暗中模索



 ばちん、という乾いた音が鳴り響いた。
 まるで静電気を何十倍にもしたかのような手に残るびりびりとした感覚と、目の前の先輩の驚いたような顔。それから、同様に状況を理解できていない自分自身。簡潔にその場を説明しろと言われたなら、それ以上には答えようがなかった。
 音が聞こえていたらしい周辺の高専関係者が、以降ただ見つめ合って動けずにいる自分たちを見て不思議そうな顔をしている。しばらく二人の間に流れていた止まってしまったかのような時間を再度動かしたのは、通りすがりの家入さんの「どうかした?」という一言だった。

「――……彼女に触れようとしたら、何やら電流のようなものに阻まれまして」
「……何それ、どういうこと?」
「いえ、さっぱり」

 今起きた出来事をありのまま話してみるも、いまいち状況が掴めていないらしい家入さんが首を捻る。とはいえ伝えた内容は事実であるし、むしろこの現状に対する解を一番欲しているのは他でもない自分だった。
 私の言葉を受けて、家入さんは「ちょっと失礼」と言いながら彼女の肩に触れようとする。当の本人は少し心配そうな顔をしていたが、やがてそれは何に阻まれることもなくごく当たり前に受け入れられた。

「なんともないみたいだね」
「……そうですね」
「七海、もう一回試してみて」
「……」

 先ほどの手の痛みに加えて、今なお感じているどうにも愉快でない心情を思えば当然気は乗らない。しかし、自分が再度それをしないことには彼女に触れられないという現状もその事象が間違いである可能性も証明出来はしないのだから、試す以外の選択肢はなかった。
 そっと目の前の彼女に手を伸ばす。その顔はやはり心配そうで、緊張しているのか口を曖昧に結んで眉根を寄せていた。

 ────ばちん。

 あと十センチ程度で触れるかというところで響いた音と、それに伴って走った手の痛み。これでもかというほど眉間にシワを寄せたのは、今度は自分だった。そんな私の顔を見た彼女が、具体的に何に対してかは分からないが小さく謝罪の言葉を漏らす。

「ふぅん、なるほど。理由もメカニズムも分からないけど、触れないってのは本当みたいだね」
「…………」
「そんな怖い顔するなよ。まだ七海だけがそうだって決まったわけじゃないし、あとで他の人間も呼んで試してみよう」
「……ええ、そうですね」

 任務がひと段落したらまた連絡するよ、と去っていく家入さんの背中を見送って、また二人きりになる。その視界の端で、彼女がちらちらと自分の方を見ているのが分かった。

「なんですか」
「いや……ごめん……」
「さっきから何に対して謝ってるんですか」
「自分でも何が何だか分からないけど、七海が怒った顔してるから」

 その言葉に、思わず溜息を吐く。
 自分自身の怒った顔というものを見る機会はそうないが、家入さんにも怖い顔をするなと言われたばかりなのだから、恐らく自分で思う以上に不機嫌と捉えられるような顔をしているのだろう。
 彼女自身もこの状況に困惑しているらしい様子を見れば、それが意図的でないことなど容易に理解できる。それでも、彼女に拒まれているのが自分だけなのだとすれば当然面白くもない。むしろこの先輩に対して他とは少なからず違う感情を抱く自分にとって、これは緊急事態と言って良いレベルの話だった。

「別に怒っているわけではないですが、そう見えたのなら謝ります。すみません」
「ううん。でもなんなんだろう、これ」
「見当もつかない」
「わたしも心当たりないんだよね」

 うーん、と小首を傾げる先輩の隣で、先ほど彼女に触れ損なった自らの手を見る。そこに、集中しなければ感じ取れないほど微量ではあるが、うっすらと呪力の痕跡のようなものを見た気がした。実際に電流のようなそれに触れた自分だけが感じ取れたのだとすれば、家入さんや彼女自身が気付かないのも頷ける話ではある。
 しかし、その僅かな残穢から感じる呪力は明らかに彼女のものとは違っていた。そして、少なくとも自分がここ最近対峙した呪霊の中にも当てはまるものはない。となればおそらくこれは彼女側に要因があり、たとえば何かしらの呪いを受けたか、もしくは術式等をかけられていると見るのが自然だろうか。さらに言えば、つい三日ほど前には特に意識することもなく彼女と接触したような記憶があるのだから、それはここ二、三日以内の出来事と見て間違いないだろう。
 幾つかの仮説を踏まえて再度心当たりの有無について尋ねるも、やはり返ってくる回答に変化はなかった。少なくとも主観では、現時点でこの残穢からそれほどの悪意らしきものは感じられない。とはいえ、たとえ微量であっても呪いは呪いだ。それが彼女に悪影響を及ぼす可能性も否定はできないのだから、やはり早期解決を図るのは必須と言えるだろう。

「五条さんであれば何か分かるかもしれません」
「ん、そうだね」

 こんな事例は極めて稀だろうと思うが、時折酷く己の無力さを痛感することがある。自分はまだ高専に入学してそう長くないし、生まれついての性質や才能というものは努力だけでどうにかなるものではないということも理解している。
 それでも今、真っ先に彼女の力になれるのが自分であれば良かったという考えが脳内から消えようとしないのは、やはり当事者であるはずの自分に為す術がない現状にこの上ない不甲斐なさを感じているからだった。


◇


「……ほんとにここで合ってるの?」
「窓からの情報によれば間違いない、と」

 彼女と二人での任務を命じられたのは、問題が解決する兆しを見せないまま数日経った頃のことだった。
 結論から言えば、やはり彼女に触れることができないという事象が生じているのは自分だけで、あの後実際に試した五条さんや夏油さん、そして灰原も一切の差し障りなく先輩に触れることができた。そして、五条さん曰く��たしかに彼女のものではない呪力が僅かに視えるが、その少なさ故とても心身に影響を及ぼすレベルとは思えない�≠ニのことだった。すぐに体から抜けるのではないかという見立てもあったが、現段階ではまだその状態に至っていない。
 上の人間に私が彼女に触れられないことが伝わっていないのか、それともそんなことは知ったことではないと思われているのかは分からない。しかしこの互いに連携が取れない状況下での任務は、特に呪霊に遭遇した場合を考えれば危険が伴うことは明白だった。
 少し後ろを歩く彼女をちらりと振り返る。今はそこまで考えている余裕はないとでもいうように、周囲を不安げに見回していた。

「何をそんなに怖がってるんですか」
「いや、怖いわけじゃないんだけど……今どき高専以外で木造の校舎なんて本当にあるんだなあって思って。ちょっと不気味ではある」
「普段使用されない別館ではあるそうですが、一応今も現役らしいです」
「へぇ……。それで、よりによってこんな今にも倒壊しそうな建物を調査する日に��これ�≠ヒ……」

 窓の外を見た彼女の視線を追うように顔をそちらへ向けて、大きく溜息を吐く。
 某県にある木造校舎の中学校。頻度は高くないとはいえ現在も使用されているとの理由から、極力一般人の目を避けやすい夜間の派遣となった。どちらにせよ有事の際は帳を下ろすのだからあまり関係ないだろうと思うが、上からそのような指示があったのであれば従う他ない。
 それでも、報告書に記載されていた実際に呪いを視認したという時間帯に合わせて動くことができていれば、少なくとも目下二つの問題の内一つに関しては幾分かマシだっただろうと思う。

「台風、明け方までに直撃予定だって」
「もう既に直撃してるってくらいのレベルですけど」

 風でみしみしと音を立てる校舎と、窓に叩きつけられる豪雨。ただの調査なら尚更日を改めるべきだろうということは学生である自分にでも分かる。ここに到着するまでの道のりを思い返し、自然と眉間のシワを深くした。
 帳に術式を付与するなりしてなんとかこの台風を凌げないものかとも考えてみたが、今この場にそれほど器用に帳を操れる人間はいない。加えて相応の呪力消費があることを考えれば、やはりそこに割いている余裕もないだろう。

「しかもやっぱり懐中電灯」
「常駐している警備員や管理人もいないそうですし、そもそも一般人を巻き込めませんからね」
「ブレーカーくらいこっちでいじっちゃえばいいのに」
「古い建物なので配電盤を動かすのにも知識がいるらしいです。というかこの天気じゃそもそも停電してるんじゃないですか」

 いつもは指示通りに粛々と任務をこなす彼女が文句を言いたくなるのも分かる。今の自分たちに得られる情報といえば、懐中電灯で照らすことのできる目先わずか数メートル程度と、時折窓の外から稲光によって与えられる一瞬の視界くらいのものだ。しかも後者に至っては、四六時中悲鳴を上げるこの建物にさらに付け加える形で聴覚を妨げる始末だ。本当に、任務続行の判断を下した人間にはこの状況下で一体何をどう調査しろというのか小一時間は問い詰めたくなる。
 とにかく諸々に関して納得がいかないまま、足だけは目的地に向けて休むことなく動かし続ける。後ろからは彼女の懐中電灯の明かりが射し、つかず離れずの距離を保ってついてきていた。呪霊を見慣れている自分たちにとって非科学的な存在を恐れるということは滅多にないが、この時間の見知らぬ学校というのは彼女の言う通り確かに気味が悪い。

「――二年A組。ここですね」
「……なんか嫌な感じ」
「同感です」

 やがて辿り着いたそこで、掲げられた木製のプレートを懐中電灯で照らす。そのまま引き戸に設けられている窓から軽く中にも光を当てて覗き込むが、ここから見る限りではごく一般的な教室といった印象で特に不審な点もない。
 今一度資料に目を落としていた先輩が、不意に「七海、ちょっと照らしておいてくれる?」と自らの持つ懐中電灯を手渡そうとした。それを受け取るため手を差し出したタイミングで、彼女がはっと思い出したかのように手を止める。そのまま少し気まずそうに引っ込められたのを見て、あぁそうかと思うと同時に心がもやりと翳るのが分かった。
 結局は自分の持っている懐中電灯を使い、言われた通りにその手元を照らす。軽く伏せられている睫毛に人工的な光が当たって、きらきらと輝いて見えた。それをぼんやりと見つめながら、一体このままいつまで彼女に触れることができないのだろうかと考える。
 別に元々頻繁に触れ合うような関係ではないが、先ほどのようなふとした瞬間の接触にも気を遣わなければならないのだから、少なくとも今日までの数日間はより一層彼女との間に距離を感じたように思う。
 少しして彼女が顔を上げると、ぱちりと視線が交わる。任務中にそれとは無関係な思考を巡らせながら彼女の姿を見つめていたことに後ろめたさを覚えて、咄嗟に目を逸らした。

「まあ、とりあえず入ってみようか」
「……ええ、そうですね」

 呪霊の出所となったとみられる室内に踏み込むため、今一度気を引き締めるように深く呼吸する。
 彼女が頷いたのを合図に引き戸をがらりと開ければ、先ほどまであれだけうるさかったはずの辺りが急にしんと静まり返った。肌に触れる空気に、どこか覚えがあるような不思議な感覚がする。

「……何、どういうこと?」

 教室の窓から見える外の景色は穏やかな橙色に染まっており、先ほどまでの暴風雨など見る影もない。
 彼女の戸惑ったような声に振り向いて、何か違和感を覚える。彼女が、数秒前まで手に持っていたはずの懐中電灯を持っていない。

「七海、見て」

 名前を呼ばれて彼女が指差す先を見やると、引き戸の窓からは少し前まで自分たちが立っていた廊下が見える。その窓の向こうでは、未だ雨風が激しく吹き荒れていた。
 そして、状況を把握するべく互いにしばらく無言のまま周囲を見回している最中、視界に入った黒板上部の時計に思わず目を疑った。

「十七時――……?」

 そもそも、自分たちはいつ教室内に入ったのだろうか。戸を開けた記憶はあるが、中に入って再びその扉を閉めた記憶はない。

「この教室に何か術式がかけられてるのかも」

 彼女の言葉に頷いて再度戸を引くと、それは確かにがらりと音を立てて開いたように見えた。しかし次の瞬間、まるでそんな行動はなかったとでもいうように締め切られた教室の扉が目の前にある。
 それが何を意味するのかということなど、自分のような経験の浅い呪術師であってもすぐに分かった。

「……クソ、閉じ込められてる」

 無意識のうちに舌打ちをして、肩にかけていた鞄から鉈を取り出す。これが本当に術式なのであれば、いつどんな形で呪霊と対峙することになってもおかしくない。
 そのまま警戒態勢を取って数分、ぴりぴりとした緊張状態が続いた。しかし、それからさらに五分程度が経過しても呪霊は発現する気配すら見せようとはしなかった。そのうちに痺れを切らしたらしい先輩が改めて周囲を探る様に目を向けて、ぽつりと呟く。

「逢魔時、だよね」
「はい?」
「報告書にあった呪いを視認したっていう時間。ちょうど今くらいの時間のことでしょ?」

 彼女にそう言われて、事前に目を通していた資料の内容を思い出す。たしかに、報告書にはまさにあの時計が示していたくらいの時間が記載されていたように思う。
 だとすれば、今自分たちは呪いが発生した当時の教室の中にいるのかもしれない。その証拠に、既に十分以上は滞在しているはずのこの教室の時計は、足を踏み入れた時点から一秒たりとも進むことなくぴったり十七時を指したままだった。
 何故か懐中電灯と共に手元から消え去ってしまっている報告書の概要を、記憶を辿ってなんとか手繰り寄せる。たしか、いくつかの言い伝えを掛け合わせて改変したような独自の遊びがこの学校内で流行しているといった内容だったはずだ。
 概ね同意見らしい彼女が教室中央付近のひとつの椅子に腰かけて、机の中を覗き込む。そして、そこから何の変哲もないコピー用紙とボールペンを取り出してみせた。

「やってくれと言わんばかりの用意周到さだし、書いてあった内容と同じ手順でその��流行りの遊び�≠ニやらをしてみたら呪霊をおびき出せるかもね」
「罠という可能性もありますが」
「でも今はこれしか手がかりがないし、やってみないことには解呪の糸口すら掴めないじゃない?」
「……まあ、そうですね」

 ぽんぽん、と彼女自らが腰かけている座席のひとつ前へ座るよう促され、こんなに呑気にしていて良いのだろうかと思いつつも素直にそこへ腰を下ろす。自分の机の中にも彼女が手にしているものと同じ紙とペンが収められているのを確認したのち、あまり気が進まないままそれらを取り出した。
 気が進まない原因は、勿論その内容にある。いかにも女子中学生が考え出したようなそれは、男がやるには少々――いや、少々どころか相当憂鬱になるような要素を多分に含んでいる。

「一、自分の名前を紙に書く」

 依然気が重い私のことなど意にも介さないように、彼女が見覚えのある文章を空で読み上げ始めた。そのまま私の顔を見つめると、「二」とだけ言ってどこか面白そうに続きを催促する。思い切り顔を顰めてみせたのち渋々と口を開き、幸いまだ記憶に残っているそれを溜息混じりに呟いた。

「……二、自分が想いを寄せる異性の特徴や好きなところを書く」
「三、誰かにそれを渡し、紙に書かれた人物を当てられたら負け。負けた場合、あらかじめ定めた期間内に他の人から紙を受け取り当てなければならない。出来なければ想い人に告白すること」
「四、紙を渡された側が当てられなかった場合は、その人物が新たに手順一から開始する」

 互いにひとつずつ計四つのルールを暗唱して、深く溜息を吐く。まったく、こんな理不尽極まりない遊びの何が楽しいというのだろうか。
 それでも後ろの席に座る先輩が満更でもなさそうな表情をしているのを見ると、やはりこういった色恋沙汰に関わる娯楽というのは少なからず女性の方が興味をそそられるのかもしれないと思う。それとも、単にこの人が後輩を揶揄うのを楽しんでいるだけか。

「どっちが先にやろうか?」
「というか先輩、そもそも書くような相手いるんですか」
「そりゃあいるよ」

 どうせ自分が先攻になるのだろう、と半ばヤケクソ気味にペンを握った手がぴたりと止まる。今の今まで自分の気持ちが彼女に勘付かれることばかりを気にしていたが、彼女に好きな男がいるというのであれば話は別だ。こんな形でその男を知らなければならないという方がよっぽど懸念すべき事項だと言える。
 しかもこの遊びは一部の人間の中で作られたオリジナルかつローカルなものなのだから、書かれる人物がまったくの外部にいる知らない相手であるような可能性など考慮されていない。たとえば彼女の想い人が自分に知り得ない男だった場合、端から当てろという方が無理な話だ。いや、書かれた特徴で明らかな知人を思い浮かべてしまうというパターンも最悪ではあるのだが。

「七海は? 書くような女の子いるの?」
「――……まあ、一応。さっさと終わらせたいので先攻は私が務めます」
「えぇ、絶対嫌がると思ったのに」

 さっさと終わらせたいという自らの発言に嘘はない。どんな形であれ、もう諸々の案件に早く片を付けてしまいたい。ここで彼女に潔く振られてしまえば、今は死活問題と言える彼女に触れられない事象だってそれほど大きな問題として捉えずに済むかもしれない。
 紙の上部に走り書きで自らの名前を書き込んだのち、その少し下にペン先を置いて数秒考え込む。結局彼女を知る人間であれば誰もが分かるような内容をいくつか羅列すると、途端にそんなことを馬鹿正直に書き起こしている自分が恥ずかしくなって、手早くそれを四つ折りにした。

「書き終わった?」

 後ろからやはりどこか楽しそうな先輩の声がする。これを渡してしまえば、自分たちの関係性には多少なり変化が生じてこれまで通りにはいられない。それでも、彼女にとってはこんなところに二人揃ってずっと滞在するよりかは余程マシなはずだ。
 顔や耳に熱が集まるのを感じながら、どくどくとうるさい心音を掻き消すようにその紙を少し乱暴に彼女の机へと置いた。そのまま素早く前方の黒板側に体を向けて、背後で響くかさかさというそれを開く音に今すぐにでも突っ伏してしまいたいような気持ちが沸々と湧き上がってくる。
 ふふ、という小さな笑い声がしたのは、それから数十秒も経たないうちのことだった。

「……ねえ、七海。これってもしかして」
「っ、分かったなら早く答えてもらっていいですか」

 どれほど鈍い人間だろうと分かるような書き方をしたのだから、これは最初から負け試合だ。むしろ彼女の相手を知るくらいなら負けた方が良いと思って先攻を買って出たことを考えれば、この展開は当然と言えた。

「わたしのこと、だったりして」
「…………そうですけど」

 たっぷり間を空けてから、左手で口元を覆い憮然とした態度で答える。それを聞いた彼女は静かに席を立つと、何故か私の机の隅に丁寧に折りたたまれた紙をそっと置いたのち改めて隣の席に腰を下ろした。

「なんですか、これ」
「七海の負けだから、今七海にとれる選択肢は二つ。わたしの紙を受け取ってその中に書いてある人物を当てるか、もしくはわたしに告白するか」
「いや、もう告白してるのと同じでしょう」
「でも、個人的には当ててみてほしいかなって」

 思い過ごしでないのだとすれば、ゆるく目を細めて笑う彼女の頬が心なしか赤く色づいているように見える。ついでに自意識過剰でもないのであれば、その紙に書かれている人物もなんとなく予想が付く気がした。もしこの状況下で少しも期待しない男がいるとするのなら、それはさぞ察しが悪くて謙虚で、異性から人気のあるような人間に違いない。
 無言で彼女の置いた紙を手に取って、思い上がりでないことを祈りながらゆっくりと広げる。
 美しい字で書かれた彼女の名前の少し下に、やはり美しい字で随分と身に覚えのある特徴が箇条書きで並べられていた。その一番下にある��結局この紙を見る方を選んじゃうようなところ�≠ニいう一文に思わず顔が熱くなり、思い切り眉間にシワを寄せて彼女をじとりと見つめた。

「誰だか分かった?」
「……アナタの後輩でこれに当てはまる人間なんて、私以外にいるとは思えない」
「大正解」

 機嫌が良さそうな彼女に「この紙を見るように仕向けたのは先輩でしょう」と小さく文句を垂れると、「それでも見たのは七海でしょ」という言い返すには最もすぎる答えが返ってきた。そして、互いが互いの書いた人物を言い当てられたという状況である今、彼女にとるべき選択肢はひとつしか残されていなかった。

「好きだよ、七海のこと」

 ――その瞬間。どろりと湧いて出たのは、自分の彼女に対する独占欲だけではなかった。
 机の上に置いてあったはずのボールペンから、まるでインクが漏れたかのように黒い液体が垂れる。それがみるみる紙を黒く染めて、やがてひとつの塊になった。それでもなお滴り続ける真っ黒な粘液がふよふよと浮いているそれからぽたりと床に落ちると、触れた箇所がじゅうと音を立てて溶けた。

「良いところだったんだけどな」
「全くの同意見です」

 咄嗟に戦闘態勢を整えて、それと対峙する。サイズも知性もまるでなさそうなところを見ると、それほど強力な呪霊ではなさそうだ。
 そう考えて手元の鉈に呪力を込めて叩いたはずが、思いの外目標が小さいことに加えて動きが素早く中々捉えきれない。しかもこのような閉塞的な空間は、長物を振り回して戦うには向いていない。
 呪霊の体が溶解液のようなもので形成されていることから素手で殴るという選択も出来ず、時折四方に飛散するそれを躱しながらしばらく同じようなことを繰り返す時間が続いた。

「七海!」

 同様の理由で苦戦を強いられていた彼女が声を荒らげたのは、少しずつ消耗させられていく体力にそろそろ本格的に止めを刺さなければと再度呪力を練ったときだった。
 みしみしと嫌な音を立てて、粘液によって腐食した木造の床が広範囲に渡って崩れ落ちる。ぐらりと視界が揺れまもなく崩落に巻き込まれようかという頃、突然横方向から強く体を引っ張られた。
 バランスを崩しながらも、丁度切先が届くくらいの位置に陣取っていた呪霊に少々強引に一撃を叩き込む。すると、それはあまりにもあっけなく二分されたのち塵となり空気中に消えていった。
 はぁはぁと隣で息を荒らげる彼女が、じっと自分の手のひらを見つめている。呼吸を整えるよりも早く、その頬に手を伸ばした。
 すると、指先は確かにその体温を捉える。

「――……触れる」
「うん。良かった」
「原因、分かったんですか」
「なんとなくだけどね」

 夕焼けに染まっていたはずの教室の景色がぼんやりとした朝焼け色の廊下へと変わったのは、それからすぐのことだった。
 ふと足元に目をやると、二人分の懐中電灯と資料、そして携帯電話が落ちている。窓の外はまだ少し荒れてはいるが、どうやら台風のピークは過ぎ去ったらしい。携帯を開いて待ち受けに表示された数字を確認すると、それは朝の四時過ぎを示していた。

「……六時間以上もあの中に?」
「そうみたい。ちょうど少し前に五条から確認の連絡が入ってる」

 先輩はそれだけ言うと手早く五条さんに折り返しの電話をかけて、事情を簡潔に報告する。それを横目に見ながら、二年A組の扉を引いて開けてみる。教室内は相変わらずしんと静まり返っているが、窓の外の景色は廊下となんら遜色なく、黒板の上の時計もしっかりと四時過ぎを報せていた。地面に開いたはずの穴も、まるで何事もなかったかのようにすっかりと元通りだ。
 間もなくして通話を切った彼女が大きな溜息を吐きながら教室へ入ってきて、壁際の席へと腰を下ろす。今回の調査報告書にどこまで書くべきかと巡らせていた思考を一旦隅に追いやって、そちらへ視線を向けた。

「疲れたし、帰るのはもう少し天気が落ち着いてからにしようか」
「ええ、そうですね」

 眠そうに欠伸を噛み殺しているその姿に近付いて、今一度確かめるようにその顔に触れてみる。
 少しくすぐったそうに肩を上げた彼女の顔を持ち上げて唇を指でなぞると、まだ薄暗い視界の中で恥ずかしそうに目線を逸らされたのが分かった。

「さっきの、もう一度言ってもらえませんか」
「……聞こえてたでしょ」
「ええ。でも肝心なところで邪魔が入ったので」

 彼女に何の障害もなく触れられることがとてつもなく貴重なことに感じられて、指先をその輪郭に沿うように滑らせてみる。そのまま催促するように顔から首へと移動させると彼女の体がぴくりと反応して、依然恥ずかしそうな表情にぞわぞわと様々な欲が湧いて出るようだった。

「……っ七海、触りすぎ」
「また触れられなくなっても困る」
「もう大丈夫だってば」

 壁と自分の間で身動きが取れなくなっている彼女をさらに壁際へと追い詰めるように、隣の椅子を引いてすぐ近くに腰掛ける。先ほどよりも大分近い距離で目が合うと、このままこの瞳が自分以外を映さなくなれば良いなどという浅ましい思考で脳内が満たされた。
 彼女の姿が夕方の世界と打って変わって余裕がなさそうに見えるのは、再び触れ合えるようになった今、自分がそうしようと思えば簡単にその体を力で捩じ伏せてしまえるからだろうか。

「――先輩、好きです」

 結局どうしようもない気持ちが先に口をついて出たのは自分の方で、彼女はそれに驚いたように目を丸くした。
 高専とは違う一般的な教室でこうしていると、まるで自分が普通の学生のように思えてくる。本当のところは十代半ばにして呪いを祓うなどという稀有な仕事に就き、いつ死んでもおかしくないような日々を送っているというのに。

「……うん、わたしも好き」

 それでも今は、手を伸ばせば触れられるような距離に彼女がいるだけで十分なのかもしれない。そう考えてなんともむず痒いような幸福感に浸っていると、不意に彼女が私の足元を見て「あ」と声を上げる。釣られるように視線を落とすと、そこにはよく目にするメーカーの消しゴムが落ちていた。
 細い指がそれを拾い上げた拍子に、もう大分使われて小さくなっていたそれのカバーがするりと抜けた。

「わぁ、やっちゃった!」
「……何をです?」
「これ。好きな人の名前を書いて誰にも見られることなく使い切れれば両思いになれるっておまじない」

 申し訳なさそうな顔をしてカバーを戻す彼女に、まさかそんなの信じてるんですかという言葉が喉まで出かける。しかしそれを飲み込んだのは、一般人からすれば呪いも同じようなものだと思ったからだった。
 先ほどの遊びもこのおまじないとやらも、今でこそ半ば御守り代わりといった役割を果たしているものが多いが、やはり以前は超常的な力として信じられていたのだろう。そして��呪い�≠ニ��まじない�≠ェ同じ漢字で表されることを考えれば、それらは表裏一体でどちらも人間の感情なくしては語れないというのは嫌と言うほど理解できる。
 どこかで生まれた小さな噂や今回のような何気ない遊びが知らず知らずのうちに負の感情を巻き込んで呪いに転じる、という話は少なくない。今回はその範囲がひとつの学年ないしは学校という限定的な範囲に収まっていたため大した被害はなかったが、これがさらに大多数の人間に浸透していたとすればより上級の呪霊になっていてもおかしくなかった。

「そういえば、結局原因は何だったんですか」
「あ。それがね、今回の件と関係してたみたい」
「今回の件と?」
「うん。さっき思い出したんだけど、一週間くらい前にこの学校の制服着た子とぶつかったんだよね」

 その際、女子生徒が手に持っていた手紙らしきものを落としたため拾って返したのだと彼女は言った。今思えばその手紙こそが今回の遊びにまつわる紙だった可能性が高いとのことだった。

「ルールの四つ目、��紙を渡された側が当てられなかった場合は、その人物が新たに手順一から開始する�=v
「要するに、紙を受け取った判定になっていたにも関わらず書かれた人物を当てなかった上、新たに開始しなかったことが原因――と?」
「そう。それでさっき、たまたまではあるけどちゃんと最初から手順を踏んで正しく終わらせたから解呪できたんじゃないかな」
「……なるほど」

 そう考えれば全ての辻褄が合う。あの教室に入ったときに感じたどこか覚えのある感覚は、彼女に触れようとして阻まれたときのあの僅かな呪力と同じものだったということだ。

「まあわたしは普通の人に比べれば少しは耐性があるし、あのレベルの呪いだったらあと数日もすれば自然と解けてただろうけどね」
「それでも、今後さらに広がっていた可能性を考えると呪霊が力をつける前に根本を叩けたのは大きい」
「そうだね。耐性がない人ならもっと心身や周囲に影響があるかもしれないし、今日祓えて良かった」

 満足そうに笑う彼女を見て、随分と理不尽な遊びに巻き込まれはしたが、まあそれでも今回は得るものもあっただろうと考えながら小さく息を吐き出した。
 窓の外から小さく鳥の囀る声がして、雨も風ももうすっかり止んだのだということを知る。立ち上がった彼女の「帰ろっか」という言葉に頷いて、相変わらず歩を進める度に軋む古めかしい校舎を後にした。


◇


「あれ、七海だ」

 任務から二日ほど経った放課後、図書室で一人報告書をまとめていると、聞き慣れた声が頭上から降ってくる。

「お疲れ様です」
「お疲れ様。この前の報告書?」
「ええ」

 任せちゃってごめんね、と言いながら彼女が隣へ腰掛けて、内容を覗き込むように顔をすぐそこまで近づけた。
 ふわりと鼻腔をくすぐった自分とは違う柔らかい香りに、ここ数日ずっと早鐘を鳴らしている心臓がまた忙しなく動き始めるのを感じる。

「いえ、こういうのは手が空いている人間がやる方が効率的ですし」
「わたしもそんなに忙しいわけじゃないけどね」

 そうは言いながらも一時間後にはまた予定があるという彼女は、どうやら空き時間に借りていた本を返却しに来たらしい。机上に置かれたそれに��占星術�≠ニいう文字が見えて、思わず眉根を寄せた。
 あの任務のあと、台風による交通網の乱れから高専に戻る頃にはすっかり日は昇りきっていた。
 それぞれが自室に戻ったのち、私はシャワーを浴びるなり泥のように眠り、何度寝かを繰り返して夕方頃にようやく目を覚ました。五条さんと夏油さんという最悪なコンビに見つかったのもちょうどその後すぐのことで、たしか空腹を満たそうと売店に向かった頃だったと思う。一晩中彼女と二人きりだったことについてとにかく散々質問責めにされ、挙句揶揄われ、その日はすっかり彼女と話すタイミングを失ってしまった。
 ついでに昨日も先輩は朝から晩まで任務に駆り出されており、顔すらも見ることは叶わなかった。そう考えれば、多忙であるはずの今こうして彼女に会うことができたのは運が良かったとしか言いようがない。

「やっぱり好きなんですか、そういうの」
「え? あぁ、これ? ううん、これは任務に関係あったから借りただけ」
「この前の任務も案外楽しんでいたように見えたので」
「うーん……。あれはどちらかと言うと、なんか普通の学生みたいなことしてる感じが楽しかったのかも」

 ふふ、と笑いながらそう言われて、報告書を書いていた手を止める。自分が思っていたのと同じようなことを彼女も考えていたというのが少し意外で、つい今なお近い距離にある彼女の顔を見つめた。
 何? と頬杖をつきながら微笑む姿が夕焼けに照らされ、私のことを好きだと言った彼女と重なる。じわりと熱くなる顔を誤魔化すように目を逸らせば、それを止めるように彼女の手が触れた。

「……ねぇ、七海。せっかく両想いだって分かって触れるようにもなったのに、何もしないの?」
「っ、」

 何を言ってるんですか、と言おうと視線を戻した先で、彼女の表情が予想よりもずっとしおらしく見えて言葉が止まる。てっきりいつも通り余裕綽々といった表情で揶揄おうとしているのだと思っていたのに。
 そんな顔で何もしないのかと問うだなんて、それが彼女のことを想う男にとってどれだけ理性を揺さぶられることであるかを理解しているのか。まして自分のような、今すぐにでも彼女の全てを独り占めにしたいと思っているような男相手に。

「――何か、してもいいんですか」

 かち、かち、と規則的に秒針が進む音がする。彼女の次の用事を考えれば、一緒にいられる時間はそう長くない。
 持っていたペンを机に置いて、自分よりも一回りは小さな体に向き合った。控えめに頷いた彼女の頬を手のひらでそっと包み込むと、その体温がいつもより少しだけ高いような気がした。

「普通の学生なら図書室でこんなことしませんよ」
「……それなら、普通の学生じゃなくても良い」

 随分と調子が良いことばかり言うその唇を、そうは思いながらも止めることなく強引に塞いだ。
 正しいキスの仕方など知らないし、そもそも正解があるのかどうかも分からない。それでも彼女を求める気持ちばかりが先行して、呼吸をするのも忘れてしまうほどだ。

「っ、ん」

 時折彼女が漏らす鼻から抜けるような声が、また思考回路を麻痺させる。このまま、彼女の全てに触れたい。多くは望むまいと思っていたはずの淡い片想いが、音を立てて醜い欲へと変化していくのが分かった。
 これ以上はまずい、と脳が警鐘を鳴らして、そのまま耳や首まで伝ってしまいそうな唇をなんとか自制する。時間も場所もシチュエーションも、たとえ模範的な学生でなかろうと流石に公序良俗に反してしまう。
 彼女の肩を押し返すようにしながらゆっくりとそれを離せば、少し涙目になりながら息を荒らげる彼女の姿がまるで毒のように視界から理性を殺していくようだった。
 やがて軽快な音楽と共に彼女の携帯電話が震えて、突然現実に引き戻される。それは彼女も同じだったようで、互いに纏っていたまたいつ飲み込まれてもおかしくないような雰囲気が、まるで誰かがスイッチを切り替えたかのように引き締まった。

「……もしもし。あ、うん。分かった、向かうね」

 彼女が電話越しの相手に発した言葉はそれだけで、しかしもう時間なのだろうということを理解するには十分だ。

「えっと……じゃあ、わたし行くね」
「はい、お気をつけて」

 席を立ち、パッと身を翻した彼女の耳がまだ赤いのが後ろ姿でも分かった。多分自分も似たようなものなのだろう、と思いながら、もうすっかり集中できなくなった報告書に目をやる。
 許されるならもっと先を、と願ったつい数分前の自分を思い返して、その欲深さに我ながら辟易してしまう。【結論】という欄に書きかけていた文をぼんやりと見つめながら、結局恋愛というのはどうしようと呪いと切り離すことはできないのだと身を以て思い知らされたような心地がした。
 そんな折、再度がらりと図書室の扉が開く音が聞こえた。
 普段それほど使われることはないというのに、今日はやけに人の出入りが多い。音の方向へ目を向けて、思わずこれでもかというほど顔を顰める。

「お、やっぱり七海いるじゃん」
「……お疲れ様です。やっぱりってなんですか」
「いや、さっきアイツが顔真っ赤にしてここから出てきたのと擦れ違ったから」
「……用があって来たんじゃないんですか」

 別に一昨日のことを根に持っている訳ではないが――いや、少しは持っているが、とにかくニヤニヤと楽しそうに笑う顔を見れば碌な用事ではないことくらい手に取るように分かる。

「オマエに御守り買ってきたんだよ」
「……はぁ?」

 ほら、と投げられた派手な色合いの箱を見てサッと血の気が引く。いつもコンビニやドラッグストアで目に入ろうともスルーしていたそれを、まさか自分で買うよりも早くこんな形で手にすることになるとは。

「サイズも薄さも俺がチョイスしといてやったから」
「馬鹿なんじゃないですか」
「ありがとうございますの間違いだろ」
「これのどこが御守りだ」

 ぼやくように言えば、五条さんが心底意外だとてもいうような顔で私を見る。とはいえかなりわざとらしいリアクションなそれに、また眉間のシワを深くした。

「彼女が出来たらいつ何があっても良いようにゴムは常備しておく。男としての嗜みだろ」
「……頭の隅にでも置いておきます」

 そんなことを言いながら、もしかするとこれを使う未来はそう遠くないのかもしれないと考えて頭を抱える。いや、正確には��遠くないことを望んでいる自分に�≠セが。

「何? アイツに触れるようになってさすがのオマエも煩悩まみれになった?」
「うるさい」

 咄嗟に出た目上の人間に対するものとは思えない言葉遣いよりも、私がその事実を否定しなかったことの方が五条さんにとっては余程興味があったらしい。「へぇ」とまた愉快そうに口角を上げた。

「でもまぁ、神頼みの御守りなんかよりよっぽど信頼できるだろ?」
「……」

 確かにそれはそうだ、と思いながらもあえて肯定はしなかった。こんな薄っぺらい膜一枚が神より信用できるだなんて、なんだか滑稽な話だ。
 まもなく五条さんが図書室を後にすると、やれやれと溜息を吐いて窓の外を見る。
 逢魔時。今頃またどこかで人の負の感情が生まれ、様々なものを巻き込み、まさに呪いに転じている最中なのかもしれないと思う。
 結局のところ、それを視認できるかどうかや祓えるかどうかというところだけが普通の学生と自分たちの違いなのであって、人間としての本質や他人に抱く感情、欲望というのはそう変わらない。

 そんなことを考えながら、途中で止まったままになっていた報告書に一人黙々とペンを走らせた。

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