「バレンタインのお返しなんですが、うちでご飯食べませんか?」



三月の頭に、そう向こうから提案があった。やったーご飯作ってくれるの、なんて軽く返事をして楽しみにしていたけど、よく考えたら私、お家に行くの初めてなんだよな。盗まれかけた空気清浄機と、バチクソ寝心地のいいソファベッドの情報くらいしか知らないから、知識量としてはリスナーとほぼ同レベル。…あ、シルバニアどこに置いてあんのかな。ていうか、恋人の家のこと考えたことがないのもどうなんだろう。バーチャル空間で会いすぎ(?)たり、事務所で遭遇が常になると、家があるってことを失念しがちな気がする。………いや、これライバーだけかもしれないけど。


社長は地味に料理がうまい。なんていうか、人並みに出来る。逆に私が大雑把なのがだめっていうか、すき焼きの時に心配されたように、多分人から見ると危なっかしいんだと思うけど。それでも社長は上手い、に分類されると思う。私は最低限のことだけだけど出来ないことはない。が、人に披露するようなものでもないみたいな、そんな感じ。時々今日は何を作ったんですよーとか、試してみたくって、とかいってご飯の写真を見せてもらったりするんだけど、本当に美味しそうで。いつか食べさせてね、なんて言ってたのが叶うわけだ。嬉しいなあ、楽しみだなあ。家へお邪魔することへの多少の緊張感もあるけど、ゆっくり一緒に過ごせることへの嬉しさもひとしおだ。あと、特別なものにしないと、という固定観念よりも一緒にいる時間のことを考えてくれたところも嬉しかった。この人に何人の人間が泣かされてきたんだろうっていまいち痒いところに手が届かない行動にもやっとしたこともたくさんあったけど、一緒に過ごすうちに、私がちょっとずつ行動を起こすうちに、わかったきてくれたみたい。そろそろ加賀美くんに”私が育てました”って農家のバナーみたいなのくっつけられるかもしれん。…………冗談です。



時刻は15時。待ち合わせの駅の改札を抜けた途端、すぐに社長を見つけた。………目立ってんねえ。もともとスタイルも良ければ顔も良くて、遠くから見てもすごく目立つ。教養がいいって身体から滲み出るもんだな、と社長を見ていっつも思う。いやあ、近寄りがたいわウチの。とか思いながらもそちらへ向かうと、携帯から目線を上げた社長と目が合った。


「葉加瀬さん!」


よかったよかった、無事に辿り着いたんですね。そんな風に言いながらも足のリーチを利用して、かなりのスピードで近寄ってくる社長にちょっとたじろいでしまった。何を焦っているのか、流れるように肩を抱かれて、エスコートされながらも駅のコンコースを駆け抜けて行く。え、速い速い。私の足はきみと違ってコンパスやないんやが。


「ちょっと、何焦ってんの?」


私の右側を歩く社長を見上げながら問いかけるとハッ!という顔をした。これは社長の癖だけど、何か一つに真剣になると周りが見えなくなる時がある。それで社長業に支障はないのか?って甚だ疑問だけど、どうも仕事の時はそうはならないみたいだ。変なの。なんでそんな切り替えが可能なんだろう。本人が無意識なのがまたタチの悪い。私からの指摘で気がついたのか、歩くスピードは落ちて肩に回されていた腕も「すみません!つい…」なんて言葉と共に離れた。


「いや、その。実はこの辺りで何度も社員と遭遇したことがありまして。普通に恥ずかしいじゃないですか………家が近いこともだいたい皆さん知っているので。今から家か、とか思われるのも………」


なるほど。私自身は加賀美インダストリアルの社員の人と何度かあったことがある(そもそも社長の活動が業務提携なので、社員みんながSMCのことを知っている)し、余計に恥ずかしいか。私も受付さんとか、秘書さんとかに会うのは恥ずかしいかも。


「そっか。まあそれは確かにそうかも、私もどういう顔してればええんかわかんなくなるわ。」


「でしょう?……あ、葉加瀬さん、何か買い足すものとかはないですか?」


歩幅はいつものものに。無駄に長いコンパスを持っているのに、私の歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれる。外を並んで歩くと思うけど、育ちがいいとこういうエスコートもナチュラルに身につくんだろうか。隣を歩くのが私みたいな人でいいんだろうか、なんて。思ってしまうのも仕方がない気がする。


「う〜ん?でもどうせ社長お茶とかも用意してくれてるんでしょ?別に特にないかなあ。」


「それは勿論。じゃあこのまま直行しますか。ここから5分くらいで着きますので。」



なんて、なんでもない話をしながらも歩を進める。もう一緒にいるのに、家はきっと言っている通りすぐ側の筈なのに。どうしよう、私、すごく緊張してるかもしれない。ちらり、横にいる社長の様子を伺うと、社長もやっぱりほんの少し緊張しているかもな、と思った。何となく横顔が硬い気がする。気のせいかもしれないけれど。いつもより妙に口数が多いのがそれを裏付けているような。………気のせいかもしれないけど。


そんな風にドギマギしている間に普通に家に着いてしまった。でかい。なるほど、確かに屋根はある。当たり前だけど、いや、大きいな。本当に男一人でこの大きさのマンションに住めるのか、と思うと改めて彼の役職の大きさを感じる。初めてマンションのキーがタッチタイプなのを見た。あと、管理人さんじゃなくてこれは「コンシェルジュ」だ。信じられない。これは本当に一人暮らしの人が住む家ではない、と思う。社長はけろっとした顔で入っていく。コンシェルジュさんへの挨拶も手馴れたものだ。まあそうか、住んでるんだもんな。ここに。


「葉加瀬さん?エレベーター、来ましたよ。」


15階建のマンションの14階。2棟に分かれているうちの東側の棟に社長の部屋はあるらしい。圧倒されている間に到着してしまったので、ある意味心の準備も何もなかった。どうしよう、ついに。家にお邪魔してしまうのか。ガチャリ、扉を開けた社長がドアを押さえたまま中を指差し「どうぞ」と言った。「………お邪魔します。」玄関は私と社長二人が入ってもたっぷり場所があるような大きさで、喉元まで上がってきている緊張が更に迫り上がる。横に備え付けられた大きな靴箱の中へと社長の靴は仕舞われた。

「あ、葉加瀬さんの靴はここにでも。スリッパ、置いておきますね。少し大きいかもしれないので、歩くとき気を付けて下さい。」


準備されていたスリッパは来客用のものなのだろう。家には男の友人ばっかり来るんだろうし、サイズが大きいのも頷ける。気を抜いたら飛んでいってしまいそうなサイズのスリッパを持て余しつつも私はリビングへと歩みを進めた。歩きにくいのがまた、私の緊張にも伝播しているようでもぞもぞする。


「そこのソファにでも座って待ってていただけますか。下準備はしてあるので、今作って来ますね。」そういって私のコートを預かり、奥の部屋へと消えていく。……中を見ても広い家だ。パッと見渡す限りでは普通にオシャレな感じだが、きっと通り抜けて来た扉のしまった部屋の中のどこかにプラモだのなんだのが詰まった部屋や配信の時に使っている機材のある部屋もあるのだろう。メリハリの取れている内装だからこそ、本当に彼らしいというか。仕事とプライベートと趣味をきっちり分けているのが部屋のレイアウトからも伺える。


「ああ、手を洗ってなかったな。洗面所、こっちですので。」


ひょっこりと帰って来た社長はそう告げると私を手招きした。先に手を洗い終えたらしい彼は台所へと戻っていく。IHか何かを起動させる音がした。
私は菌を滅するというよりかは、緊張を殺したい一心で手を擦った。なんで向こうもちょっと緊張してるんだ。いつもみたいに余裕そうにしててくれれば私だって余裕が持てたかもしれないのに。絶対に30秒以上、手を揉んでいたと思う。


手を洗い終わったので台所へと顔を出し、「何か手伝えることある?」と尋ねてみる。きっと大したことは出来ないに決まっているが、体裁というものが私にもある。社長はそうですね、と少し考えたのち、何枚かの取り皿とスプーンなどを私へと持たせる。「それ、並べて置いてください。すぐ作って持っていくので。」


まあそんなところだろうと思った。おとなしく私はダイニングテーブルへと持たされたものたちを並べていく。………並べながら、向かい合わせに座るように設置できる配置であることに驚いた。一人暮らしでも人を呼ぶ想定にして家具って買うんだな。いや、本当に今、私なんでもかんでも驚きすぎな気がする。目に入る情報全てを受け取って噛み砕かないと気が済まないんかな?生まれたての子供みたいで、我ながら笑えて来る。


そうこうしているうちに、本当に出来上がった料理を持って社長が現れる。………メインメニューは、私の好きなオムライスだった。思わず「あ、」と声をあげるとわかりやすく嬉しそうな顔をするものだから、笑ってしまった。材料だけ切ってあって、あとは混ぜて炒めて卵をすればいいだけなのですぐでしたよ。なんて楽しそうに付け足して。オムライスと何品かの副菜。おつまみにもなるけど、単体で食べても美味しいやつばかりだ。


「葉加瀬さんにはとりあえずと思って。メニューはオムライスですけど、飲み物にワイナリーのぶどうジュースを買ってみたんです。────あ、私は普通にワイン飲みたいんですけど、いいですか?」


小さめの瓶と、普通のワインの瓶が目の前に二本置かれた。社長が飲んでいるところを見るのは初めてだ。私はまだ飲めないし、夜見だって飲めない。3人、いや2人でもだけれど、ご飯を食べにいくと社長は必ず飲まない。お酒が弱いというわけではないみたいだけど、どうも遠慮しているみたいだった。よくわからないけど、遠慮する文化があるらしい。そもそも未成年と一緒だからかもしれないけど。


「ん、飲んでいいよ。おうちだし?」


社長に倣って、私も買って来てもらったぶどうジュースをワイングラスに注ぐ。社長のワインも赤だから、見た目だけじゃどっちもワインみたいだ。


「ほら葉加瀬さん、乾杯しましょ。」


言われるがままにコツン、とグラスをぶつける。───大人みたいだ。中身の感じも相まって。
社長はぐい、とひと呷りすると「……、このワイナリー、正解ですね。ジュースの方も美味しいんじゃないですか?」と問いかけてくる。……うん、私の知っているジュースとは比べ物にならないくらい美味しい。こくこく、と頷いておく。


結論から言おう。社長のオムライスなどたちはめちゃくちゃ美味しかった。本人はずっと心配していたが、流石器用なだけあって本当に美味しい。下手をしたらお店で出せそうなレベルだった。卵の部分の作り方だけでも見ておけばよかったなと思うくらいには。私が美味しいよ、今度作ってるとこも見せてね、なんて言ったら恥ずかしそうに手際よくできませんけど、なんて言って来た。絶対嘘だと思う。


食べている間、本当に他愛のない、内容のないくだらない話でたくさん笑って。中身のない話が絶えなくて、ご飯が美味しくて、好きな人と一緒で、あ、私これ、幸せだな。って思った。いつの間にか感じていた緊張なんか消え去っていた。


そう思ったのは向こうも同じだったらしい。食べている最中からもかなりお酒の手は進んでいたのだが、食器を片付け終わりソファに移動して、なんとなくバラエティを見ながら話している現段階で社長は結構酔いが回っていた。本人はぽやぽやと少し上気した頬をしながら、ああだこうだと最近見つけた強かったデッキの話をしている。正直全くわからないけど、楽しそうだからうんうんと頷いて聞いてあげていた。普段だったらデュエマわかんねーよ!って言ってたかもしれないし、そもそもわかりませんよね、と前置きを入れてこちらの興味がありそうかを確認してきちんと説明してくれるのだが。そういうことを考えられないくらいにはお酒が頭を侵食しているみたいだ。私も飲んでいないのになんだが頭がぽやんとする気がする。


「………葉加瀬さん、私の話聞いてます?ねえ。だから、あそこで溜めたマナゾーンのですねえ、」


私が他の考え事をしていたことに気がついたのか、むすっとした子供みたいな表情を見せた社長は持っていたワイングラスをソファの下の小さいテーブルに置くとのそりと距離を詰めて来た。え、近い。近いんだけど?
………。これは多分非常にまずい。口ではたらたらとデュエプレの話を続けている癖に社長は流れるように私を抱きしめた。社長の大きな手が私の背中をゆっくりと滑り、収まりのいいのであろう肩口に顔を押し付ける。その状態でもまだ余裕でザガーン様が〜とか、汽車男がですね〜とか言ってる。正気か?


「ちょ、兄さん、や、あの、ハヤトさん?大丈夫?水飲む?」


軽く声をかけてみるが、全く取り合ってくれない。一番わかりやすい表現をするならば、べったり、と言ったところだろうか。肩に押し付けられた頭からシャンプーか何かのいい匂いがする。「水?いえ、平気ですよ。」困ったことに受け答えだけは正常だ。どうしていいか、わからない。仕方なく、あやすように背中を叩く。

しばらくは同じようにデッキの話をしていたが、ふとぐりぐりと頭を甘えるように私の肩あたりに押し付けて来た社長はほんの少し息の残る声でこう言った。


「………葉加瀬さん、いい匂いしますね。安心する。」


あれ。これ、まずいんじゃなかろうか。そう思った瞬間社長からかなりの体重がかかって私はいとも簡単に後ろへと、社長と一緒にソファに沈み込んだ。その間にも社長は片手間にソファーをベッドタイプへと押し込んで変形させ、私の首元ですんすんと犬のように鼻を鳴らす。なんでそんな流れるようにできるの?さては今までもこうやって………!いや、だからこれ、まずいんじゃないか?


「マジで酔ってんね?ほら水飲んどかないとダメだよ兄さん。」


宥めるように柔らかい髪の毛を撫ぜる。細くて型のつきにくい、手触りのいい髪の毛。────私がもし二十歳だったら。別に止めることもせずに好きにさせていたのかもしれない。私だって嫌じゃない。でも、付き合うってなった時に社長はこう言ったんだ。


『貴女が大人の女性になるまで私は手を出しませんから。………いいですか、4年待ちますよ。私がそれだけ長く貴女と一緒にいる覚悟が出来ていて、それだけ貴女のことを大切にしたいからです。これは2人の約束ですから。』


ハグもした。キスもした。……ちょっと進んだキスもした。でもその先はまだお預けだ。それは私も納得しているし、長く一緒にいたいなら尚更守らなきゃダメなことだと思っている。社長のことを犯罪者にはしたくないし、法律なんか(大切なことだけど)で一緒にいられなくなるなんてごめんだ。


宥めるように撫でていた手でそっと相手の前髪を掻き上げる。


目が潤んで、頬が上気していて。まるで女の子かと思うくらい綺麗な顔は蕩け気味だ。正直そんじょそこらの女の子よりも女の子みたいな表情してる。ちょっと嫉妬しそう。しばらく見つめ合うと何と無く気が済んだのか、社長はコロンと私の横へと体を転がし、片手でソファの背にかかっていたブランケットを引き寄せる。


「………はかせさん、俺のこと、好きですか。ねえ。…俺はめっちゃ好きですよ。」


手繰り寄せたブランケットを乱雑に私と自分に掛けた後、片手で私を引き寄せて社長はつぶやいた。まるで相手に聞かせる気もないかのように。自分が言いたかっただけみたいだ。お互いの体温があがっているのが嫌でもわかる。まだ夜は寒い3月なのに、ブランケットの中の私たちは温まりすぎていた。聞いておきながら、おでこをくっつけるついでにちゅ、ちゅ、と軽く唇を塞いでくる。じゃれてくる大きな犬みたいに。全然答えられないよ、加賀美くん。ねえ。今日、楽しかったね?なんでもない会話が楽しくて、ご飯が美味しくて、一緒にいられることが嬉しくて。幸せだったよ、ねえ。


気がつけば、社長は私のことを抱きしめたまますうすうと寝息を立てていた。忙しいくせにまるで忙しくないかのような顔をしていることが多いし、疲れているんだと思う。糸が切れたみたいに突然寝てしまうことがあるって聞いていたけど、まさかこうなるとは。抱きしめられたまま私はぽっけから携帯を取り出して母親にLINEをする。『ごめん。社長、寝ちゃったから今日は社長のお家泊まってくわ。疲れてみたいだから起こすと可哀想だし。』


返事を確認する前にラグへと携帯は放り投げた。すっかり寝てしまった彼の頭を優しく撫でる。このままきっと朝まで起きないだろう。明日、どうやって弄ってやろうかな、なんとちょっと思ったけれど。とびきり甘やかすのも悪くない。せっかくの2人きりだから。────後、やっぱり腕の中で眠るのは心地いいし。




次の日起きて全ての事態を把握した社長が平謝りしてくるのは、また別のお話。

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