手を伸ばせば届く距離

「眠れない…」


ポツリ、と零れた声は、静かな部屋に響く。とはいえ、さすがに隣の部屋まで聞こえるような声量じゃないのはわかっているのですが、それでも気になってしまうのは仕方ないことだと思うんですよね。
そっと身体を起こせば、まだ治りきっていない傷口がズキリ、と痛む。動けるようになっただけ万々歳といった所だけど、これではまだ1人で暮らしていくのは難しそうですね。

ふっと視界の端に映ったのは、カーテンが少し開いている窓。閉めきっていないカーテンの隙間から差し込むのは、月の光で。今日は満月なのでしょう、普段よりも月の光が明るく感じますね。
そっとカーテンを開ければ、やっぱり大きな満月が煌々と辺りを照らしていました。このくらい明るいと電気がなくても大丈夫そうだなぁ…眠れそうにないし、本でも読んでいましょうか。

(…あ、そうだ。だったら飲み物を用意しよう。温かい紅茶がいいですかね)

いつもよりも慎重にドアを開けて、リビングを覗き込んだら…そこには八戒さんがいらっしゃいました。マグカップ片手に、何かを読んでいらっしゃるみたい…?というか、こんな時間まで起きていらっしゃるんですね。もしかして悟浄さんが帰ってくるのを待っていらっしゃる―――とか。
何となくその場から動けなくなってしまって、本に目を落としている彼の顔をじっと見つめる。こうやって改めて見てみると、とても整った顔…綺麗な方、ですよね。


「なまえさん?」
「あ…」
「どうしました?こんな時間に…あ、もしかして傷口が痛むんですか?」
「え、えっと、…傷口は動くと痛みますけど大丈夫、です、そうではなくて……」
「もしかして眠れませんか?」


本を閉じて私の顔を覗き込んだ八戒さん。とても柔らかな笑みを浮かべていらっしゃって、何て言うかこう…無条件に安心してしまうんですよね。うっかり甘えたくなっちゃって、何度堪えたかわからない。
彼の問いかけに頷きだけを返せば、座っていてくださいと慣れた手つきで椅子までエスコートされてしまった。そのままストン、と私を座らせて、八戒さんはキッチンへ。何をしに行ったんだろう、と疑問に思うけれど、テーブルの上に置いてあったマグカップがなくなっていたので、恐らくそれを置きに行ったんだろうと推測。
…そういえば、私は飲み物を取りに来たんでしたっけ。自分の目的を忘れそうになっていましたね…立ち上がってキッチンへ行こう、とした所で八戒さんが2つのマグカップを持って戻ってきた。どうぞ、と置かれたマグカップからは甘くていい香り。これ、ホットミルク…?


「甘くて美味しい…」
「良かった。蜂蜜を入れたんですけど、苦手じゃありませんでした?」
「は、はい、大丈夫…みたいです」
「みたい…?」
「あの、私、蜂蜜って口にしたことなくって」
「えっそうなんですか?」


マグカップに口を付けながらコクリ、と頷く。
何度思い返してみても、蜂蜜を口にするのは初めてだと思うんです。森の中に住んでいたけれど、蜂蜜だけは誰も取ってくることをしてなかった気がする。確か、人間と妖怪が上手く共存している遠くの町まで砂糖を買いに行っているんだ、ってお母さんが教えてくれましたっけ。
あの時はそんな夢みたいな場所あるわけない、って捻くれてたなぁ…まぁ、それは八戒さん達に拾われてから本当だったんだって知ることになりましたけど。


「ホットミルクは少し甘めにした方が美味しいんですよ。砂糖でもいいんですけど、僕が蜂蜜派で」
「そうなんですか、すごく美味しいです」
「キッチンに置いてありますから、好きに使ってください」
「えっと、……はい、ありがとうございます」


思わず返答に困って詰まってしまったけれど、八戒さんは気がついていないかしら?だって、…まるで私がキッチンに立つことが当たり前のように思ってくれている気がして、どうしたらいいかわからなくなったんです。
私はただの厄介者で、八戒さんと悟浄さんのように同居人という間柄でもない。怪我が完治するまでお世話になっているだけのこと、で…それなのに、そんな風に言われるとずっといていいんですよって言われているみたいで―――胸の奥がくすぐったくなるんです。


「八戒さんは、眠らないんですか?」
「ああ…本を読んでいたら夢中になってしまっていたみたいで。よくあるんですよ」


この家に転がり込んだ当初は、悟浄の帰りを待ったりしていましたけど。
そう言った彼の顔に浮かんでいたのは、苦笑。定職に就いていないらしい悟浄さんは、賭博場でお金を稼いでいるらしい。だから出かけるのは専ら夜で、帰ってくるのは朝方だそうなんです。
今でこそ先に眠るようになったそうですが、最初の頃は今日のように本を読みながら夜中まで待っていたことも少なくなかったんだ、と教えて下さいました。


「…最初はね、ぎくしゃくしてたんです。僕達」
「え?」
「色々あって、…今では上手くやっていけていると思っていますけどね」
「そう、だったんですか。お2人は初めてお会いした日から、仲が良さそうだなぁって思ってました」
「あはは。前はこんな感じじゃありませんでした」


最初から上手くいくことは、少ないんじゃないのかなと笑った八戒さん。


「そういうもの、でしょうか」
「ええ、きっと。…なまえさんも、そんなに気を遣わなくていいんですよ?」
「ッ、」
「貴方が帰る所は此処なんですから、我が物顔でいてくれて構わないくらいだ」


私はその言葉に何も返すことができませんでした。…だけど、少しずつ何かが解けていくような感覚があって、胸の奥がじんわりと温かくなっていく感覚があって、自然と口元が緩んでいくのを自覚する。
この人の、…八戒さんの傍は温かくて心地良い。いつか離れなければいけないことは理解しているはずなのに、それでももう少し―――そう望んでしまいそうな自分が、とても怖かった。
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