タイミングが悪い。そう思ったのは、マルコも名前も一緒だった。

 だけどマルコにしてみれば、ナースが出ていったらサッチが来ることは知っていたのだ。
 治療を終えたらサッチの元へナースが知らせに行き、食事を持ってきてもらう。あらかじめそういう手筈だったのだから。
 とはいえ、漸く何かを話す気になったような女の出端を挫くかのそのタイミングはいただけない。サッチが悪いわけでもないが、思わず彼に文句を言いたくなってしまうのは仕方ないことだろう。

 名前はといえば、突然現れた新たな人物に、ほんの数秒前までつけていた決意が簡単に崩れ去ったことに内心で自己嫌悪していた。人が現れたという、たったそれだけで、言おうとしていた事が言えなくなったのだ。改めて言う気力などない。
 それは、サッチの登場もそうだが、何より彼の発した言葉が名前の思考をぐにゃりと曲げてしまったからだった。

 彼が言った“リディ”とは、白ひげに毒をもったという女の名前だ。マルコは名前を一度もその名で呼ばなかったからすっかり忘れかけていたが、彼らは名前をその女、リディだと思い込んでいるのだ。
 名前からして食い違っていても、昨日、この船の男達はその主張すらも聞き届けず、何度もリディに対する恨み辛みを名前に投げつけた。
 それにより、名前はもはや“リディ”という単語を聞くだけで、どっと自分の中の何かが沈んで消えていく感覚に陥ってしまい、全てがどうでも良くなってしまうのだった。
 自分を自分として扱わない彼らに、リディだと決めつけて話を進めていく彼らに、自己の“主張”など意味は無い。
 諦めと無気力が名前を支配していった。

 そしてそんな中、ぽっかりと空いてしまったような思考の片隅で“帰りたい”というワードが浮かび上がるのだった。
 方法など知らないし、わからない。帰れるまで待つにしても、濡れ衣にされたこんな状態はいったいいつまで続くのか。そう考えれば、次に浮かぶのは、一か八か、賭けのような方法だった。
 こんな状態のまま待つくらいならば、いっそ、この世界で死んでしまえば――。
 そんな思考になるのは、こんな異様な状況のせいなのか、疲弊した精神のせいなのか。

「ありゃ、俺今来ちゃ不味かったか?」

 室内に歩みを進めながらも、何やら場の空気を感じ取ったのか、そう言ったサッチに、マルコは若干投げやりな様子で、別にいいよいと返し、顔から手を外す。

「上の様子はどうだよい」

 どうにか行き場のない憤りをサッチに当たる事なくやり過ごしたマルコが、切り替えるように問えば、サッチは微妙そうな顔をしてからそれに答える。

「あー、……まぁ、昨日の今日だしなァ。まだ興奮冷めやらぬってとこ? とりあえず昨日の話し合いどうりに、変に暴走しねェよう俺達で見てるけどよ……」

「エースか……」

「ああ。末っ子は特にオヤジが好きだからなァ〜……。今も食堂でイゾウとビスタが宥めてるぜ」

 苦笑混じりに言うサッチに、フーっと軽い息を吐き出すマルコ。

「まったく、仕方ねェ奴だよい。」

 二人が話している間、名前はボーっとしながら、また部屋の隅へと視線を向けていた。
 自分を掻き乱す声など、聞きたくない。そう思うも、同じ部屋で行われている会話は、聞こうとせずとも、嫌でも勝手に耳へと入り込んでくる。
 エースという単語に、一瞬、その人物が頭の中に浮かび上がったけど、すぐにそれは霞んで消えていった。
 あの兄弟特有の人好きのする笑顔など、きっと名前には向けられないのだ。
 もし目の前に現れたなら、その人物は名前の知らない顔をして、聞きたくもない言葉を発するのだろう。

 名前の中で、好きだった者達の印象がどんどん悪くなる。その事も、名前の精神を削っていくのに拍車をかけていた。

「そうだマルコ。そろそろ出港するからって航海士が呼んでたぜ」

「あー……、俺としたことが、すっかり忘れてたよい」

「バタバタしてたからな。仕方ねェって! ま、ここは俺っちに任せて、マルコは一旦上行けよ」

 ばつの悪そうにポリポリと首の後ろを掻くマルコに、サッチはニッと笑って親指を立てた。
 それに対しマルコは、じゃあ頼んだよいと言いながら片手を上げて部屋を出る。

 パタンと閉められた扉を見届けると、サッチはチラリと名前に視線を向けた。

 先程からずっと黙ったままの名前の目は、部屋の隅へと向けられてはいるものの、その視点は定まってはいなかった。虚ろな眼差しに、まるで感情など無いかの様に色の無い表情。
 朝とはいえ、窓もなく隙間から漏れ出る光以外の明るさの無い薄暗い室内の中、そんな名前を見たサッチは、思わず眉間に皺を寄せてしまう。

――生きてるん、だよな。

 誰に確認するでもなく、内心でそう独りごちたサッチは、だけどもすぐに自分が扉を開けた瞬間の事を思い出して、考えを改めた。
 サッチは自分が入室した際に名前の肩が震えたところをしっかりと見ていたのだ。

 サッチは、何変な事考えてんだと自身にツッコミを入れながら、片手に持っていたままだったトレーの重みを思い出して名前の前へと歩み寄り、床へとそれを置く。

「ほら、飯持って来たぜ。 ……って、こりゃァまた派手にやったなァ、あいつら。……仮にも女相手だぜ」

 ボソッと溢れた最後の言葉は、思わず勝手に出た本音だった。自分に出来るものも、他人に出来るものも、傷なんて日常茶飯で見慣れているというのに、色白の肌に残された痛々しい程のその痕跡に、サッチは少しばかり同情した。
 とはいえ、サッチだって自分が尊敬してやまないオヤジに毒を盛った相手の事を恨んでいるのは他のクルー同様、変わりない。
 同情はするとしても、それは自業自得。そう思いながらも、サッチの視線は名前へと注がれていた。

 半袖で膝丈のカーキ色をしたワンピースに、下はトレンカとサンダルという格好の名前。
 袖から露出された腕は、殆どが包帯で覆われているし、足の方も同じようにガーゼや包帯で、いたる箇所を治療されたのか、破れた黒色の布から見える白がやけに目立っていた。
 顔に関していえば、頬が腫れているのか、左右のバランスが些か可笑しい。目元にもガーゼが当てられ、そこから若干はみ出すように、紫が色付いている。
 本来の顔立ちは悪くないだろうに、今はその面影しかない。顎にも鼻にも、顔だけで数ヶ所出来ている様子の傷に、元来女好きということもあってか、やはりサッチの胸中は複雑だった。

「……お前、なんであんな事しちまったんだよ」

 ぽつり、落とされたサッチの声は、彼にしては静かで、真面目な声色だった。

 だけど名前からの反応は何も無く、身動きすらしない彼女を、サッチはただただ見つめていた。






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