劣情に溺れる・中



 市丸隊長が居なくなってからというもの、三番隊の隊舎はいつも妙な静けさと雰囲気に包まれていた。僕含め、隊員達が誰よりも信頼を寄せ行動の指針にしていた人物が忽然と消えてしまったのだから、組織としての統率が乱れるのも無理はない。全て過ぎた事とはいえ、中には未だ僕の副隊長としての素質に疑念を抱く者も存在するのだろう。
 隊長不在の執務室に長らく入る勇気が出なかったのも、そんな状況下に於いて自分が隊を取り纏めなければならないという事実と真正面から向き合うのが怖かったからだ。此処に再び足を踏み入れる事が出来たのはつい最近で、思っていたよりは僕を非難する声が少ないというのを知ったのもやはり最近の話だ。
 コツコツ、と扉の方から音がして、手元の書類から顔を上げる。あんな事件の後なのだから、扉を閉め切ってしまうと信頼性だとか透明性だとかいうものに欠けるだろうと思い、敢えて入り口は開け放していた。その為、音の方向を見るなり彼女の姿は直ぐに目に入って、数日振りに視認したそれに心臓がどくりと跳ねた。

「吉良副隊長。執務中、失礼いたします」
「え……あ、あぁ……。どうしたんですか、そんなに畏まって」
「どうしたも何も、今は仕事中ですから」
「まぁ、それはそうですけど……」

 三番隊の所属ではない彼女が此処に来るのは珍しい――というより、恐らく初めての事だった。そもそも、彼女の様な席番を持たない死神が他の隊舎の執務室に赴くなど滅多にある事ではない。だから、数歩も下がる様なその立ち居振る舞いも、彼女から��吉良副隊長�≠ニ呼称される事も、余りにも馴染みが薄くて戸惑ってしまう。考えてみれば瀞霊廷内や他の場所で顔を合わせる時は私事が殆どで、これまで彼女とまともに仕事で関わった機会など片手で十分事足りてしまう程に少なかった。

「……そんな風にされると調子が狂うので、普段通りだと助かります」

 僕がそう言うと彼女は若干困った様に眉尻を下げて、その視線を控えめに扉の方へ向けた。ああそうかと思い開け放していたそれを閉めると、些か安堵した表情へ変わる。幾ら個人的な付き合いがあるとはいえ、彼女の職務上の立場からすれば、公の場で副隊長相手に砕けた対応を取るのは憚られるのだろう。
 短く礼の言葉があって、次いですらりと美しい手が数枚の紙をこちらへ向けて差し出した。

「これ、急ぎで署名が必要な書類みたいで。たまたま手の空いてたのが私だったから持ってきた」
「有難うございます。確認するので、座って待って貰えますか」
「うん。忙しいのにごめんね」
「今はこれも僕の仕事なので」

 受け取った資料に軽く目を通しながら言うと、室内の長椅子に腰を下ろした彼女が一瞬だけ寂しそうな顔を見せた。しかしそれは、彼女が応接用の机の中央に置かれた焼菓子を見て「これ食べても良い?」と尋ねる頃にはすっかり元通りになっていた。
 暫くの間、僕が紙を捲るかさかさという音と彼女が焼菓子を咀嚼する音だけが執務室に響いた。二人きりの部屋が妙にそわそわと落ち着かないのは、先日の阿散井くんとの会話の所為だろうか。ザクザクという小気味の良い音を聞きながら、視界の端に映る彼女を何度か盗み見る。先程の悲しそうな表情は僕に向けたものなのか、それとも別の何かに対するものなのか。もうずっと、僕は彼女の事が何ひとつ判らないままだ。
 無意識の内に自らの名前を書き込んでいた筆が止まって、白い紙に小さく黒が滲んだ。

「――本当は、どう思ってるんですか」

 聞こえずとも構わないという風な声量で呟いたそれは、しかしながら空に消える事は無かった。彼女が僕の方を見たのが俯いたままでも感じ取れて、はっとする。そこで初めて手元でじわりと広がってしまった墨にも気が付いて、慌てて筆先を離した。

「……何の話?」
「っ、いや……。すみません、忘れてください」

 何を訊いているんだ、僕は。こんなのは全くもって公私混同も良いところじゃないか。気を取り直す様に素早く取り消し線を引いて、その下に改めて走り書きで署名する。このインクが乾いたら直ぐに彼女に渡して、一刻も早く然るべき場所へ届けて貰わなければならない。そう思ったのは、そうしなければまた余計な事を口走ってしまいそうだったからだ。彼女は未だ何かを言いたげにこちらを見つめていたが、やがて焼菓子が入っていた包みを手に取って柔らかく口角を上げる。

「これ、美味しかった。ご馳走様。修兵から聞いてずっと気になってたんだよね」
「あ、あぁ……僕が用意した物じゃないですけど、それなら良かったです」
「そろそろ戻るね、そっちも良さそうだし」

 彼女の指差した先、僕の手元の書類は確かにもう何も問題は無く、いつでも提出出来る状態になっていた。唯一問題があるとするならば、自分から忘れろと言っておきながら彼女の本心が知りたくて仕方が無い僕のこの心情だけだ。
 必要な物を受け取る為に伸ばされた彼女の手を見つめて、曖昧に口を結ぶ。僕のそれなんかよりも余程細くて、握ろうと指を絡める時はいつも力加減が判らなくなる。そして、この期に及んでも未だ��この手が僕以外の背にも回されるのか�≠ネどという事を考える自分の女々しさに辟易した。

「吉良」
「……はい」
「本当に好きだよ。吉良の事」
「え」

 隙間を縫う様にして手元の紙が奪われたのち、「じゃあまたね」という言葉と共に彼女の背中が執務室の扉の向こうへと消える。
 呆気に取られる僕と彼女からの二度目の告白だけが、隊長不在のその部屋に取り残されていた。


◇


 最初に彼女を抱いた日が、所謂童貞というものを捨てた日だった。当時心身共に憔悴していた僕は、好きだと言われたのを良い事に自分の存在価値を確かめるかの如く彼女と体を重ねた。そうして、溶けてひとつになる様などうしようもない快感から忽ちその行為にのめり込んだ。
 だから二度目は直ぐの事で、恐らく一度目から半月も経たない頃だった様な気がする。三度目は少し期間が空いて、全てを忘れてしまいたくなったと或る夜。確か、空座町への派遣が決まり、実際に現世へと赴く前の事だったと思う。そして、先日が四度目だ。

 思い返してみれば、彼女からはっきりとその営みに誘われたのは最初の一回限りで、それ以降はいつも僕が自分の都合で私室へと呼び出した。何故彼女は恋人でも無いそんな僕に体を許すのか、と考えなかった訳ではない。寧ろ、四度目を迎えるまでに何百回とその思考に至っている。それでも彼女に浮ついた噂が多いのは事実であったし、その本心を訊き出すのは酷く勇気がいる事だった。いつかは止めなければならないと理解しつつも彼女を手放したくない気持ちばかりが募ってしまって、核心に迫る事を恐れていた。

 そういう意味では、今回それを確かめる機会を得られたのは僥倖だったと言えるのかもしれない。彼女にとっては不幸な形であったし、僕自身も決して人の死を軽んじている訳ではない。しかし死神という職業柄、自身と無関係な者の死を一々嘆く程お人好しでも繊細でも居られない。
 とにもかくにも、斯くしてその本音は聞き出す事が出来た。彼女曰く、僕が雛森くんを想うのと同じ気持ちを抱く相手が居るが、それでいて僕の事も本当に好きという事らしい。前者について正確に表すのなら、��居た�≠ナはあるけれど。


「……つまりどっちが本命なんだって話ですよ……」
「吉良、あんた飲み過ぎよ」
「乱菊さんが飲ませたんでしょ! つーか吉良、お前も良い加減節度ある飲み方ってもんを覚えろ!」

 飲み過ぎだと指摘しながらもそんな僕を眺めるだけの松本さんと、手元から酒盃を取り上げる檜佐木さん。諸々落ち着いたのだから一杯やろうと声を掛けられたのは、本日分の業務を終えて隊舎を出た時の事だ。突発的な会とはいえ、彼女からの告白を受けて以降その他一切を考えられなくなっていた僕にとって、それは気分転換には持って来いの誘いだった。しかしながら、酒を飲もうが目の前の先輩達と話そうが脳は延々と彼女の言葉を反芻し続け、結局幾度と無く同じ思考に立ち戻ってしまう。

「好きって、男としてだと思いますか? それとも後輩として?」
「何、告白でもされたの?」

 今の自分は大層酔っ払っているのだろう、と全く働かない頭でも判る。だから、普段であればもう少し躊躇ったかもしれないその科白はいとも容易く口から滑り落ちた。

「……好きって言われて、セックスしました」

 と同時に、檜佐木さんが口に含んでいた酒を勢い良く噴き出す。

「セ……ッ、は⁉ お前それマジで言ってんのか⁉ 相手は⁉」
「後輩として、って事はつまりあんたより先輩って事?」

 それは、殆ど念の為の確認作業といった風に見えた。二人共が僕の相手におおよその見当を付けた上で、なお信じられないという表情をしている。当然だ。僕が先輩と位置付ける人の中で普段から関わりのある女性など、指折りで数える程しか居ない。その中でも彼女は松本さんとも檜佐木さんとも付き合いが深く、特に檜佐木さんに至っては相当身近な人物と言っても差し支え無いはずだ。ごくりと息を呑む様にして僕の返答を待つ彼らに、果たしてその期待通りの名前を告げた。

 一瞬で酔いが醒めた様に顔を引き攣らせた檜佐木さんは、彼女に対し他とは何か違う感情でも抱いていたのかもしれない。或いは、単純に僕と彼女がそういった行為に及んだという事実が受け入れ難いだけか。どちらだとしても十分に納得はいくし、仮に僕が檜佐木さんだったとしても俄には信じられない話だろうと思う。一方の松本さんも、彼程顕著ではないもののやはり面食らった様な表情を見せていた。けれど彼女の場合、相手が��想定していない人物だった事�≠謔閧焉A却って��想定していた人物では無かった事�≠ノ驚いているらしかった。

「あたし、てっきりあんたは雛森が好きなんだと思ってたわ」
「……僕だってそう思ってましたよ」
「なんだそりゃ、イマイチ煮え切らねえ返事だな……」

 本当に、僕だってそう思っていた。というより、今なおそうで無かったとは言い切れない。しかしあの先輩に抱く気持ちと雛森くんに抱く気持ちがあまりにも違うのも事実で、このどちらを恋愛感情と呼ぶべきなのかが今の僕には判らない。仮にその両方が恋愛感情なのだとしたら、こんな劣情に塗れた彼女への想いだけが酷く汚らしいと思う。始まりから決して綺麗なものでは無かったが、今の彼女へ抱く感情を一言で表すのなら、��独占欲�∴ネ外の言葉は思いつかない程だった。

「にしてもあいつ、それなりにモテる癖に全然相手作らねえと思ってたら吉良の事が好きだったのか……盲点だったぜ……」
「……その��相手�≠チて、恋人って意味ですか」

 僕の問いに、檜佐木さんは一瞬意図が掴めないという顔をしたのち、「んー」と小さく唸る。

「つうよりは恋人も含め、だな」
「あの子、不名誉な噂ばっかり流れてるけど本当は全然そんなんじゃないのよ。フラれた一部の男が有る事無い事吹聴してるだけ」
「……! へぇ、そうなんですか……」

 それ程の人気があるなら尚更どうして僕なんか、と思う反面、不覚にもその事実が嬉しいだなんて感じてしまう。「ほんとダサいったら無い。だからフラれるんだわ」と続いた松本さんの科白は半分頭に入って来なくて、それなら彼女が僕と寝たというのは想像以上に意味のある事だったのかもしれない、という様な思考ばかりが頭の中を巡った。

「……で、」

 ようやく気持ちが落ち着いたのか、檜佐木さんが長い溜息をひとつ吐いたのち口を開く。酒に侵された脳では相変わらず少しも考えは纏まらないが、彼が自分に対し何かを言おうとしているのだろうという事は判った。それが好ましい内容の話なのか、それとも何かしらの苦言なのかは判断が付かない。無言でそちらに目線をやって、続く言葉を待つ。

「お前の方こそ、つまりどっちが本命なんだよ?」
「……はい?」

 予想から随分と乖離したその言葉は、僕を真っ直ぐに捉えながら極めて真剣な声色で発せられた。檜佐木さんはそれを正か負の感情で語る素振りなど微塵も見せず、只々純粋な疑問として答えを求めている様だった。詳細を話した訳でも無いのだから当然なのかもしれないが、責められる覚悟すらしていた僕にとって今はそれが救いに感じられた。人様から見て、僕の取った行動が褒められたものでない事くらい理解している。

「好きだって言われたんでしょ。だったら、決めるのはあの子じゃなくてあんたなのよ。吉良」
「――……」

 返答に詰まる僕を見て、松本さんも普段よりずっと真面目な顔つきで、そして落ち着いた声で諭す様に言う。目の前の先輩二人がこうも真摯な表情をしているのを見れば、僕としても少しは頭が冷える。
 今こうして訊かれるまで、自分自身が決める立場にある可能性など考えた事も無かった。言われてみれば当然なのかもしれないが、そもそも彼女が本気なのかどうかさえ判らなかったのだから、この関係を続けるも切り捨てるも彼女次第だと思っていた。というか、僕の様な奴が彼女や雛森くん相手にどちらが本命かとか悩むなんて余りにも烏滸がましい。
 それでも、松本さんの言う事が十分納得するに値したのも事実だった。

「……あの人の口から他の男の話が出ると、なんだか無性に腹が立つというか」
「へぇ。そりゃ俺も気をつけねえといつかお前に刺されるな」
「い、いや。僕なんかが檜佐木さん以上になれるとは思ってませんよ」
「けど、出来るなら自分が一番になりたいって思っちゃうんでしょ? 誰がどう見ても立派な嫉妬ね」

 やれやれといった風に首を振る松本さんを見て、ふと先日の阿散井くんの科白が脳裏を過ぎる。彼も確か、僕の事を��嫉妬深そうだ�≠ネんて言っていた。
 それに、出来るなら彼女の一番になりたいと思っているのも事実だ。僕は彼女と檜佐木さんの仲が良い事を知りながら、その名前を��修兵�≠ニ呼び捨てる関係性に羨ましいという感情さえ抱いていた。彼女は僕の熱を受け入れている時ですら、決して僕を下の名前で呼んだりはしないというのに。
 本当に、こんな些細な事をひとつひとつ気にしている自分が厭で仕方なくなる。実際のところ、心の何処かではもう気が付いていたのかもしれない。松本さんや阿散井くんの言う通り、この醜い感情が��嫉妬�≠ネのだと認めざるを得ない事も、彼女への気持ちが紛れも無い恋愛感情なのだという事も。

「……じゃあ、僕の雛森くんへの気持ちって何なんですかね」
「憧れだろ、憧れ。こう、同学年に居る可愛い子を無条件に好きだと勘違いするみたいなアレ。雛森が同じ様に他の男の話してたとして、腹立つのか?」
「……いえ。腹が立つというよりは、諦めに近い感じなんじゃないですか。だって、雛森くんが僕を好きになる訳が無いし……」
「その時点で答え出てんじゃない。雛森の事はみんなの人気者みたいに思えてるけど、あの子の事は何が何でも独り占めしたい。そういう事でしょ?」

 またも妙に納得してしまって、途端に頭の中へ思考の波が押し寄せた。なら、僕は一体いつからあの人の事が好きだったのだろう。一体いつから、自分が彼女を好きでないと言い訳する為に彼女の気持ちさえも純粋ではないと決め付けていたのか。それに、あの人は僕から雛森くんへ向けられた感情が憧れである事に最初から気が付いていたのだろうか。だとすれば、彼女が言っていた��気持ち�≠ヘ端から何の矛盾もしていなくて、ずっと一貫性が無かったのは寧ろ僕の方という事になる。そんな彼女を都合良く利用したのも、��お互いに�≠ネんて言葉を免罪符にしていたのも、初めから僕一人だけだ。

「あ! 馬鹿、お前それ何度の酒だと思ってんだよ!」

 自棄酒とはこういう事を言うのだろう、と慌てて止めに入ろうとする檜佐木さんを横目に考える。それでも構わずに酒瓶を奪い取って、その液体が全ての思考を意識の外まで飛ばしてしまう様に、ひたすら杯を呷り続けた。
 そうして、酔いと共に襲い来る途轍もない眠気に目を閉じる寸前。松本さんが彼女の名前を呼んだ――様な気がした。




「……、吉良、大丈夫? 起きられる?」

 ひやりとした空気を感じながら、呼び掛けられた自らの名前にうっすらと瞼を持ち上げる。頭がずきずきと痛んで、胃の辺りが気持ち悪い。今自分は何処に居るのだろう、と視線を左右に振ってみると、辺りは随分と暗い。どうやら、僕は外に居るらしい。

「水飲む?」

 幻聴だろうか、頭上から彼女の声がする。この気持ちが確かな恋心だと認識してしまった所為で、体のあちこちに不具合が起きてしまっているのかもしれない。まぁ幻聴でも別に構わないか、と声の方向へ顔を向けると、心配そうな顔をした彼女が僕の顔を覗き込んでいた。
 今度は幻覚だろうか。意識を飛ばすまで飲んだとはいえ、酒が原因で幻聴と幻覚が同時に起こった経験などこれまで一度も無い。もし今見聞きしている彼女の姿や声が本物でないのだとしたら、多分僕は明日にでも四番隊へ掛かるべきだ。

「…………先輩?」
「うん。おはよう、吉良」
「え、な、何で? というか、今何時ですか?」
「今は午前零時過ぎ。修兵と乱菊さんから��吉良の事迎えに来てやってくれ�≠チて連絡があったの」

 全く状況が飲み込めないのは、恐らく酔っ払っている所為ではない。というよりも、この現状を目の当たりにして却って酔いは醒めていた。松本さんや檜佐木さんと一緒に飲んでいたのが二十二時頃だった事を考えれば、僕はあれから二時間近く眠っていたという事になる。
 否、そんな事はどうでも良くて。問題はあの二人が彼女を迎えに寄越した、という事だ。これはどう考えたって確信犯であるし、そもそも呼ばれたからといってこんな夜更けにあっさり外出する彼女も彼女だ。普通であれば席官になっていてもおかしくない程度の実力がある事は知っているが、万一の場合でもあったらどうするつもりだったのか。

「ずっと一人で此処に?」
「ううん、さっきまで二人も一緒に居たよ。というかお店の閉店が零時だったから、吉良が外に出されたのも今さっき」
「……すみません。貴女にまで迷惑を掛けるなんて」
「良いよ、どうせ明日は非番で暇してたし。それに、護廷十三隊の副隊長ともあろう人がこんな道端で酔い潰れてるの放っておけないしね」

 ふふ、と笑った彼女に心臓がぎゅうと締め付けられる感覚がする。元々綺麗な人だとは思っていたけれど、何というか、少し前までとは見え方がまるで違う。僕は本当にこの人を抱いたのかと疑いたくなる程に魅力的で、「立てる?」と差し出された手に思わず生唾を呑み込んだ。どくどくと忙しない心音に気付かない振りをして、その手に自らのそれを重ねる。触れるのと同時に、体の奥から様々な欲望が湧き上がる感覚がした。

 ――ああ、僕は何処までも最低な男だ。罪悪感からの逃避だとか、自身の存在価値の証明だとか、そういう理由も何も無くこの人を抱きたいと思っている。
 あれ程自己中心的な理由で彼女と体を重ねてきたというのに、今は只この人が欲しくて堪らない。頭の天辺から足の爪先まで、全部僕のものにしたくて仕方ない。
 立ち上がってその手を強く握ると、彼女が僅かに驚いた様にこちらを見た。そうして、僕が余程物欲しそうな顔でもしていたのか、「部屋まで送るよ」と艶美な笑みを浮かべたのち僕の手を引いて歩き始めた。

prev back next

TOP