まるで雲のような君

 いよいよインターハイを週末に控えた今日。練習が終わり、体育館を出てみると大雨が降っていた。
 関西はとうに梅雨入りしたというものの、数日ぶりの雨は勢いも強く、傘もなしに外に出たら一瞬で濡れ鼠だろう。真っ暗な空を見上げ、ちゃんと天気予報を見ていてよかったとスポーツバッグから折り畳み傘を取り出す。対して、侑は備えがなかったのかバッグの中身を漁りながら「ゲエッ」と顔を顰め、真っ暗な空を睨みつけた。普段ならばだらしがない侑の代わりにオカンがバッグの中に折りたたみ傘を突っ込んでおいてくれるのだが、生憎今日はそれもなかったようだ。侑はキョロキョロとあたりを見渡し、俺の手元に握られている傘を目敏く見つけるとニコニコと笑ってこちらに手を差し出す。

「サム、その傘貸して〜」
「なんでお前に貸さなあかんねん。俺の傘なくなるやろが」
「とかいって、お前いつも雨に濡れても気にせんと歩いてるやん」
「さすがにこの雨は気にするわ」

 お前に貸したら俺がびしょ濡れでオカンに怒られるやろが。そう言って侑の手を引っ叩くが、侑はそれでも貸せとしつこく俺の手から折り畳み傘を奪おうとする。ふざけんな。お前こそふざけんなその手離せ、と何度目かの喧嘩になりかけた時、見かねた角名が「寮まで来れるなら俺の傘貸すけど?」と助け舟を出してくれる。「ほんまっ?」と侑の意識が向いたことをいいことに手元の力を緩めていると、その瞬間に侑が俺の傘をひったくり「ならサムに貸したってや〜」と手を振って雨の中を颯爽と走り去っていく。
 やられた。最っ悪や。がっくりと肩を落としていると、一部始終を見ていたらしい小作が「寮まで俺の傘に入れたるわ」と苦笑いを浮かべ、折りたたみにしては少し大きな傘をこちらに向けたので、お言葉に甘えて3人で寮へと向かうことにした。

 
△▼△


「あれっ、さくやんじゃん」

 何してんのこんなところで、と首を傾げながらこちらに近寄ってきたみょうじさんにWさくやんWと呼ばれた小作は「お前こそ何してんの?」と親しげに話しかけている。みょうじさんの背中にはいつぞやに見た大きなリュックのようなものが背負われていて、「これ先輩に返しにきたところ〜」とこちらに背中を見せた。
 親しげに話し出すみょうじさんと小作を交互に見やる。まさか小作とみょうじさんが知り合いだなんて誰が想像しただろうか。少なくとも俺は想像していなかった。驚きのあまり反応が遅れた俺は、完全にその場で空気と化している。
 生憎角名は傘を取りに行くべく男子寮の中へと行ってしまっており、助け舟を出してくれそうな人はここにはいない。角名、お願いやからはよ戻ってきて。今頃自室にいるであろう角名に念を飛ばすこと数十秒。男子寮から出てきたのは待ち望んでいた角名ではなく、彼女が待っていた天文部の先輩だった。

「お、小作や〜ん!久しぶりやな!」
「っス。相変わらず元気そうっスね」
「俺はいつでも元気やで、っと。なまえ、それ寄越し」
「はいどうぞ〜」
「いやそこはありがとうやろが」
「シャース!」
「はあ?微妙に伝わらん小作のモノマネ選手権すな。おもろないぞ」
「えっ?俺!?」

 どうやらこの先輩も含め仲がいいらしい。目の前で起こるやり取りにとうとう一人置いてけぼりになる。これもしかしてみょうじさん俺のこと見えてないんやない?いやいやまさか、と遠い目をしながら彼らの会話を聞いていると、みょうじさんは用は済んだとばかりに「じゃ、またねさくやん、治!」と笑って去っていく。
 みょうじさんからちゃんと俺が見えていたことに安堵しつつ、声をかけられたことに頬が緩む。よかった、俺空気やなかったみたい。単純だなと思いつつもにやけた頬をそのままに彼女を見送っていると、隣にいた小作から痛いくらいの視線を感じた。緩み切った頬のまま小作へと顔を向ける。小作は手を振った体勢のままこちらに顔を向け、驚いた表情をしていた。「え、まさか…」と、顔を青くしている小作を残し、天文部の先輩は「ほなまたな〜」と手を振り寮の中へと去っていった。

「お待たせ〜、ってえ、何?どうしたの?」

 唯一何も知らない角名が、傘を片手に首を傾げている。慌ててなんでもない、とその場を乗り切ろうとした小作の肩を掴んで、俺は小作の名前を呼んだ。それで全てを察したらしい小作が「嫌や!俺は帰るで!」と身を捩ったが、ありったけの力で押さえつける。逃すわけないやろ。寮の前でぎゃあぎゃあ騒ぐ俺たちに、角名は苦笑いを浮かべる。「とりあえず濡れるし玄関入れば?」と寮の入り口へと手に持っていた傘を向けた。

 
△▼△


 角名に案内された客間スペースで、俺と小作は正面に向かい合う。じっと小作を見つめる俺に対し、小作は面倒なことに巻き込まれたと言わんばかりに視線を逸らし続けていた。
 一部始終を聞き終えた角名が、何度目かのため息を吐き「小作を威嚇すんな」と俺の頭を叩く。

「なあ、一つ確認なんやけど。治とみょうじって付き合うてるん?」
「いや、付き合ってない」

 それどころか治の片想いだよ、と言った角名に、小作は「あ、そ、そうなん」と歯切れの悪い返事を返した。

「どうせあれやろ。みょうじのこと教えて〜とか言うんやろ」
「さすが小作。話が早くて助かるわあ」
「いやそりゃあんだけ頬緩ませてれば…ってお前急な真顔やめえ。治の真顔は圧が強いねん」

 みょうじについて俺から話せることなんて何もないで。そう言った小作をまあまあと角名が宥める。「小作は1人だけクラス離れてるしあんま仲良い奴の話したことなかったよね」と角名は興味深そうに小作に話しかけた。対して小作は俺と角名の視線を1人浴びて居心地が悪そうに身を縮こませている。

「みょうじさんと小作って仲良いの?同じクラス?」
「同じクラスではないな。あいつ7組やし」
「へえ、7組。理系クラスか」
「おん。まあ、あいつとはただ中学が同じだけやで」

 つか俺の方が驚きやねんけど、と小作は不思議そうにこちらを見て「みょうじと治いつのまに仲良ぉなってん?」と首を傾げた。その視線から逃れるように俺と角名はスッと視線を逸らすと「ん、んー、まあ、色々あってな」と、言葉を濁した。あれやこれやを話すと長くなるので割愛してもいいだろう。小作は一瞬顔を顰めたものの、興味がないのかそれ以上を聞いてくることはなかった。
 
「というか、小作から見たら治とみょうじさんって仲良く見えるんだ?」
「え?そらそうやろ。みょうじが男子のこと下の名前で呼ぶのなんて、俺の知る限りあの先輩とお前くらいやぞ」
「え、そうなんだ。あの先輩って天文部の?あの人も同じ中学なの?」
「いや、あの人は違う。もう少し学区離れてたと思う」

 小作曰く、天文部の先輩はみょうじさん伝てで知り合ったのだという。出会った頃からあの2人はすでに仲が良く、暫くは2人が付き合っているものだと疑っていなかったらしい。周りがそう勘違いするほどに当時から仲が良かったのか。少しだけもやっとするものがあったけれど、それよりも小作の言ったW下の名前で呼ぶのはあの先輩か治だけWという言葉にそわりと膝を擦り付ける。そんな俺がおかしく映ったのか、角名は「治、落ち着きなよ」と笑った。
 俺がみょうじさんのことを好きだと気づいているのは、あの日屋上にいたメンバーの中でも角名だけだ。あの屋上にいたメンバーでは侑はおろか、銀ですら気づいていない。銀の中では、俺の頬が赤かったのはただの熱中症で片付けられてしまっている。だから、相談できる相手が増えるという点ではこちらとしては願ったり叶ったりだ。
 小作は頬を緩めていた俺が印象深く残ったらしく「あの治がなあ〜」としみじみとしている。あのってなんやねん。そう思っていると、「分かる、あの治がって思うよね」と、角名もうんうん頷いている。だからあのってなんやねん。思わずムッと顔を歪めると角名は笑ってこわあと俺から距離を取った。

「なんやねん2人して。いいから早よみょうじさんの事教えんかいっ!」
「おっほ、治必死すぎ」
「いや、教える言うてもなあ。俺とみょうじって中3の時同じクラスってだけで、本当に知らんのや」
「それにしては距離近かったよね?」
「あれがみょうじにとって普通の距離感やからな。もう慣れたわ」

 しれっととんでもないことを言われた気がする。なんや仲良しマウントか?キッと小作を睨みつけると、角名が再び俺の頭を小突いた。先ほどよりちょっと威力が増している気がする。
 うーん、と当時を思い出しているらしい小作は、本当にみょうじさんの普段のことは知らないらしい。角名が中華屋でアルバイトをしていることを伝えると「え、そうなん?」と驚いた表情をしていた。なんや使えへんな。足を投げ出しソファーに凭れ掛かった。

「小作ぅ〜、中学のみょうじさんがどんな人やったかくらいは知っとるやろ?」

 教えてやあ、と投げ出した足をジタバタさせていると、角名が心底嫌そうな顔をこちらに向けた。「ちょっと、ホコリ立つんだけど」と怒っている角名はみょうじさんよりもホコリが気になるらしい。確かにここのカーペット、少し年季入っとるもんな。見れば見るほどホコリたちそうやわ。小作はそんな俺らの正面で「みょうじの中学時代な〜」と顎に手を当て何やら考え込んでいる。

「みょうじってよお分からんのよな。授業態度は真面目〜な感じやけど、話すとあんなんやろ?よくクラスの集まりにも顔だしてたし、周りに人は寄ってくるタイプやな」
「へえ、ちょっと意外かも」
「でもあいつ、絶対学級委員とかは断るんよなあ。柄じゃないとかなんとか言うて」

 小作の話を聞いていた角名が「なんか、みょうじさんって掴みどころのない人だね」とポツリと呟く。その印象は、つい先日屋上で俺が感じたものと同じだった。それと同時に思い出すのは、短くなった肩までの髪。中学の頃から長かったのだろうか。そう思ったら、ぽつりと言葉が出ていた。
 
「…みょうじさんって好きな人おったんかなあ」
「好きな人?なんで?」
「最初あった時より髪短なってたやん」

 みょうじさんの髪を思い出しながらぽつりと呟いた俺に、角名は「安直すぎ」と笑った。ほらな、角名はそういうと思ったんや。じとりと角名を睨みつけると、小作も「言われてみれば髪短くなってたな」と手で顎を撫でる。小作の反応を見るに、中学の頃から髪は長かったらしい。
 
「まあ、中学の頃からみょうじにはいろんな噂あったし。好きな奴の1人や2人おっても何もおかしないな」
「噂?」
「なんや年の離れた兄弟がおるとか、実は隠し子とか、会うたび違う年上の男と歩いてたとか」

 俺も小耳に挟んだ程度であんま知らんけど、と小作は視線を上に向けながらぽつりぽつりと言葉をこぼす。隠し子。年上の男。ピシリと固まる俺に、小作はハッとして「あくまで噂やし、90%の確率で嘘やでこれ!」と慌てて付け足した。つまり、残りの10%は本当なんか。ズン…と落ち込む俺の正面で、小作は己の口元を覆い視線を彷徨わせる。
 
「まあ、みょうじのこと知りたいなら天文部の人のが良く知ってるんちゃうかな」
「天文部ってうちの?」
「せやで。うちの天文部、大体が俺らの中学か先輩の通ってた中学出身のやつらばかりやからな」

 小作の言葉を聞きながらチラリと時計を見た角名は「そろそろお開きにした方が良さそうだね」と立ち上がる。「まああくまで噂やし」「そうそう。本人に聞くのが一番じゃない?」小作と角名がそれぞれ言葉を投げかける。それでも落ちこむ俺を見て、2人は互いに顔を見合わせると「解散!」と大きく両手を鳴らしたのだった。

20230905