室の花は儚くも
これは当たり前の話だけれど、世の中には善人と悪人がいる。それから、天才と凡人も。貴族がいれば平民もいるし、若者がいるなら老者もいる。貧しくても心優しい人、恵まれていても卑しい人。彼らの在り方が一体いつどこで、何によって分かたれるのかは分からない。
ぼくは死神で、尸魂界は人間が死んだ先に行き着く世界だ。けれど此処でも、最期は平等に訪れる。そしてぼくは、時にその��最期�≠ゥら少しだけ人々を遠ざけられるような――そんな能力を、持っている。
なんだか重大そうな任務だなあ。
これが、最初に抱いた感想だった。それから、どうしてぼくなんだろう、という疑問も。何故なら、ぼくはこういった依頼に適している人物には心当たりがあったし、それがぼく自身でないことを誰より良く知っていたからだ。
「引き受けてくださいますか、山田三席」
「は、はあ……」
気の抜けた生返事を聞いて、ずっと申し訳なさそうな表情をしていた虎徹隊長がようやく安堵の息を
ぼくは先ほど手渡された紙に再び目線を落として、仰々しく書き連ねられた条項の数々に眉尻を下げた。
一、病の原因究明及びその抜本的解決に努めること。
一、期間は患者の体調が著しく回復する、または患者側から治療の終了を希望される迄とする。
一、診療時に見聞きしたことに関して、一切の口外を禁ずる。
一、患者への過度な干渉は控えること。
一般的……と呼ぶには少し大袈裟すぎる気もするけれど。書いてある内容が特別おかしいかと訊かれれば、そういう訳でもない。患者の個人情報に守秘義務が発生するのは当然のことだし、任務と呼ばれるからには期間や終了条件が明示されるのも普通だと思う。
それじゃあ何がこんなにもぼくを気後れさせるのかというと、それは多分、呼び出されるなり聞かされた「貴族の方から四番隊へ直接のご依頼です」という隊長の言葉だった。
ぼくらは��護廷十三隊�≠ニいう組織の一部なのだから、すべての依頼は勿論、正式な承認を得た上で回ってきているはずだ。それでも、
「あの……隊長。この任務、本当にぼくで良いんでしょうか……?」
「先方から腕の立つ人物を、との希望があって。経歴や実力を鑑みても、山田三席以上の適役はいないと判断しました」
「あ……ありがとうございます。ただ、ぼくはその……兄と比べて、貴族の方に対する作法や礼儀には詳しくありませんけど……」
こういった信頼を必要とする任務に抜擢されるなんて、喜ばしいことだ。そう分かってはいるものの、ぼくは実際、ルキアさんと出会うまで貴族と関わった経験など殆どなかった。今でこそ朽木家を始めとする貴族に
次々と浮かんでは募っていく不安に、心の体力値がじわじわと削がれるのを感じる。隊長がどこか言いづらそうに口を開いたのは、やがてぼくの胃がきりきりと悲鳴を上げ始めた頃だった。
「……何も知らない方が、却って都合が良いんだと思います」
「え……えっと、それってもしかして……わざわざ
「確かなことは分かりません。でも、深入りされるのを嫌っている、ということは間違いないかと」
困ったような表情で控えめに言われて、思わずひいと声が出る。つまり、貴族社会に精通している優秀な者よりも、多少なり技量が劣ろうと無知な者を、ということなのだろうか。
てっきり施薬院と揉め事でも起こしたのかと思っていたけれど、その方が事情が明確なだけ幾らかましだったかもしれない。これからぼくは身一つで、そんな謎だらけの人たちの懐へ乗り込むのだ。そう考えるといつになく緊張して、体がぎゅっと強張った。
「……やはりお断りできないか、総隊長に伺ってみましょうか」
「えっ?」
「必ずしも四番隊でお引き受けしなければならない内容ではありませんし……」
そう呟く隊長が懸念しているのはきっと、実情が不透明であるこの任務に自分以外の隊士を送り出さねばならない、という点なんだろう。四番隊は救護や補給を専門とする部隊だ。だから、隊長が留守にした結果組織としての機能に支障を来してしまった、なんてことは絶対にあってはならない。かといって、先方の希望を
そういった諸々の事情を考慮すれば、三席であるぼくが出向くというのは至極真っ当な話だった。
「――大丈夫です。ぼく、行ってきます」
「でも……」
「そりゃあ、正直怖い気持ちもありますけど……。それでも、治療を必要としている人がいるのは多分ほんとうですから」
勢いのまま口走ってから、ちょっと大きく出過ぎたかな、なんて苦笑して頬を掻く。
確かに、余りに情報が少ない現状では何か出来ることがあるのかどうかすら分からない。だけど、本当は隊長だって思っているはずだ。ぼくらを必要としている人が居るのなら助けたいと。そうでなければ、初めからあんな表情を見せたりはしない。
不意に、少し強がったぼくの
「では、お願いしますね。山田三席」
「――はい。虎徹隊長」
背筋を伸ばして、深呼吸をひとつ。人知れず気合いを入れたぼくは、よし、と呟き執務室を後にした。
◇
「山田花太郎と申します」
花の香りが漂う美しい庭。それを良く見渡せる造りの部屋だった。
中央へ敷かれた布団に座り込む女性が、今日からぼくの患者となる人だ。深々と頭を下げて挨拶すれば、「お願いするのはこちらですから」と制止された。
顔を上げた視線の先、��深窓の佳人�≠ネんて言葉がぴったりなその人は、ぼくよりも少し歳上だろうか。緊張を和らげてくれるような柔らかい笑顔が印象的だった。
「花太郎さん――いえ、先生とお呼びした方がよろしいでしょうか?」
「ええっ!? い、いや、花太郎で良いですよ! ぼく、先生なんて呼ばれる柄じゃないですし……」
「それでは、花太郎さんと。良かった、素敵なお名前だと思っていたから」
「あ、ありがとうございます……」
拍子抜け――と言っては失礼かもしれないけれど。思っていたよりもずっと親しみやすいその人に、強張っていた体からゆっくりと力が抜けていくのを感じる。ルキアさんの時といい、ぼくは貴族の中でも関わる相手に恵まれているのかもしれない。それとも、もしかして貴族ってぼくが思うよりも怖くないのだろうか。
ともあれ自己紹介は早々に切り上げて、彼女の病状について尋ねてみる。するとほんの一瞬、その表情に翳りが見えたような気がした。ぼくは早速自分が何かを仕出かしたのだと思い込んで咄嗟に謝罪を口にしかけるけれど、それを音にするよりも早く、彼女は再び優しく笑った。そうして、そのまま自らの症状について静かに語り始めた。
動悸に眩暈、吐き気、時には頭痛や腹痛も。それから、全身の倦怠感。体調には波があって、調子が良い日もある。風邪かと思い幾つかの薬を試してみるも効果はなく、もう一月もの間それが続いている。――以上が、彼女の訴える病状だった。
「ううん……」
正直、繋がり得る病気を考え出せばきりがないような症状ばかりだ。これだけの情報から原因を特定するのは簡単なことではない。……というより、ほぼ不可能だった。
首を傾げて唸り声を上げると、目の前の彼女が困ったように微笑む。
「やっぱり、こんな症状ばかりじゃ診断なんて難しいですよね」
「す、すみません。実はぼく、普段は外傷の治癒にあたることが殆どなんです。なので、治療だけならまだしも現状原因の特定までは……。もう少し詳しい話を伺えればお役に立てるかもしれないんですけど……その……」
「��あまり干渉しないようにと言われているから、どこまで踏み込んで良いのか分からない�=c…ですよね」
「!」
まるで最初から分かっていたとでもいう風に、彼女は僅かにも落胆する様子を見せなかった。そうして一度目を伏せたのち、小さく息を吐いて静かに外を見る。その表情はこちらからでは窺い知れないけれど、訪れた長い沈黙が彼女の心情を表しているかのようだった。
庭一面に広がる薄桃色の花々だけが、静まり返った部屋を鮮やかに彩っている。彼女は
「花太郎さん」
「はっ、はい!」
突然呼ばれた自らの名前になんだか後ろめたいような気持ちになって、思わず声が裏返る。多分ぼくは動揺と気まずさを
「好きな花はなんですか?」
「……へ?」
次いで、間抜けな声が出た。今度こそこちらを向いたその人が、くすくすと笑いながら同じ質問を繰り返す。どうしてそんな質問を? と不思議に思いつつも回答を思案していると、つい先ほどまで目を奪われていた
「あ……。
「見ただけで分かるんですね」
「い、いえ。たまたまです。こんな名前をしておきながら何ですが、花にはあまり詳しくなくて……。でも、芍薬は生薬としても用いられますから」
このお屋敷の庭を飾り付けている美しい花――芍薬は、その根に薬効があるとされている。旬が短いことでも有名だけれど、今は丁度その時期だ。だから、ぼくは彼女の部屋へ入った時真っ先に、この圧巻としか言いようがない光景に息を呑んだ。
「ああ、だからご存知だったんですね。実はこの家の芍薬たちも、元々薬とするために祖母が植えさせたそうです」
「そうなんですか。芍薬の効能は特に女性に良いと聞きますし、そうでなくとも美に縁深い花と言われてますから、昔から人気は高かったんでしょうね」
「立てば芍薬、座れば牡丹……なんて言葉もあるくらいですもんね。せっかくこれだけ芍薬が咲いているんだから、私ももう少し立って歩き回れたら良かったのに」
これまでずっと大人らしい雰囲気を纏っていた彼女が、わざとらしく拗ねたように口を結ぶ。ぼくはこの人と出会ったばかりだし、年齢どころか名前さえも知りはしない。けれど、その仕草はなんだか彼女によく似合って見えて、少しだけ嬉しい気持ちになった。
「ちなみに、それは本来生薬の用い方を例えた言葉なんです。立てば芍薬の��立てば�≠ヘ、気が立っている女性という意味で、つまり苛立っている人には芍薬を――……」
だからつい、相手が貴族だということに対する緊張感まで忘れてしまっていたのかもしれない。彼女が目を丸くしていることに気付くと同時に、さっと血の気が引く感覚がした。
「あっ!! す、すみません!!」
ぼくは勢い良く頭を下げると、慌てて非礼を詫びる。そして碌に整理もつかぬままの頭で、勿論綺麗な人を指す言葉でもあるのだということを、それはもう酷くしどろもどろになりながら説明した。
彼女が声を上げて笑い出したのは、その直後だった。それが余りにも楽しそうなものだから、今度はぼくが目を丸くしてしまう。終いには涙まで出てきたらしいその人は、目元を拭いながら「こちらこそすみません」と謝った。
「それほど必死に綺麗だと言っていただいたのは初めてです」
「えっ!? ぼ、ぼくそんな言い方してましたか!?」
「もしかして無意識だったんですか? ふふ、余計に面白い」
たった数秒前の記憶は既に真っ白だ。でも、言われてみれば確かにそんなことを口走ったかもしれない。恥ずかしいやら情けないやらで顔が熱くなるけれど、それを訂正したり謝ったりするのも違う気がした。だって、事実彼女は綺麗で、こうして
「花太郎さん」
彼女がまた、ぼくの名前を呼ぶ。
はい、と返事をすると、真っ直ぐな瞳と目が合った。
「また、こうしてお話してくれますか?」
「それは……もちろん。ぼくなんかで良ければ」
「ありがとうございます。――こうやって会話する中で私が
口の前に人差し指を立てると、彼女はそう言って悪戯っぽく笑った。ぼくは呆気に取られて、同意を求められるままつい頷いてしまう。良いのだろうかという思いもあるけれど、彼女の体調を根本から回復させるには情報が必要なのも事実だった。
不意に手元の伝令神機が震えて、本日の診療の終わりを告げる。この部屋に入る前、彼女の世話係と思われる女性から時間は最低限で済ませるようにと口酸っぱく言われたのだ。
「もう時間ですね。今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
「またよろしくお願いします」
「はい、また。……それじゃあ、失礼します」
来た時同様に頭を下げて、畳から立ち上がる。そうして、帰り際に彼女の部屋の襖を閉める寸前。その隙間から、またあの表情が垣間見えた。酷く寂しそうで、何かを思い詰めているような――そういう顔。だからぼくは、早くまた此処へ来て必ずこの人を治さなければ、と強く思ったのだった。
◇
彼女を診るのは、およそ三日に一度。日付や曜日が明確に決まっている訳ではないけれど、来てほしいという連絡が入るのはいつもそのくらいの頻度だった。連絡が本人からであったことはなくて、それは毎回世話係と思われる女性からだ。彼女はぼくの友人ではなく患者で、貴族の令嬢でもある。だから、直接連絡をとらないのも呼ばれたときにだけ訪ねるのも当然のことだった。
ぼくは、限られた時間で彼女と色々な話をした。と言っても他愛のない話が殆どで、相変わらず彼女の名前さえ知りはしなかった。いつ見ても美しいこの庭は、専属の庭師が手入れをしているらしい。三度目の時、ぼくは彼女の部屋からその人の姿を見た。寡黙で真面目そうな、職人気質の男性だった。年齢は多分、ぼくらより数百は上だろうか。それでも二人の時はよく話をしてくれるのだと、彼女は嬉しそうに話していた。
週に二回程度の僅かな診療時間を除けば、ぼくが彼女と関わることはない。それどころか、どんな些細な出来事すら口外することは許されなかった。診察時以外で唯一彼女に関する話を聞いたのは、道中の貴族街で偶然とある立ち話を耳にしたときくらいだろうか。彼らはぼくが通い詰めるその場所を��芍薬屋敷�≠ニ称していて、同じ貴族でもそう呼ぶほどなのだからやはりあの家の芍薬は見事なのだろう、と思った記憶がある。とはいえ、幾ら何気無い話であっても貴族の会話に耳を傾けるのは恐ろしい。だからぼくは足早にそこを通り去ってしまって、一体どういった内容が語られていたのかは想像もつかなかった。
それから、これは後で聞いた話だけれど、彼女の部屋から見える庭は所謂裏庭にあたるものらしい。主たる庭園は屋敷の主人である彼女の父親の部屋に面していて、ぼくが感嘆したそこよりもずっと広いのだという。ついでに少し離れた場所には蔵があり、そこの裏手にも芍薬が咲いていると彼女は言った。対するぼくは、あまりに規模が大きい話にちっともついていけないままそれを聞いていた。
「次に来てくださった時、一緒に蔵の方の庭を見に行きませんか?」
彼女からそう提案されたのは、五度目の診察時だった。何でも、少し離れた場所というわりに此処からは随分と距離があるらしく、そのうえ蔵に行く用事など滅多にないことから、もう何年もそこへ赴いていないのだという。
「だ、大丈夫なんですか? ぼくが敷地内を歩き回って……」
「大丈夫です。だって、私が言い出した我儘ですから」
そう言っていつも通りの笑顔で笑われてしまえば、ぼくには断るすべも理由もない。だから大して深くも考えずにそれを了承して、その日は間もなく帰路についた。そうして、ぼくは夜に自室の布団へ寝転がってから初めて、一体いつまでこうして無力な時間を過ごすのだろうと自問した。いざというときにぼくがいるから、だからこんなお願いができるのだと彼女は言う。それでも、事態が何一つ好転していないのは事実だった。
何よりも嫌気が差したのは、あの人と話す時間を心の何処かで待ち侘びてしまう、世間知らずも甚だしい自分の気持ちだった。
その日は空が曇っていて、いつ雨が降り出してもおかしくないという天気だった。
いつも通り襖の向こうへ声を掛けるも反応はなく、ぼくは一言告げてから慎重にそれを開ける。真っ先に目に飛び込んできたのは、額に脂汗を浮かべ、呼吸を荒らげる彼女の姿だった。慌てて駆け寄って、落ち着かせながら脈を取る。けれど、本人も動揺しているのか乱れた息は少しずつ、さらに上がっていった。比例するように、触れた細い指先からは徐々に体温が失われていく。震える彼女の目から涙が零れ落ちるのを見て、ぼくは思わずその頬に自らの手を添えた。そして、揺れる瞳をしっかりと見据える。
「大丈夫です。ぼくのことを見て、ゆっくり深呼吸して」
「は、はなたろう、さん……っ」
「ぼくが、絶対に治しますから」
言い聞かせるようにゆっくりと。でも、はっきりと告げた。決して、その場凌ぎの科白なんかじゃなかった。まだ此処へ来るようになって日は浅いけれど、この任務を引き受けた瞬間からずっと、本当にそう思っている。
ぼくの言葉で少しは安心してもらえたのか、彼女はこくこくと頷いたのち深く息を吸って、そして吐き出す。それをしばらく繰り返すと、やがて時間をかけて彼女の症状は落ち着いていった。いつの間にやら周囲には騒ぎを聞きつけた世話係や使用人が数名おり、不安げに彼女を見つめていた。
「……花太郎さん」
「はい」
運ばれてきたぬるま湯を一口か二口だけ口に含むと、その人はゆっくりと布団へ体を横たえる。そののち、いつもより少し掠れた声でぼくの名前を呼んだ。最初は緊張するばかりだったはずのそれを、いつの間にか酷く心地良く感じているのが不思議だった。
「……蔵側の庭を、見てきていただけませんか?」
「な、何言ってるんですか。こんな状態でぼくが席を外すなんて、」
「彼女たちには私が許可したと伝えます。……だからどうか、お願いします」
違う。ぼくが心配しているのは、周りの目なんかじゃなくて。そう言えなかったのは、彼女の瞳の奥に何か決意のようなものが滲んでいるのを見たからだった。まだ少し冷たい指が、ぼくの手をぎゅうと握る。
しばらく互いを見つめ合ったのち、軽く下唇を噛んだ。それは悔しさからの行動なのか、或いは不甲斐なさからなのか。自分でも分からなかったけれど、いずれにせよ無意識下の行動であることには違いなかった。
なんとなく、察しはついた。この人は自分の体調不良の原因に何か心当たりがあるのかもしれない、と。それとも、疾うに確信に近い何かを持っていたのだろうか。眉間に力が入るのを感じながら頷いて見せると、彼女は弱々しく、申し訳なさそうに微笑んだ。
◇
ぼくが戻る頃には、彼女の部屋はもうすっかり静まり返っていた。先ほどまでいたはずの世話係らは、きっと彼女自身が下がらせたのだろう。「失礼します」と声をかけて部屋に入ると、その人はしとしとと雨が降り注ぐ庭を見つめていた。彼女と景色の境界は、初日よりもなお曖昧に見える。瞬きをする間にその姿が消えてしまってもおかしくないくらいだ。
「……体調は、大丈夫ですか?」
「はい。花太郎さんのおかげです」
どうやら、先ほど彼女に触れた際ぼくが気持ちばかりの霊力を使っていたことはばれているらしい。おまじない程度のそれひとつで、これまで何も出来ていないぼくのおかげだと言われるなんて変な話だ。
少しの沈黙は、互いに何から話すべきかを思案している証拠だった。湿った空気が吹き込んで、庭の芍薬がざわざわと揺れる。もう一月もしたら、この花たちは散ってしまうのだろう。
「……芍薬は、綺麗に咲いていましたか?」
やがて口を開いたのは、彼女の方だった。
その顔は見えない。けれど、どんな表情をしているのかはなんとなく分かっていた。
「――……蔵の方には……咲いていませんでした。芍薬は」
「……そうですか」
ゆっくりと、彼女がこちらを向く。想像していた通りに、寂しそうな顔をしていた。胸の辺りがじくりと痛んで、このまま告げずに全てが終わるのなら、本当はそうするべきなのかもしれないと思えた。
「咲いていたのは……石楠花です」
「……シャクナゲ?」
「はい。名前も咲く時期もよく似ていますけど、近くで見れば本来直ぐに分かります。それが詳しい人なら、尚更」
「……��詳しい人�=v
ぼくには治せない傷が、彼女の中に深く刻まれていく。それが容易に分かるくらい、痛々しい笑顔だった。部外者でしかないぼくには、触れることは愚か分かち合うことすら叶わない痛みがそこにあった。
「――……毒性が……あります。石楠花には」
「…………」
「昔から時折芍薬を煎じて服用していると、先ほど世話係の方が教えてくれました。……それから、そのための花を用意してくれている人が誰なのかも」
「……そう、ですか」
美しく整えられた庭からは、如何に誇りをもってその仕事に臨んでいたのかが見て取れる。だからこそ、ぼくには分からなかった。彼が心の奥底に抱えているものも、きっとそれに気付いていながら心にしまい込んでいた彼女も、逆に何も気付かなかったという周囲の人たちも、何もかも。
「……最初に変だと感じたのは、花太郎さんが此処へ来る少し前でした。それでも、芍薬はこれまでも飲んでいましたし、ただの風邪だと思うようにしたんです」
強まった雨が、彼女の声をかき消そうとする。悲しげな横顔は、こんな話をするには似つかわしくないほどに綺麗だ。
「おかしいと思われるかもしれませんが……善い人だったんです。本当に。もしかしてと思っても、疑う自分の方が悪だと感じられてしまうくらいに」
「……ぼくには、毒を盛るような人が善い人だなんてとても……。もう少し摂取し続けていたらどうなっていたか分かりません」
「本当に、そうですよね。――多分、信じたくなかったんだと思います。昔からずっと、この部屋にしか居場所のない私と話してくれたのは……あの人だけでしたから」
ぼくは、あの庭師がどれだけ長く献身的にこの屋敷に仕えていたのかを知らない。それでも、主の娘に毒を盛るなどという非道な行為が到底許されるものではないことくらいは理解できた。だからきっと、彼には相応の処罰があるのだろう。そして彼女は、ぼくよりずっとそういう��常識�≠�分かっている。多分ぼくが幾度となく見たこの表情だって、それを憂う気持ちからきているのだ。
「……でも、怖くなったんです。このまま体調が悪化したら、もう二度と花太郎さんとこうしてお話しできなくなるかもしれない、って」
「え……」
その言葉に思わず顔を上げれば、彼女は目を伏せ、申し訳なさそうに俯いていた。
「ごめんなさい。花太郎さんは私を治そうと頑張ってくれていたのに、黙っていて」
「……そんな。別に、謝ることなんて何も……」
「花太郎さんの時間を、たくさん奪ってしまいましたから」
謝らなければならないのは、ぼくも同じだった。だって、ぼくは結局この人のためになることなんて何ひとつ出来なかった。ぼくにもっと恐れない気持ちがあれば。行動力が、知識が、技量があれば。もっと早くに、彼女を救うことが出来たはずだ。
手に力を込めてぎゅっと握り拳を作る。必要以上に力が入ってしまったそれが、やけに痛い気がした。
「……これで原因は分かりました。だから、今日で診察は最後ですね」
期間は患者の体調が著しく回復する、または患者側から治療の終了を希望されるまで。今の状況がそのどちらを満たしているのかと問われれば、圧倒的に後者だろうと思った。それでも、いつまでも自分の無力を嘆いているだけでは何も意味がないということも、ぼくは知っていた。後悔をしたくないのなら、ひたすら努力をするしかない。些細なことでも、今できる努力を。
「あの、」
「……?」
「また……会いに来ても……良いですか?」
こんな科白が今この瞬間の精一杯の努力だなんて、いまいち恰好が付かない。それでも、驚いたような顔をした彼女がようやく嬉しそうに笑ってくれたから、ぼくも自然と笑みが零れた。
◇
芍薬屋敷の主は、一部から強く恨みを買うような行動が見られる人だった。それが具体的にどのような内容だったのかまでは分からないけれど、結果として、被害者の一人であった庭師が遂にその報復として娘である彼女へ手を掛けた。平たく言うなら、それが事の顛末だった。
何も命を奪おうなどとは思っていなかった、と庭師は言う。けれど、一切関係のない彼女へ矛先を向けた時点でその言葉の真偽など語るだけ無駄だった。彼女の体調不良が始まって間もなく、彼女の父はその原因が内部にあることを既に悟っていたのだという。それでいて、自らの従者――つまり自分の管轄内に所謂��反乱分子�≠ェいる、という事実が流布することを嫌い、全てを水面下で処理してしまおうと考えた。それが、真央施薬院ではなく四番隊へ依頼を寄越した理由だった。
蓋を開けてみれば、これは人のあらゆる悪意が凝縮されたような任務だった。全てを知ったぼくは遣る瀬無い気持ちになって、大きな溜息を吐く。いや、正確にはぼくだけじゃない。虎徹隊長も、京楽総隊長も。初めからこの話にきな臭さこそ感じていたものの、そこに彼女という患者がいると聞かされた以上、詳しい事情は分からずともこの話を無視することはできなかった。
善人だから救うのか、悪人だから放っておくのか。それじゃあ、もしそれが貴族の悪人だったら。��命に貴賎なし�≠ネんて言葉があるけれど、人はいつも無意識に何かを選んで、何かを捨てている。ぼくは、目の前で最期を迎えようとする人を助けるか否かを迫られたとき、一体どうするんだろう。どうするのが、正しいんだろう。
そんなことを考えながら、少し久しぶりの見慣れた襖の向こうへ声を掛けた。どうぞ、という声がして、そっとそれを開く。
「こんにちは、花太郎さん」
その人は、庭のすぐそばに立っていた。部屋にはもう、布団は敷かれていない。
芍薬の旬は終わってしまった。庭師がいなくなったことで幾らか荒れてしまっている庭に、最近落ちたばかりらしい花弁が絨毯を作っている。
「こ、こんにちは。……お久しぶりです」
数週間見ていなかった彼女の姿に、何故だか酷く緊張した。それはこの人が貴族だからか、それとも。思わず言葉に詰まってしまったぼくの元へ、彼女が近づいてくるのが見えた。目の前にきてもその足は止まらず、やがてすらりと美しい手がぼくの方へゆっくりと伸ばされる。
彼女の顔が、すぐ近くにある。それでもなお、まだ近付く。
「えっ、ちょっと……っ!」
「――……」
「……へっ?」
ひそりと囁かれた耳元が熱くなって、ついでに心臓もばくばくと音を立てた。身体中の血液が沸騰してしまいそうだったから、多分頭だって碌に回っていなかった。だから、つまり、そのせいだと思う。彼女が離れようとするのと同時に、ぼくがその手を掴んでしまったのは。
「あ、あの……今の、って……」
「――……名前です、私の」
「ええっ!? だ、だって……良いんですか、そんな……」
「……良いんです! こんな家、そのうち出ていってやりますから」
ふふ、と微笑んでみせる彼女はもう、ぼくの患者ではなかった。それじゃあ何なのかと訊かれると答えは分からないし、この人とぼくとではあまりに身分の差が大きいけれど。それでも、せめて友人と名乗るくらいは許されるのだろうか。
悶々と考え込んでいると、ふと、随分と広くなったように感じられる部屋へ穏やかな風が吹き抜けた。そうして、ぼくらの間を縫うようにして一枚の花弁が運ばれてくる。
「だから……改めて、よろしくお願いしますね。花太郎さん」
それは綺麗な、薄桃色の花だった。