性欲の話
原題:七海建人と性欲の話
「七海サンて、性欲あるんすか?」
目の前の後輩から突然発せられたその疑問に、隣から大きな溜息が聞こえた。
「……君はそんなことを確認するために私をここへ呼んだんですか」
「いや、違うんですけど……なんていうか、七海サンみたく強い男になるとそういう煩悩的なのもなくなったりすんのかなって」
アルコールにより少し顔が赤くなってはいるが、どうやらそれは至って真面目な質問らしい。些か前のめりになって回答を待つ彼は、果たしてその煩悩とやらで何か失敗した経験でも持つのだろうか。それとも、ただの興味本位か。
「そんなわけないでしょう。性欲のひとつやふたつ、私にだってありますよ。重要なのはそれを自制できるかどうかです」
やれやれといった風に返されたそれに少し悩む仕草を見せたのち、「ああ、鉄壁の理性ってやつ!」と手をぽんと叩きながら言う彼は、今自分の目の前にいる二人がつい最近恋人関係になったということを知らないらしい。
わたしと猪野くんと、それから七海の三人での飲みの席というのは非常に珍しい。そもそもわたしはあまり飲み会に参加しないし、猪野くんや七海だって任務帰りに二人で食事に出掛けることこそあれど、そこにわざわざわたしを誘うということは滅多にしない。
それじゃあなぜ今この場が設けられているのかと言うと、それはちょうど一週間後に、実に数か月ぶりにわたしと猪野くんで組む任務が与えられたからだった。
別にそのまま当日を迎えたところで気まずいなどということはないけれど、せっかくだから任務の情報整理も兼ねて親交を深めておこうと思い立ち、わたしから猪野くんに声を掛けた。
そしてそこに七海も参加することになったのは、彼を尊敬してやまない猪野くんに「七海も誘ってみる?」と尋ねたところ、「一級術師のお二人とまとめて飲みに行ける機会なんてそうないんで、是非お願いします!」と食いつくように返事をされたからだった。
「猪野くん、一応わたしもいるからね」
最初はもっと真面目な話をしていたような気がするが、ある程度お酒が入ってくれば四方八方、思わぬ方向に話題が転換するのは仕方がないことだ。猪野くんに一切の悪気がないことだって知っている。
とはいえ、すぐ隣に自分の恋人がいる状態でそういった話をするのは中々気が引けてしまうし、多分それは七海も同じだろうと思う。
「あ、スミマセン! お二人はスゲー仲良いし、こういう話も普通にすんのかなって思って」
「全くしないとは言わないけど……普通にするわけでもない、かな……」
そもそも、そういう��話�≠�するというか、そういう��こと�≠�するというか──と心の中でつい考えてしまうが、もちろん口には出さない。しかしどうやら顔には出てしまっていたようで、七海はわたしをちらりと見たのち、再度フゥ、と溜息をついた。
「猪野君」
次いで、名前を呼ばれてシャキッと背筋を伸ばした後輩にまっすぐ向き合って、説く。
「性欲も煩悩も酒を飲むのと同じです。それ自体が悪いわけではないし、君の言う��鉄壁の理性�≠ニやらを身につけろとも言いません。適度に上手く発散しながら付き合っていけば何の問題もない」
「適度に上手く発散って言われても……俺、今彼女いないすよ」
「……恋人がいなくとも色々と方法はあるでしょう。もういいですか、この話」
こういう話こそ男二人のときにするべきです、と少し呆れたように言う七海が、まさしく鉄壁の理性の持ち主であることをわたしは知っている。そして、その分それが決壊したときの反動が物凄いということも。
「呪術師って血生臭いというか、暗い話が多い仕事じゃないすか。だからこういう恋愛話とかその延長線みたいな話、たまについしたくなっちゃって」
不快な思いさせてゴメンナサイ、とわたしに頭を下げる猪野くんに「別に不快だったわけじゃないよ」と笑顔で返せば、彼は少しほっとした表情を見せた。
猪野くんの言うことはよく分かる。日々死線を潜り抜けるようにして生きているのだから、たまには息抜きに物凄くくだらない話や、それこそ俗っぽい品のない話だってしたくもなる。
「あーあ、俺も七海サンみたいに強くてカッコ良けりゃもっとモテたのかなあ」
「え、猪野くんってモテないの? 出来た後輩だしかっこいいのにね」
「……先輩、それお世辞と分かっててもメチャクチャ嬉しいし効くんすけど……」
「いやいや、お世辞じゃないよ」
「ならなおさら効くんですって!! やめてください、もう、マジで!!」
あまり褒められ慣れていないのか、アルコールでほんのり紅潮していた頬をさらに耳まで真っ赤にする猪野くんが可愛らしくて、つい笑ってしまう。
猪野くんもわたしもあくまで��飲みの席での先輩と後輩のやりとり�≠ニいったつもりで、そんなに本気で言っているわけではないのだから──猪野くんのことは本当に出来た後輩でかっこいいと思っているけれど──当然この話題はそういう雰囲気のまま終わると思っていたのに、どうやら一連のやりとりが面白くなかった男も約一名いたらしい。
隣で少しムスッとした表情をしたままグラスに半分ほど残っていたビールを一気に飲み干した七海は、それを机に置くと、じとりをわたしを見る。そして再び、まだ恥ずかしそうに「いや〜、俺も案外イケるんですかね!?」なんて全力で後輩力を発揮している猪野くんの名前を呼んだ。
「猪野君」
「はい!」
「彼女には恋人がいるので、狙うのはやめておいた方が賢明ですよ」
「え?」
「ちょ」
今度はわたしが思い切り恨めしい気持ちを込めて七海の顔を見る番だった。しかし当の本人は全く効いていないとでもいう風に無視を決め込んでいて、一方の猪野くんも思わぬタイミングで暴露されたそれに驚きつつも興味津々らしく、早速その相手が誰なのかを推測し始めていた。ああ、これはあまり良くない流れになってきた。
「七海サンも知ってる人なんですか?」
「ええ、まあ」
「じゃあ絶対呪術師じゃん!」
「待って。猪野くん、ストップ。それ以上は深掘りしなくてよろしい」
別に相手が七海だということを隠したいわけでもないし、いずれは彼の耳にも入ることだろうと思う。けれど、今この場でその事実を明かすのは少し──というかかなり恥ずかしい。ただでさえ先ほどまで性欲がどうとかいう話をしていたのだから、余計に。猪野くんだってこのタイミングでわたしたちがそういう関係だなんて知ったら色々気を遣ってしまうかもしれない。
えー、と不満そうな声を漏らす猪野くんに「何か追加で注文したら?」と白々しくメニューを差し出し、彼がそれに渋々といった様子で目を通している間に再度恨みを込めた視線を七海に送る。
「別に隠すことでもないでしょう」
「ば……っ!! ほ、ほら七海もグラス空いてるし次頼みなよ。ね?」
慌てて笑顔を作ってそう言うけれど、七海は何を思ったのか突然こちらへ手を伸ばし、そのごつごつとした親指でわたしの唇を左から右へと撫でるように拭った。
あまりに予想外すぎるその行動に体が固まって、次の瞬間、一気に顔に熱が集まるのを感じる。
「ついてましたよ、ソース」
七海は平然とそう言うと、別に恋愛映画のようにその指を舐めるとかいった恥ずかしい真似はせず、普通におしぼりで拭いた。いや、わたしからすれば今の行動自体がもう恋愛映画のようなものなのだけれど。
ハッとして猪野くんの方を見ると、とっくにメニューから顔を上げていた彼は口をぽかんと開けてわたしたち二人を交互に見てから「あ、いや俺のことはお気遣いなく」と言った。
彼がわたしたちの関係に気が付いたのかそうでないのかは分からないが、目の前であんなことをされれば当然そういう反応にもなるよなと思いながら、わたしは恥ずかしさを掻き消すように手元のカクテルを躊躇うことなく呷った。
「……うぅ、久しぶりに酔っ払った感じがする……」
「大して強くもないのにあんなペースで飲めばそりゃそうなるでしょう」
一時間も経たない内にすっかりと酔いが回ってしまった体が熱い。幸い悪酔いはしていないらしく、頭がふわふわする程度で心地は良い。目を閉じればすぐにでも眠れてしまいそうだ。
猪野くんがお手洗いに立っている今、この場にはわたしと七海の二人きりだった。
「なんであんなことしたの、猪野くんの前で」
「……アナタが必要以上に彼を褒めたり私たちの関係を隠したりするからです」
「つまりまたヤキモチだ」
「ええ、生憎独占欲は人一倍強いらしいので」
少し前に散々五条に揶揄われたことを思い出したのか、七海は面白くなさそうな顔で言う。
結論から言えば、猪野くんはわたしたちの関係にはまだ気が付いていないようだった。というよりも七海が一方的に��彼氏持ちのわたし�≠ノ想いを寄せていると勘違いしたらしく、「七海サン、俺応援してますから!」なんてよく分からないエールを送っていた。
「猪野くんが戻る前にお会計だけしておかなくちゃ」
「もう済ませました」
「え、いつの間に」
「まあ、私も出来た後輩ということです」
ここは三人の中で一番先輩であるわたしが払うべきだったと思うけれど、七海がこういうスマートな一面を見せてくれた時は素直にお礼を言うのが一番であると知っている。多分、彼は彼なりに譲れないプライドのようなものがあるのだろう。
それにしても後輩力で競い合ってどうするんだか、と思わず笑ってしまう。
「ありがとう、ごちそうさま」
「良いですよ。これも下心ですから」
え、と言いかけたところで猪野くんが戻ってきて、時間もちょうど良いだろうと解散の流れになる。七海がお財布を出しかけた彼を制すれば、すぐに意図を察した奢られ上手な猪野くんは眩しい笑顔で元気に感謝の言葉を述べた。
「先輩、大丈夫ですか? 結構酔ってません?」
「あー……うん。でも気持ち悪いってほどじゃないから大丈夫、ありがとう」
「彼女は私が送りますので、猪野君もあまり寄り道せず帰るように」
そう言ってスマートにコートを羽織る七海を、猪野くんは随分ときらきらとした目で見つめていた。
各々席を立ち外に出ると、ひやりとした空気が火照った顔を冷ましてくれるようで心地良い。
別に歩けないというほどではないけれど、少々足元が覚束ずフラついてしまう。それを見た猪野くんが反射的に手を出しかけて、すぐに止めた。
「っと……人手は特に必要ないっすよね」
「ええ。それに、彼女を送り届けるのは恋人の役目ですから」
七海に体を支えられる安心感で思わず眠りに落ちてしまいそうな中、そんな言葉が聞こえる。あーあ、と思うけれど、もうこのまま寝たふりをしてしまおうかとも考えて、あえて否定も肯定もしなかった。
猪野くんは驚いたような声を上げたのち「七海サンやっぱカッケー……!!」と感嘆の溜息を漏らすと、次いでぴしっと姿勢を正し、深々と頭を下げた。
「そんじゃ先輩のことは任せました! それから先輩、来週の任務よろしくお願いします!」
「ん、よろしくね。猪野くんも気をつけて。おやすみ」
結局声を掛けられれば返事をしないわけにもいかず、わたしは顔を上げたのちそう返して、ちょうど到着したタクシーへと身を滑り込ませた。
◇
「水どうぞ」
「……ありがと」
辿り着いた七海の家に訪れるのは、もう何度目になるだろうか。まだ彼と交際を始めて日は浅いけれど、まあ付き合い始めなんてものはそれなりに盛り上がるわけで、しかも互いに随分と長い間想いを募らせていたのだから、忙しい合間を縫っては求め合う日々が続いていた。
「私のいないところでは酒は飲まないでください」
「えぇ、なんでよ」
「見せたくないからに決まってるでしょう」
付き合ってみてから分かったけれど、この男は恋人に対して随分と積極的だ。これまでわたしに想いを伝えられなかった理由がまるで分からないほどに、さらりとこういうことを言ってのける。
確信を得るまでは動かないタイプなのか、はたまた単に伝えるタイミングを逃していたのかどうかは分からない。けれどとにかく、今目の前に七海の顔があるのも、その瞳が熱を孕んで揺れているのも、本当にわたしにしか曝け出さない顔なのだと知っているからこそ調子が狂ってしまう。
「だめ、今日は酔っ払ってるから」
「ほろ酔い程度でしょう。そういう時の方が気持ち良くなれますし、いつも以上に大胆なアナタも見られそうだ」
「鉄壁の理性はどこいっちゃったの」
「そんなもの最初から持ってませんよ。あの日だって必死に我慢していただけです」
そこで我慢できるから理性的だと言ってるんだけど、という言葉は口に出す前に七海に飲み込まれた。
唇を重ねる瞬間の七海のなんとまあ色っぽいことか。並んで座っていたソファに優しく押し倒されてながらそんな事を考えて、繰り返される口付けがいつも以上に気持ち良く感じるのも七海の言う通りお酒のせいだろう、と全て責任転嫁して、その首に腕を回す。それに反応するように差し込まれた舌が上顎や歯列の裏を丁寧に刺激する感覚に、ぞわりと体が震えた。
まったく、この男に性欲がないだなんてことがある筈がないのに、傍から見ればそう見えてしまうあたり実に生き辛そうだなと思う。
「これから恋人と情事に耽ろうというのに、考え事ですか」
「ん……別に。ただ、七海は本当は誰よりも情熱的で欲に忠実だよなぁと思っただけ」
「それ褒めてるんですか」
「少なくとも貶してはいない」
フゥ、と少なくとも一日三回は聞いている気がする溜息が聞こえて、ふわりと体が浮く。思わず「うわっ」と声を上げると、七海はそのままわたしを寝室まで運んでベッドに横たわらせた。自らはベッドサイドに立ったままネクタイとカッターシャツのボタンをいくつか外して、次いでサイドテーブルの引き出しからコンドームの箱を取り出した。
わたしの側にぽんと投げられたそれは、まだ封が開いていない。
「アナタの言う通り、私は独占欲にも性欲にも忠実で、かつ下心に塗れた人間ですので」
「そこまでは言ってない」
「今夜は、気が済むまで付き合っていただきます」
「七海、これ新品だよ」
さすがの七海もこれを全部使い切るほどの性欲と体力はないだろうと思いつつ、この男はいつも行為が終わった次の瞬間には平然と次の封を開けようとするのだから、実際のところ底が知れない。時間が限られているか、もしくはわたしが止めなければ何度だって続けようとするし、なんなら翌日の朝にも抱こうとする時がある。
「来週の任務の時に猪野君にも教えてあげてください、私の性欲がどの程度なのか」
「いや、知ってる先輩二人の性事情なんて聞きたくないでしょ猪野くんだって……!」
「どちらにせよ私自身も自分の限界が分かっていないので、確かめる良い機会だ」
「どこが!? 七海、明日も任務あるよね!?」
なおも抵抗を見せようとするわたしに七海が覆い被さって、「もう黙ってください」と口を塞がれる。深くなるキスの中でかちゃかちゃとベルトを外す音が聞こえて、諦めて大人しく抱かれるしかないのだということを理解する。
けれどなんだかんだ言ってやっぱり悪い気はしないのは、わたしだって性欲に忠実だということの証明に他ならなかった。
◇
「先週、あのあと大丈夫でした?」
「えっ……あぁ、うん……まあ……」
無事に呪霊を祓徐した帰り道、猪野くんの言葉に思わず煮え切らない返事をする。その歯切れの悪さでなんとなく察したらしい猪野くんが、少し同情するような目をわたしに向けたのがやけに印象に残った。
「まさか先輩と七海サンが付き合ってるとは思ってなくて、あんな話して申し訳なかったです」
「いや、こちらこそごめんね。隠してたわけではないんだけど」
「……にしても思い返すと、結構惚気られてたんだなぁ」
「え?」
猪野くんの前で惚気たような記憶はなくて、つい聞き返す。まあたしかに恋人の口元についたソースを拭う尊敬する先輩の姿を目の前で見せられるなんて、それはある種の惚気のようなものなのかもしれないけれど。しかし、しまったという表情をしている猪野くんを見るにどうやらそのことを言っているわけではなさそうだ。
「何の話?」
なんとなく嫌な予感がして、目を逸らす猪野くんに詰め寄って聞く。「近い、近いです! 言いますから!」と慌てた様子の猪野くんから距離を取れば、彼は勘弁してくれといった様子で渋々その口を開いた。
「いや、先輩がトイレ行ってる時にもうちょっと掘り下げた話をしたんすけど」
「待って、なんの?」
「あの、性欲の」
もうそれだけで頭を抱えてしまう。もちろん話題そのものもそうだけれど、思い出すと顔を覆いたくなるようなあの晩の記憶が自然と蘇ってくるからだ。
それはもう大変だった。腰が砕けて立てなくなるほどに何度も何度も抱かれて、お互いにお酒が入っていたせいかいつも以上に妙に盛り上がってしまって。結局明け方まで七海が止まることはなくて、さすがに一箱とは言わずとも、三分の二程度は使うくらいの勢いだった。しかも、まだ二十代とはいえ後半であるのに、まるで思春期真っ只中の学生のようなその精力に白旗を揚げたのはまたもわたしの方だ。つまり、結局七海の限界は未知のまま。
「それで、そん時に七海サンが��そもそも理性なんて好きな人の前では全く使い物にならない�≠チて言ってたんですけど。今思えば先輩のことだったんだなって」
あまりにも恥ずかしすぎる。七個も歳下の後輩になんてことを言っているんだ、あの男は。まあ猪野くんくらいの年齢の子はそれこそ思春期真っ只中だし、別におかしい話をしているわけではないけれど。
眉根を寄せながらそんな風に悶々と考え込んでいると、そんなわたしの様子を窺うようにしながら、猪野くんが気まずそうに再び口を開く。
「あと、もう一個あって」
「もう一個……!?」
そうして、わたしは今度こそ恥ずかしさのあまり頭を抱えてその場に座り込むことになった。ついでに次に七海に会ったら絶対に自分の性欲の強さを自覚しろと言ってやろうと心に決めて。
「��何に悩んでるのか知りませんが、猪野君くらいの年齢であれば一箱使い切るくらいで普通だと思いますのでそんなに心配しなくても良いのでは�≠チて。……それで、先輩大丈夫かな〜って」