように笑っている。

「なんで、言い切れるんですか?私、幽霊やないですか。体スケスケですよ」
「体スケスケなんは、この世界にみょうじの体がないからやろ」

 北さんがスケスケって言うた…。北さんの発言に衝撃を受けていると、北さんは「ちゃんと理解できてるか?」と今度は呆れたように言った。果たしてこんなに表情筋の動く北信介を見たことがあっただろうか。記憶の限りでは覚えがない。
 北さんはポカンとする私を気にせずに「死因も違ってるしな」と呟いた。え、そうなん?私、この世界では違う死に方したん?

「要は、今みょうじは何らかの理由で魂だけがこっちに避難しにきてる状況なんやと思うねんけど」

 そこんとこどうなん?と、北さんは首を傾げる。北さんからしたら、本人に聞いてみるのが手っ取り早いと判断したのだろう。けれど、私は今未来に幽体――いわば魂だけの状態で迷い込み、これまた未来の北さんと会話をするというSFファンタジーな展開を迎えている最中だ。
 私自身が全くもって心当たりのないのだと思っているのが分かったのか、北さんははあとため息を吐いてから「まあ、せやろな」と肩をすくめる。

「きっかけさえ分かれば帰れるやろ。それまでこの家におればええよ」
「え、ええんですか…」

 ええから言っとるんやろ、と北さんは笑う。そんな北さんはやはり気づいていないのだろう。先ほどからもう一人の私が、寄り添うようにして隣で見守っているなんて。

 

△▼△


 北さんの家での生活は、不自由なく過ごしている。というのも、幽体ならお腹は空かないし、トイレにも行きたくならない。試しに睡眠を取ってみようとしたら、普通に眠ることができたので、睡眠だけは北さんと同じリズムで取るようにしている。
 そんな生活も、今日で3日目。北さんの隣には相変わらずもう一人の私がいる。北さんを見守っているだけかと思いきや、思ったより好き勝手しているようで、この前は北さんが首に巻いたタオルの先端を浮かせて遊んでいた。力加減を間違えたのか、ビタン!と音を立ててタオルが北さんの顔面に直撃していたけれど、北さんは「風強いな」と気にも留めておらず、おかげでこっちは笑いを堪えるのに必死だった。

「北さん、こんにちは」
「治か?今手が離せへんねん。入ってきてええよ」

 お邪魔します、とやってきた青年は、短い黒髪で、私の知っている治とはだいぶ印象が違う。けれど、テーブルに置いてあるお菓子に一目散に気づいて強請っている姿を見て、ようやく未来の治なのだと腑に落ちた。
 おにぎりどうぞ、と北さんに渡している姿から、治は夢を叶えたらしい。ついこの間まで侑と喧嘩を繰り広げていたのを知っているので、なんだか感慨深い。
 北さんと治の話は、専ら治の持っているお店についてだった。「この間北さんがくれた野菜でお浸し作ったら評判よくて」なんて話す治は立派な商売人の顔をしている。

「そういえば北さん、お見合いの話どうなったんです?」
「…なんでお前が知ってんねん」
「この前会うた時に北さんのお婆さんが言ってましたよ」

 えらい別嬪さんて聞いてますけど、と言った治に、北さんは気まずそうに視線を湯呑みに向けている。もしかして私、空気読んで外でてたほうがええのかな。外出たことないから出れるかわからへんけども。
 よっこらせと腰を上げると、それに反応した北さんが「待て!」と声を荒げる。それにビクッと肩を跳ねらせたのは私だけではなかったようで、治がびっくりしたように「え、北さん、どないしました?」と目を見開いている。

「…や、すまん。なんでもないわ」

 ふう、と小さく息を吐いた北さんは、チラリと私へ視線を向ける。その視線は一瞬で治へと戻ってしまったが、どうやら私はここにいてもいいらしい。本当にいいのかな、なんて考えながら、私はチラリと北さんの左隣に視線を向ける。そこに当たり前のように座るもう一人の私は、全く物怖じせず北さんの隣でニコニコ笑っていたので、私も大人しく腰を下ろした。

「もしかして、まだみょうじの事引きずってるんですか」
「……」

 黙りを決め込む北さんに、治ははああ!とわざとらしくため息を吐くと「無言は肯定とみなしますからね」と肩をすくめる。

「転校した思てたヤツが実は死んでました、なんてすぐに受け入れられる話やないのは分かります。けど、最近の北さん、なんやらしくないですよ」
「……」
「みょうじだって、北さんが幸せの方がいいに決まってます。だってあいつ、ほんまに北さんのこと好きやったんですから」

 真面目な顔で言う治は、北さんの膝の上で拳が握られたことに気づいていないのだろう。北さんはふっと脱力したように息を吐くと「せやな」と頷いた。けれど、考えてみるわ、と笑った北さんの声は、微かに震えていた。


 治がいなくなった部屋で、北さんは暫く動かなかった。聞きたいことは沢山あったけれど、多分、私の聞いてはいけない私の話な気がして口を噤む。

「…なあ。俺らしいって、なんやろな」
「北さん?」
「みんな言うねん。アランも、大耳も、赤木も銀も。らしくないなって」

 そう言って、北さんは徐に首元に手を当てた。それを慌てて止めようと手を伸ばして、手がすり抜けたことに驚いていると、北さんは目を瞬かせてから「自殺願望はあらへんよ」と小さく笑った。そのまま首、ではなく作業着の襟に手を突っ込んだ北さんの手には、ネックレスが握られていた。

「これな、みょうじに渡そう思て買うたんよ」
「え?」
「赤木にすすめられて買うたんやけどな、結局渡しそびれてしもうたなあ」

 流れるようにネックレスを首から外した北さんは、テーブルの上に優しくそれを落とす。その軽い音は、いつか電話がかかってきた際に聞こえたあの音に似ていた。きっと、あの時もこのネックレスを机に置いていたのだろう。「まあ、高3やったし、バイトもしてへんかったから安もんやけどな」と笑う北さんに、私はパズルのピースがかちりとハマったような気がした。

「北さん」
「なんや」
「そ、そのネックレス、私にくれませんか?」

 北さんは、訳がわからないといった顔を隠さずに「なにいうてんねん」と眉を顰めた。けれど、私は分かってしまったのだ。チラリと盗み見れば、北さんの隣でニコリと笑うもう一人の自分。残念ながら、彼女には伝える手段がない。ならば、と、彼女が伝えられない分まで私は言葉を北さんへと向ける。

「私、北さんに一生忘れるななんて言えません。むしろ治の言う通り、北さんには幸せになってほしいと思います。それはきっと、この世界の私も同じやと思います」
「…そぉか」
「けど、私はわがままなので、そのネックレスだけは絶対に欲しがると思うんです。それこそ、成仏せずに居座るくらいには」

 この世界の私がここに居続ける理由。私を呼んでまで叶えたかった願いは、きっとこのネックレスなのだろう。きっと私は、北さんの彼女であった証が欲しかった。それこそ死んでもなお。自分のこととはいえ、我ながら恐ろしい。

「北さんが結婚しようが独身でいようが関係あらへん。私は、そのネックレスだけを持っていって天国で自慢するんです。大好きな人から貰たんや!って」

 私は、立ち上がり、彼女のそばへと歩み寄る。視線を向ければ、彼女は察したかのようにすくっと立ち上がった。立ち上がった彼女に合わさるように、私はその場に立ち北さんを見つめる。
 きっとこの願いが叶えば私は、もとの世界に戻るのだろう。それは少し寂しい気もするけれど、私は、私の世界で会いたい人がいる。

「北さん。大好きです」
「…は」
「私だって、ずっとずっと大好きです」

 北さんと最後にした電話の会話をなぞるように、私は告げる。北さんは、私の言葉に目を見開くと手で口元を覆った。「そないなこと、今まで一度も言わなかったやん」モゴモゴと呟いた声は、ぽつりぽつりと聞こえてきたものの、何を言っているかまでは聞き取れない。
 やがて北さんははああ、と大きなため息を吐くと、そっと目を閉じた。そのまま数秒。ゆっくりと瞼を上げた北さんは、吹っ切れたような顔をして私と向かい合う。

「ええか、その言葉は帰ったらちゃんと俺に言うんやぞ」
「えっ!?」
「えってなんや。俺に言えてそっちの俺に言えへんことはないやろ」

 いやまあ、それはそうなんやけど。歯切れの悪い返事を返した私に、北さんは目尻を細めて笑う。
 北さんは、机に置いていたネックレスを手に取り、金具を弄ると、両手で広げるようにして持ち上げた。その両腕が、私の――もう一人の私の、首にかかる。

「北さん、似合うてる?」

 まるで私の口ではなくなったような錯覚。きっとこれは、もう一人の私である彼女の言葉なのだろう。北さんはゆっくりと目を見開いてから、ゆっくりと瞬きを一つしてふわりと笑う。

「世界一似合うてるよ」

 暖かな光が、部屋を照らす。笑ったのは私か、もう一人の私か。けれど、これが満たされるということなのだと、私は薄れていく意識の中で確かに感じていた。

20230603