ありがとう、と笑うウサギ


博士の言いつけを守らずにそっと部屋を抜け出したあの日。はじめて博士以外の人とちゃんとお話したあの日。はじめての体験をいくつもしたけど、でもそれを博士に報告できなくて。そのもどかしさの中、わたしは揺れていた。

こうがいじお兄ちゃんとやおねお姉ちゃん。ともだち、って言っていいのかわかんないけど、博士以外の人と知り合いになったんだよーって報告したいけど、そうするとわたしが部屋を抜け出したことがバレちゃうし…それからなまえをつけてほしいことも伝えたいけど、それもきっとなんで急に?って聞かれるのが確実だと思うんだ。りゆう、は話せるはずもないしなぁ。
だってわたしのせかいは博士だけ、この部屋の中だけなんだもん。ほかの人と接することなんてお片付けをする時だけ。でもお片付けでは誰かが誰かのなまえを呼ぶことってないし、どこでそんなことを知ったのって言われちゃう。本で読んだ、って言ってもここにあるのはずいぶん前に読んじゃったものばっかりだから、なんで今更ってなっちゃうし…というか、博士はさとい人だからきっとすぐに見破っちゃうに決まってる。
ううーん、とクッションを抱えたまま唸っていたら、おしごとを終えたらしい博士が部屋に入ってきた。


「おかえりなさい、博士」
「ただいま、ウサギちゃん。いい子にしてた?」
「うん。でも読む本なくてツマンナイ」
「あー、この前あげた本はもう読んじゃったんだっけ」


白衣を脱ぎながら問いかけてくる博士にコクリと頷きだけを返せば、じゃあ明日にでも新しい本を持ってきてあげるよと言ってくれました。やった!これで博士の帰りを待つ間の寂しさをまぎらわせることができるー!
今日は考えごとしてたからそんなことなかったけど、やっぱり読む本がないとすることがなくてツマンナイんだ。最近の博士は夜もどこかに行っちゃうことが増えちゃったんだもん。余計にツマンナイよ。


「そうだ。今日の夜、ボクは出かけてくるけど1人で寝れるよね?」
「寝れるけど、またいなくなっちゃうの?」
「公主様にお呼ばれしてるんだから仕方ないでしょ」
「…こうしゅさま?」


博士が呼んだ、わたしのものじゃないもの。聞いたことのない単語。それはきっと、わたしが知らない、でも博士が知っている誰かのなまえ、なんだと思う。正直なところ、博士がウサギちゃん以外のなまえを呼んでいるのをはじめて聞いたような気がする。
この部屋にいる時の博士は、誰のなまえも呼ぶことをしないから。だからこそ、胸がモヤモヤして気持ち悪いって思ってしまった。わたしの博士なのに、なまえを呼んでもらえる見知らぬ誰か―――わたしはその人が嫌いだと思った。


「こうしゅさまって、誰?」
「…ああそうか、ウサギちゃんにはまだ会わせたことなかったっけ。えら〜いお人だよ、ボクの計画に乗ってくれた大事な大事な…ね」
「博士の、大事な人?」
「ウサギちゃん?」


何だろう。胸がきゅーってする。痛いのに、かなしい。


「博士、…わたし、なまえがほしい」
「どうしたの、急に。今までそんなこと言ってきたことなかったじゃない」
「ウサギちゃんって呼ばれるの嫌じゃないけど、わたしだけの呼び名、ほしくなったんだもん」


腰に腕を回してぎゅーっと抱きつけば、あたまの上から博士の溜息が聞こえて肩がビクリと震えた。いつも呆れたように笑う博士だけど、今みたいに溜息を吐いたことだって何度もあるけど、なんでだか―――ほんきで、面倒だと思われてしまったんじゃないかって。そんなことを言うならイラナイって言われるんじゃないかって。
そう思うと顔を上げることも、離れることもできなくてなおさら回した腕にぎゅーっと力を込めた。


「ウサギちゃんが何かを欲しがるのは初めてだし…まぁ、いいか」
「!じゃあっ…」
「『紋那』。それが今日から君の名前だよ、ウサギちゃん」


わたしだけの、なまえ。博士がわたしのために考えてくれたなまえ。
腕輪と首輪をくれた時と同じくらいに嬉しくて、また思いっきり博士に抱きついた。えへへ、また博士からもらったたからものが増えた!その喜びを表現するようにぎゅうぎゅうと抱きついて、ぐりぐりと頭をこすりつけていると「それで?誰から入れ知恵されたの?」と問いかけられた。予想もしていなかった質問に嬉しさは急降下、前に本で読んだ血の気が引くってこういうことを言うんだろうなと身をもって実感することになるとは思わなかった。


「え、っと…」
「今まで君には名前って概念、なかったはずだよね?本を読ませててもそんなこと言ってきたことなかったし」
「………こうがいじ、お兄ちゃんとやおねお姉ちゃん」
「王子様とネズミちゃん?会ったの?」
「少し前、博士がいなくてツマンナくて部屋を抜け出した時に会ったの」
「―――へぇ…で?ウサギちゃん、ボクに言うことは?」
「い、…言いつけ守らなくてゴメンナサイ…」


翌日、おしおきと言わんばかりにお片付けの量を増やされたのは言うまでもありません。
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