君との距離を求めよ

 死に物狂いで学期末のテストを乗り越え、インターハイを二日後に控えた今日。昼休みを終えたばかりの授業はどうにも身が入らない。
 呪文のような単語をつらつらと話す先生の声を子守唄に授業を寝て過ごし、教室に戻るべく欠伸をしながら角名と廊下を歩いていると、3年の教室に続く階段から下りてくる北さんに遭遇した。慌てて涎を拭うように口元に手を当ててシャッと背筋を伸ばす。その隣で角名がぼそりと「この人まじで急に現れるな」と呟いた。ほんまにな。不意打ちは心臓に悪いて。
 バクバクと忙しない心臓を落ち着かせるように北さんに挨拶すれば、北さんは俺らを視界に捉えて「ちょうどええわ」と俺と角名の間に一冊のノートを差し出した。え、ノート?俺のちゃうけど。困惑したままちらりと角名に視線を向けると、角名も心当たりがないのかフルフルと首を横に振った。

「あの、このノートなんですか?部誌…ではないですよね」
「おん。俺のノートや」
「俺の…って、北さんの?」
「そう言ってるやろ。これ、みょうじさんに渡しといてほしいんやけど」

 角名と北さんが離している隣で今日の夕飯について考えていたら、突然北さんの口からみょうじさんの名前が飛び出した。あ、はい、みょうじさんですか。…えっ?みょうじさん?驚いて「はい!?」と叫んだ俺の脇腹に、角名がすかさず肘打ちを入れる。

「ッダ!?」
「治、みょうじさんと仲良いんで。渡しといてくれるそうです」
「エ?あ、ハイ!もちろんです!」

 治が?と首を傾げる北さんに、コクコクと首を振る。北さんは俺が頷いたのを見て、すまんなとノートを俺の手元へ向けた。
 受け取ったノートの表紙には丁寧に北さんの名前が記されていた。その名前のすぐ上に2年と書いてあることから、北さんが去年使っていたノートらしい。テストが終わったばかりなのになぜ?と思ったが、それを言うと100倍にして言葉を返されそうなのでつつくのはやめた。
 知らん先輩より同級生に渡される方が気を使わんで済むやろ、と真っ直ぐ俺を見る北さんの手からノートを受け取る。そうや、俺が任されたということは、みょうじさんとインハイ前に話す機会を得られたっちゅうことやんな。それに気づいた俺は、「任せてください!」と力強く頷いてみせる。その返事に満足した北さんは、ふと表情を柔らかくして「じゃあ、任せたで。あと授業中は寝るんやないぞ」と俺たちに釘を刺し、3年の教室へと戻っていった。角名と顔を見合わせる。…いや、なんで寝てたことバレてんねん。

△▼△


 なんだかんだで放課後になってしまった。部活に遅れることを角名に伝えると、角名はニヤニヤとこちらを見て「ま、がんばれ〜」と一足先に部活へ向かった。まあ北さんの頼みごとなので多少部活に遅れても文句は言われまい。
 思ったより7組の教室は遠く、部活や帰宅で廊下を歩くたくさんの生徒とすれ違う中ひたすら廊下を歩く。もしかして、みょうじさんももう部活行ってしもたやろか。そんな不安を抱えながらそっと廊下から7組の中を覗き込むと、教室の後ろで黒板を消すみょうじさんを見つけた。その姿を見つけほっとしていると、そんなみょうじさんの側に椅子に座ってなにやら話し込む2人の女子がいることに気づく。顔は見えないが、おそらくみょうじさんとよく行動を共にしている女子だろう。
 彼女たちはどうやら恋バナをしているようで、「だからな、うち、夏休みに告ろうと思うねん」と意気込む女子に「おー、頑張れ頑張れ」ともう一人が声をかけている。みょうじさんは、そんな2人に視線を向けることなく黒板消しを持つ手を左右に動かしていた。
 いやでも失恋したらどないしよぉ、とみょうじさんの友人が、彼女の腰に巻きついた。友人にようやく反応したみょうじさんは「そん時はそん時でしょ」と苦笑いしている。それでも黒板を消す手を止めないところを見るに、どうやらみょうじさんはあまりこういった話題は好きではないようだ。椅子に座っていたもう一人の女子が「いやもうちょい興味持ってあげて?」と笑っている。
 そんな2人の反応を背中で受けたみょうじさんは、「あはは」と謎に乾いた笑いをこぼしながら黒板消しを置くと今度は流れるようにチョークを掴み消した箇所に明日の時間割を書いていく。どうやら彼女たちは放っておくことにしたらしい。ところで俺、そろそろ教室入ってもええやろか。チラチラと扉から様子を伺っていると、椅子に座ったままの女子が「そういえば」と話題を変えた。

「なまえ、最近治くんと仲ええの?」
「治?なんで?」
「この前、教室で話してるの聞いたって2組の子が騒いでたで」

 突然出てきた俺の名前に、踏み出そうとした足を慌てて止める。まさか恋バナから自分の話題になるとは。驚いて咽せそうになるのをなんとか堪えながら聞き間違いか?と耳をすませた。

「それならうちも聞いたで!なんやなまえお出かけするらしいやん!」
「おでかけっていうか、まあ」
「春や、なまえにも春きてるやん!」

 一気にテンションが上がった彼女の友人たちが興奮気味に彼女の肩を揺すっている。みょうじさんは肩を揺すられながらも「いやいやそんなんじゃないって」と否定しているが、彼女たちは聞く耳を持たない。むしろいやいやいや!と勢いを増していた。
 
「そもそもなまえが男子を名前で呼ぶなんて珍しいやん」
「そうそう!治くんがはじめてちゃう?」
「や、でも待って。相手はなまえや。期待しすぎはあかん」
「…ハッ!せやな。一回落ち着こ」

 落ち着こ、なんて言いながらも彼女たちの興奮はおさまらないようで「あいつら双子やし、見分けるために治って呼んでるだけとか…?」「いやありえへ…いや、なまえならありえる…」「本当になんでもない可能性あるで」「えー、そうかなあ。そうなん?なまえ」みょうじさんが声をかける隙もないくらいに会話を続ける2人に、みょうじさんは片手にチョークを待ったまま「うん待って、一度話聞こうか?」と2人の口を手で塞いだ。口を塞がれた2人が先ほどまでのマシンガントークが嘘のようにサッと黙り込む。きっとこの一連の流れが日常茶飯事なのだろう。
 騒がしかった教室が一気に落ち着きを取り戻したのはいいものの。完全に出ていくタイミングを逃してしまった俺は、ノート片手に教室の扉に背中を張り付けている。「治くんといえば、バレー部明後日から大会だねえ」と彼女たちの話題がインターハイに向いたのを聞いて、ホッとする。よし、この話が終わったタイミングで教室へ踏み込もう。

「なまえ、今年も全校応援不参加なん?」
「うん、行かないよ」
「ええ〜そうなん?治くん泣くで」
「いや、泣かないでしょ」

 泣きはしないが少しへこみました。そう心で会話に混ざりつつも俺の話はこれ以上勘弁してくれと内心冷や汗をかく。すると、彼女の友人の1人が「なまえ、他校の応援行くらしいで」と聞き捨てならないことを言い出した。他校?バイトやなくて?ギュ、と握りしめたノートがよれたのにも気が付かずに、俺はその場でじっと気配を殺し彼女たちの会話を聞く。まるで俺の心とシンクロするようにええ〜!と驚いた声を上げた彼女の友人は、「他校の応援なんて行ってたらそれこそ治くん泣くで!?」と声を大きくした。
 いや、そんなことな、アカン。ちょっと泣きそう。とりあえず男の応援か女の応援かだけでも知りたい。そう思いながら聞いていると、突然教室中に背筋が痒くなるような音が響いた。どうやらチョークを黒板に擦ってしまったらしい。思わず耳を抑える。教室の中では、彼女の友人たちが「うわ、ちょ、うるさっ」と同じように耳を押さえていた。みょうじさんは「あ、ごめん」とへらりと謝ると、チョークを置いて「終わり〜!おまたせ!」と、片手についたチョークの粉をはらう。
 
「あ!なまえ、時間合わせて駅で会おうや!プチ旅行しよプチ旅行!」
「ええ〜?どうかな。同県とはいえ試合会場離れてるし。向こうの試合次第」
「え〜」

 拗ねる友人を宥めながら、みょうじさんは鞄を持ち上げた。教室の後ろのドアから出て行った彼女たちは、俺に気づくことなく背を向けて歩いていく。あ、ノート。そう思ったけれど、呼び止めようにも喉がカラカラに乾いて声がでない。足に至っては、強力な接着剤がついてるんちゃうかってくらいに張り付いて動かなかった。きっと顔は、侑が見たら笑いだすほどに情けない表情をしているのだろう。
 結局、俺は遠くなっていく彼女の横顔をただじっと見つめることしかできなかった。

20230912