赤い糸なんてあるわけない

「なあ。今日あの店行くやろ?」
 
 着替えをしていた角名に声をかければ、角名はチラリと部室の壁に掛けられているカレンダーを見て「ああ、今日か」と呟いた。せやで。言葉にしないかわりに頷けば、近くで同じく着替えをしていた銀が「なにが?」と不思議そうに首を傾げた。

「ほら、この前部活終わりに行った中華屋あるじゃん。あそこ、月一で替え玉無料でし放題なんだよ」
「えっ!そうなん!?俺もいこかな」

 その中華屋は、知る人ぞ知るといった隠れた名店で、知っている人はあまりいない。少なくとも自分が通っている時間に同じ稲高生を見かけたことはなかった。店の場所も、高校から少し離れた住宅街の中にあるので、店の中では仕事終わりであろう会社員が多く、常連さん同士が和気あいあいと話しこんでいる姿をよく見かける。
 そんな穴場な名店を、角名がSNSの口コミで見つけてきたのは1年の春高が終わった頃。そこで毎月第三土曜日が替え玉し放題になると知ってからは、その中華屋に毎月のように通っている。
 この店、常連がつくだけあってとにかくうまい。あの味が忘れられなくて、時には平日の部活終わりに侑を撒いて店に行ったことだってある。後日それを知った侑が、「ラーメン食うならラーメン屋やろ!中華屋でラーメンなんて邪道や!俺は認めん!」だのなんだのほざきやがったので、その日は久々の大喧嘩になった。そんな侑も、今では中華屋に通う一人だ。我が片割れながら変わり身の早さに称賛や。

「治、今日は何玉目指すの?」
「んー、今日は結構いける気すんねん。20はいける」
「まじかよ」

 店のおっちゃん泣くんじゃね。角名がおかしそうに笑った。確かに、前回15を超えたあたりで「それ以上は腹壊すで」と、いつもいるバイトのねーちゃんに言われた気がする。その日は次の日も練習試合があったので20玉手前で辞めてしまったが、なんと明日は1日オフ。20玉越えを試すなら今日やろ、と気合を入れてロッカーの戸を閉めた。その様子を見ていた侑が「だからデブやねん」と呟いたが、今は侑に構うことよりめし。侑の言葉は聞かなかったことにした。

 4人で今日の部活について話しながらタラタラと歩くこと10分。少し立て付けの悪い扉を横に引き店内に入ると、いつものおっちゃんが「お、今日は4人か」と笑顔で迎え入れてくれた。入り口近くの4人掛けテーブルに腰掛けると、図体のでかい4人じゃ収まりが悪いと思ったのか、おっちゃんが厨房から出てきて近くの2名席をくっつけてくれる。そういえば、いつもホールにいる大学生くらいのねーちゃんがいない。キョロキョロと見回していると、角名が「あれ、店員さんいつもと違うね」とある一点を指差した。そこにいたのは、奥の座敷を片付けをしている女の子だった。席から死角になっているようで、その横顔しか見ることができないものの、いつものねーちゃんに比べて幼く見えるその顔を見るにおそらく高校生だろう。

「全員ラーメンでええんか?」
「あ、俺は今日炒飯で」
「なんや勿体無い」
「治と違って少食なもので」

 なんやそれ、女子か。ぶすっと不貞腐れる俺に、おっちゃんは豪快に笑って「今日は多めに用意してあるから替え玉なんぼでもおかわりしてええぞ」と親指を立てる。それを見ていた侑が「お前、まじか…」と軽く引いていた。なんやねん。し放題なんやから別にええやろが。

「なまえー、そこの高校生におひや出し」
「ええ…」
「ええ、やないわ。働けクソガキ」
「仕方ないなぁ、もう。…あっ、やば」

 ガシャン、とガラスが倒れる音がする。「何やっとんねんクソボケェ」と、呆れたように話しかけるおっちゃんを気に留めず、彼女は「しっつれいしましたァ」とやる気のない声でグラスを持ち上げた。「しっかりしぃや」と、カウンターに座っていたサラリーマンが笑う。

「ああっ!」

 俺は勢いよく立ち上がった。そのせいで、椅子に足が当たりガタリと音を立てて椅子が倒れたが、そんなこと気にしていられない。
 その音に反応した彼女が、こちらを振り返る。その顔は険しく、眉を寄せてこちらをじっと見つめていた。いつのまにか侑も角名も銀も、店にいる誰もが黙りこみ、指をさす俺と彼女だけが異様に浮いていた。

「お前!あの夜男子寮居った奴!」

 あの日から一度も忘れられなかった声。その声の持ち主が、目の前にいた。
 
△▼△


「あんなに引いた女子の顔はじめて見た」

 店を出てすぐ、込み上げる笑いを抑えきれないとばかりに口元を緩ませて角名が言う。うるさいねん。俺かてあんな反応されるのは想定外やったわ。言い返してやりたいことは山ほどあるが、俺が話しだすよりも先に侑が「まあまあ治くん。ナンパはもっとうまくやりや」と、肩に手を置く。黙れやブス。

「うっさいわ。ナンパちゃうし」
「じゃあなんやったん?あの女子も人違いや言うてたやん」

 そう、そうなのだ。あの女の子は、叫んだ俺に対し「人違いじゃないですかあ?」と言ったのだ。
 あの声を間違えるはずがない。こちとらあの日からずっと忘れられずにいるんやぞ。なんなら、夢にまで出てきたくらいや。そう言ってやりたかったが、彼女は俺が言い返すよりも先に、フッと小馬鹿にしたように笑って「ナンパなら帰ってど〜ぞ」と親指を立て、下に向けた。は?ポカンと口を開けている俺を見た侑たちの笑い声により会話は強制的に終了。彼女はその後、水を取りに向かった厨房でおっちゃんに思い切り拳骨を喰らっていたが、俺たちが店を出るその瞬間まで、俺を一切見ようとはしなかった。

「そもそもあの子、髪の毛肩くらいまでの長さしかなかったよ?治、あの日髪長かったって言ってたじゃん」
「そうなんやけど…」
「やっぱり人違いやったんちゃう?」

 あの日、夜に揺れていた彼女の髪は、てっきり黒髪だと思っていたが、実は明るめの茶髪だったらしい。そんな彼女の髪は、角名の言うとおり以前見た長さよりも短くなっていた。間違いは誰にでもあるやろ。そう言った銀に、「いや、絶対あの子やった」と言い切る。すると、角名が不思議そうに「なんでそんな言い切れるのさ」と首を傾げた。なんでってそりゃ。ずっと忘れられなかったんやぞこっちは。はあ、とため息を吐いた俺に、侑が「ぶっさいくな顔してんな」と笑った。

「まあ仮にあの子だったとしても、はいそうですとは言わないんじゃない?バレたらあっちだって罰則じゃん」
「ああ、確かに」
「この間のことは、お互いつつかない方がいいと思うけどね」

 角名の言うことはご尤やと思う。なら、素直に「そうやな」と言えないのは何故なのか。角名から視線を外し、なんとなく上を見上げれば、暗闇の中にまんまるの月が浮かんでいた。何も反応しない俺を見て、銀と角名が困ったように息を吐いて空を見上げた。あ。まあるい月に気づいた銀が、「今日、満月やったんか」とぽつり呟いた。

20230829