遠くから、声が聞こえる。
 
 喧しい声、それを宥める声に笑い声。たくさんの声が混ざり聞こえてくるけれど、その声が誰のものなのか全く分からなかった。どうやら脳みそはまだ寝ていたいと完全に仕事を放棄しているらしい。身じろぎしようと動かした体は鉛のようで動かなかった。
 それでも、起きなければいけないことも分かっていて、私はなんとかぐずる脳みそを起こしながら体を動かしてみる。かろうじてピクリと動いたのは手の指だろうか。
 なんだかまるで、何ヶ月も体を動かしていないみたいに体の動かし方を忘れてしまっている。さてどうしたものかと考えていると、あれだけ聞こえていた喧しい声が聞こえなくなっていた。もしかして、聞こえていたことが夢だったのだろうか。ならば、もう少しで私は夢から醒めるのだろう。その目覚めをゆったりと待っていると、力の入らない手のひらが握られる感覚とともに、どこか懐かしい声が鼓膜を刺激した。
 
 ――みょうじ。そろそろ起きや。
 
 はい、と返事をしたいのに、まるで口が接着剤でくっつけられたかのように動かない。返事ができないことをもどかしく思っていると、夢だと思っていた喧しい声が再び聞こえてきた。「みょうじ!」「おいコラ起きんかい!」「ちょ、ここ病室やって!」「大丈夫でしょ。それに、このくらいうるさくしなきゃみょうじは起きないよ」「授業中も寝たら起きんと最後まで爆睡してるタイプやでコイツ」「えっ、そうなん…?」いや、うるさいねん。そして何を暴露してくれてんねん。てか誰や私の体を容赦なく揺すってんのは。そのせいでなんや知らんけど腕がチクチクと痛いねん、もうちょい優しく起こせや。
 いまだに止まない声に、私の意識は一気に浮上する。まるで背中を下から勢いよく押されているような感覚だった。瞼が震える。さらに喧しくなった声に返事を返すように、ゆっくりと瞼を持ち上げた。

「…キキララ…?」
 
 ぼやけた視界でかろうじて確認ができたのは、金髪と銀髪の同じ顔。覚醒しきらない頭では誰だかはっきりとせずに思わず双子のキャラクター名を呟いた。その声は掠れていて聞き取れなかっただろうに、目の前の双子は示し合わせたかのように「誰がキキララじゃ!」と声を揃えて叫んでいる。いやだからうるさ。そろそろ私の鼓膜破れるて。

「侑、治。喧しい」
「ンウィッス!」

 ぼうとする頭で周りを見渡すと、ベッドを巨人が取り囲んでいた。いやこわい。巨人に食べられる前の恐怖ってこんなんなんやろな。そんな現実逃避をした矢先、そんな巨人たちの中にしゃがみこんで双子に厳しい目を向けている人物を見つけた。その人は、双子に視線を向けたままぎゅっと私の指先を握りしめている。
 ああ、そうだ。さっき感じたのは、このぬくもりだ。

「…た、さん」

 私の声に反応した北さんが、こちらを振り返る。なんだかその顔が幼く見えた気がしたけれど、理由は分からなかった。

「おはよう、ございます」
「…おん、おはよう」
 
 北さんは私の顔を見るなり「すまんな、今看護師さん呼んでくるわ」と慌てて立ち上がった。「いや、ナースコール押せばええやろ」と冷静に言った大耳さんの隣で、尾白さんが「や、まあ信介がテンパるのも分かるわ」と苦笑いを浮かべた。
 北さんの慌てように、銀と角名がギョッとしている。双子も珍しいものを見たかのように目を大きく開け「北さんもテンパることあるんやなぁ」とヒソヒソと呟いた。
 このメンバーで騒いでいるのは見慣れていたはずなのに、なんだか酷く懐かしい。三年生が引退してしまってから、こんなに騒がしかったのはいつぶりだろうか。まるでまとまりのないその会話に、私はきゅ、と手先に力を入れる。それに気づいた北さんが「みょうじ?」と私の顔を覗き込んだ。

「みんなが喧しいから、起きてしもたわ」

 きっと私の言葉は掠れてほとんど言葉になっていなかっただろう。掠れた声がおかしくて、ふはっと笑った私に、みんながポカンと口を開ける。そんな彼らの騒ぐ声は外まで聞こえていたらしい。「はいはい聞こえてるでー!自分らはよ外出てなー」と容赦なく病室のドアを開けてやって来た看護師にその巨体が追い出される。それすら面白くて、私は掠れた声で笑い続けた。

△▼△


 どうやら私は、足を滑らせて1ヶ月眠っていたらしい。そりゃ手足は動かなくなるわけだし、声も出なくなるわけや。医師の説明を聞きながらそう思った。
 とはいえ、体に異常があったとかそういった事ではないらしく、ただ単に眠り続けていただけなのだという。

「みょうじが無事でよかったよ」

 はいこれ、と角名から渡されたプリントには春休みの部活のスケジュール。えっと驚いた顔を向ければ、角名は「春休みには部活参加できるでしょ?」とさも当然のように言った。

「嘘やん、私怪我人やぞ」
「なぁ〜にが怪我人や!眠りこけてただけやろ」
「看護師さんも『よう寝てるねぇ』って呆れてたで。寝坊助にもほどがあるわ」

 ぐっと言葉を詰まらせた私に「かわりにマネ業務してた一年泣いてたで」と侑から呆れたように言われ、申し訳なさに黙りこむ。
 
「そういえば、みょうじはなんであんな場所にいたわけ?」

 動物病院からかなり離れた交番だったって聞いたけど?と追い打ちをかけてくる角名に、私はそろりと目を逸らす。たらたらと汗をかく私に銀がオロオロと「び、病人やねんからやめとけて…」と声をかけている。ありがとう、銀。あんただけやで、私を心配してくれんのは。
 しかし、侑はそんな一言では止まらない。私の反応を見てやましいことだと勘違いしたのかベッドに乗り上げる勢いで「いいから白状せえ!」と私の両頬を掴んだ。

「じ、神社に…」
「神社ぁ?」
「神社に、お守り買いに行ってた」

 言い終えてから、やけに部屋がしんと静まり返っていることに気がついた。双子と銀ははぽかんと口を開け不思議そうにこちらを見つめている。だんだんと顔が赤くなるのが分かって、顔を背けようにも侑の手により顔が固定されてしまっていて動かせない。羞恥で震えそうになる体をなんとか抑えていると、一部始終を見ていた角名がぷっと吹き出した。

「何それ。みょうじ、北さんのこと好きすぎでしょ」

 そのまま笑った角名に目を逸らす。侑は角名と私を交互に見つめながら、そっと私の頬から手を離した。そのまま双子がゆっくりと互いの顔を見つめて数秒。「はあ!?」と至近距離で叫ばれた私は思わず耳を塞いだ。

「お、お前…!北さん好きやったん!?」
「は、はぁ!?なんでや!好きとは限らんやろ!」
「いや、さすがに無理あるて!」
「え、つまり北さんのためにお守り買いに行ったってことやんな!?」
「は!?そんなん、北さんのこと大好きやん!」

 双子が叫び、銀が絶句したかのように固まった。笑い声を上げる角名にじとりと視線を向けていると、双子は未だ衝撃から抜け出せていないらしく「あの北さんを好きになる要素ってドコ?」「女ってよう分からん」と首を傾げていた。おい、色々失礼やろが。

「で、その北さんたちの卒業式、明日だけど」
「ああ、ウン…」
「どうするの?」

 どうするの、とは。角名に視線を向ければ、角名は真面目な顔でじっとこちらを見つめている。つい先日目覚めたばかりの私の退院は、北さんたちの卒業式には間に合わないらしい。本当は参加したかったけれど、行けないのなら仕方がない。

「どうするもなにも、おとなしく病室からメッセージでも送っとくわ」
「…ふうん?」

 ちらり、と角名が双子を見た。団子のように固まってヒソヒソと話していた双子は、角名の視線を受け止めてから互いの顔を見る。ピコン!と頭上にびっくりマークが見えそうなくらいの反応をした双子に、私は気づかなかった。

△▼△


 病室の窓から、暖かな風が入り込む。病室から見える穏やかな空は、まるで卒業生の門出を祝っているようだった。
 そんな空を眺めていると、私はぼんやりと誰かの背中を思い出す。それが誰かは分からない。けれど、どこかでこんな青空を誰かと見た気がしてついぼうと見つめてしまうのだ。

「みょうじ」

 病室の入り口から、私を起こしたその声が聞こえた気がして、私ははっとそちらに顔を向ける。スライドされたドアの側に、学校にいるはずの北さんが立っていて、私は目を見開いた。

「…え、北さん?」
「おん」
「なんで、卒業式は?」
「終わった」

 卒業式ってこんな早く終わるっけ、と思っていると、北さんは私の疑問を解決するかのように「侑たちに追い出されたわ」と続ける。
 いや、あっさりと先輩を追い出すのはどうなん?と彼らの行動に若干引いていると、北さんがその足を大きく広げてベッドまでの距離を一気に縮めてくる。あっという間にベッド側に立った北さんをぽかんと見上げていると、北さんはふわりと笑った。

「で、みょうじは言うてくれへんの?」
「えっ、あ、卒業おめでとうございます」
「ん、ありがとう」

 北さんはそのままベッドをぐるりと半周してから椅子に座る。窓の外から見える空と、北さん。なんだかその光景が妙にしっくりきてしまって、私はぼうと北さんを見つめた。

「そないに見られたら穴があいてしまうわ」
「あ、そ、そうですね」

 どうかしたんか、と首を傾げる北さんに、私はフルフルと首を振る。なんで空と北さんがお似合いに見えたんやろ、と不思議に思っていると、北さんが思い出したかのように「せや」とこちらに視線を向けた。

「みょうじ、あの日神社に行ってたんやってな」
「えっ!?どうしてそれを…!?」
「角名から聞いた」

 す、角名…!余計なこと言いおって!ぐっと握り拳を作っていると、「メッセージ送ったのに返事ないし連絡きた思たら病院て、びっくりしたわ」と北さんは肩を竦める。どうやら相当心配をかけてしまったらしい。まあ、そりゃそうか。危うく連絡がつかないままあの世に行くとこだったのだから。

「こっちはほんまにヒヤヒヤしたんやで」
「す、すみま、」
「なんで謝んの?」

 私の声を遮って言った北さんに、ウッと言葉を詰まらせる。春高での双子と北さんのやり取りを思い出して、私はハッと口を手で覆った。
 私は、あの時の判断が間違っていたとは思わない。結果、少年は交番に駆け込み怪我もなく無事だし、男は現行犯で逮捕された。全て母伝てに聞いた話だけれど、私はそれを聞いて、後悔なんてなかった。
 北さんは、それが分かっている。侑たちだって、なんだかんだ言っても判断が間違っていたとは言わなかった。

「怖かったやろ」
「…!」
「一人でよう頑張ったな」

 ぽん、と頭に手を乗せられて、じわりと私の視界が歪む。そのまま控えめに手を動かした北さんのぬくもりを、私はずっと待ち焦がれていたような気がした。
 ズビ、と鼻を鳴らした私に、北さんの困惑した声が聞こえた。ちらりと向けた視線の先では、青空を背に北さんが困ったように笑っている。
 ――帰ったら、ちゃんと言うんやぞ。
 ぶわりと記憶が駆け巡る。その言葉が誰の言葉かまでは分からなかったけれど、その声を間違えることはない。寝ている間、確かに私は北さんに守られていた。

「…きたさん」
「おん」
「きたさん」
「なんや、どうした?」
「好きや」

 ポロポロと雫が落ちるのもお構いなしに「大好き」と言葉を続ける。
 北さんは私の言葉に、撫でていた手を止めた。頭上で動かなくなった手を不思議に思っていると、北さんはその大きな目をさらに大きく見開いて固まっていた。

「…まさか、返事もらえるとは思ってへんかった」
 
 へ、と口を開いた私に、北さんは口元に手を当て目を逸らす。「こんな状況やし、返事はいつでもええと思ってたんやけど」と、口の中でボソボソ呟く北さんの耳はほんのりと赤くなっていた。
 き、北さんでも照れることあるんや…。思わずぽかんとその顔を見つめていると、北さんは居心地が悪そうに体を揺らす。

「ありがとぉ」

 落ち着かない様子で後頭部を撫でた北さんがはにかんだ。こてりと首を傾けたことで、北さんの前髪が揺れる。北さんの胸元で、コサージュがカサリと音を鳴らした。

20230613