臆病な私
私が知っているのは彼の後ろ姿だけ。
だけ、と言ってしまうと語弊があるけれど…でも嘘じゃないと思う。声も表情も知ってはいるけれど、それは私に向けてではない。私ではない誰かへ向けたものだ。
まともな会話をしたこともないのに、私はその人に恋をした。
いつだって私はそっと後ろ姿を見ているだけだった。話しかけるチャンスなんて、今思い返せばきっとたくさんあったと思う。でもそれをしなかったのは、私の弱さ故だと思う。人見知りじゃなければ、と何度も思ったこともあるけれど…友達を作ることが出来たのだから、それだけが原因じゃないのよね。きっと。
人気者の彼に自分から声をかける勇気が、ないだけだ。
同じ人間。同じ年。同じ学年。同じクラス。
どれだけ考えてみても、私と彼はきっと何も変わらない。同じ、と言ってしまうのは少し気が引けてしまうけれど、そう言って差し支えないと思う。性格とか、そういうのは違って当然な部分だけど、けど、それ以外の…根本的な部分は何も変わらないはずなんだ。
それでも私と彼は住む世界が違う、と感じてしまうのは、私自身が劣等感の塊だからなんだろう。
「(せめておはよう、って挨拶ぐらいできるようになりたいな…)」
ぎゅっとカバンの持ち手を握って口を開こうとするけれど、何も言葉を発することなく私は自分の席へと腰を下ろす。
そうして自己嫌悪に陥りながら、今日も前の席に座る彼―――工藤くんの背中を見つめるしかできないのだ。
いつだってこうだ。今日こそは、今日こそは、と毎日決意するのだけど、彼が視界に入ると途端に弱気になってしまう。緊張による心拍数はどんどん上がってい き、最終的には何も言えずに工藤くんの横を通り過ぎて行ってしまうのです。昔からだけど、やっぱり私って意志が弱いんだなぁ。情けない。
カバンの中から教科書やノートや筆箱、それから読みかけの文庫本を取り出して、それらを机の中にしまっていく。最後に残ったのは文庫本。これだけはしまうことをせず、静かに昨日の夜に読んでいたページを開けば、あっという間に私の意識は本の世界へと入り込んでいく。
現実へと意識が引き戻されるのは、仲良しの友達からおはようと挨拶をされた時。本から視線を上げ挨拶を返し、時計を見てみると読み始めてから20分が経とうとしていた。静かだった教室は気が付けば人が増えていて、いつもの賑やかさに包まれている。
そろそろ先生が来るだろうし…また本を読み始めてしまうと意識が飛んでしまうだろうからこの辺にしておこうかな。栞を挟んで机の中に本をしまいこんだ。
「ねぇ、美緒!放課後空いてる?美味しそうなカフェ見つけたんだ〜」
「空いてるよ。行ってみる?」
「行く行く!やったー!」
友達とそんな会話をしているけど、意識は前に座っている工藤くんに向きっぱなし。
彼と楽しそうに話しているのは、同じクラスで彼の幼なじみという毛利さん。とても可愛くて、気配りが上手で、空手が強い女の子。いつだって明るい笑顔を浮かべている彼女は、工藤くんととてもお似合いだ。
付き合ってはいないみたいだけど、お互いに大切なんだろうなぁっていうのは見ていれば誰でもわかる。きっと告げていないだけで、両思いなのだろう。…毛利さんが相手じゃ、私なんか勝ち目なんて少しもないじゃない。その前に喋ったことがないからスタート地点にも立てていないんだけどさ。
時間になって、先生が気怠そうに入ってきた。横を向いて毛利さんと話していた工藤くんは、先生の姿を見て前を向く。
いつも見ている背中にそっと「おはよう」と声に出さずに呟いた。
-1-
prev|back|next
TOP