この海で知らない人には出会うのは、初めてのことだった。
握りしめたままのカセットテープがキュルキュルと巻き戻るのを遠くから見守る男の目。地を這うような冷たさを感じるのは、彼が両足を浅瀬に浸しているせいだろうか。いつからそこに居たかわからない長身の男と私が無言で視線を交換し合う隙間で、カセットテープの回転がカチリと鳴いて止まった。

「ここで何をしているのですか」

男は唐突に口を開いた。打ち寄せては引く波の間にいるとは思えない淡々とした声だ。

「私は、」

少し驚きながらも返事をして仕舞えば、もう戻れない。潮風になぶられるだけの薄地のスカートが、ぱたぱたと音を立てて揺れた。

「海を録音していました」
「こんな静かな海をですか」
「ええ、日課なものですから」

私の返答に彼は二、三度瞬いただけで、それからは黙っていた。灰色の雲に隙間なく覆われた天気のせいか、白づくめな男の妙な出で立ちも特に気にならなかった。ただ今は遊泳に適した季節ではとてもないけれど、寒くないのかしらぐらいは気になっていた。いつも通りすぐに帰りつもりだったせいで、ひっかけただけの底の薄いサンダルはいつの間にか砂まみれだ。

「貴方こそ、ここで何をしているんですか?」
「私が何かしてるように見えます?」
「海水浴には見えませんね、とてもじゃないけれど」
「そうでしょうね」

男の代わりにカモメが二、三度鳴いて、風を呼んだ。青というにはくすんだ色をした海の表面が、微かに揺らめく。この死んだ街には、もう海しかない。誰も足を浸したいとすら思えないような海が、ただ広がっているだけなのだ。男はどこから来たのだろう。名ばかりの駅に停まる電車に乗って? それとも気が向いたら走っているバスだろうか? 手を顎に当てて、少し考えるそぶりを見せる彼の冷たそうな指を引いて陸に上がらせる気など、私には微塵も起きなかった。

「貴女は夜よりも暗くて美しいひとに、出会ったことはありますか」

雲に隠れているせいで何処にいるかわからなかった太陽が、少しだけ顔を覗かせたと思えば、既に赤みを帯びていた。もう日が暮れてしまうのか、男の首筋や背中を染める淡い朱色が眩しくて、目を細める。

「私には死に別れた妻子がいますので、死んだら当然二人の元へ行くのだろうと思っていたのですが。どうやら未練とやらは己の自覚の外にあるようです。貴女も覚えておくといい」
「おかしなことを言うんですね、まるで死んだことがあるような言い方」
「ええ、ありますよ。高い所から落ちたので、即死でしょうかね」

言いながら、彼は塩水に両足を浸したまま浜辺へ近づく。しかし彼が進んでも、風で容易に波立つはずの水面には波紋ひとつ残らない。まさか、彼は。あと一歩踏み出せば浜辺だというところで、男はピタリと止まった。見れば、海面と彼の脛の境界がぼんやりと霞んでいる。

「そんな、何でもないみたいに」
「何でもないなどと思っていませんが、終わったことですし、とやかく言った所で何とかなる問題ではありませんので。あなたの日課と同じですよ。誰かがどうこうしたところで、何の意味もない。そうでしょう?」
「……私に、同意を求めないでください」
「おや、あなたなら分かってくださる気がしたのですが。では良いことをひとつ、教えて差し上げましょう」

丁寧な言葉とともに、彼の手が伸びて私の手に触れた、気がした。確かに指先が手の甲に当たったのを見たのに、感覚は伴わない。ああこの人の言っていることは本当で、私と話をしているこの人は死んでいるのだとあまり働いていない頭は、ぼんやりとしたまま理解した。私に触れられなかった指先は、そのまま手の中のカセットレコーダーに触れた。指に押されるままにカチリと蓋が外れて、中に入ったカセットテープが飛び出す。

「どうやら死んでからも、日課は続けられるようですよ」

男は笑った。まるで私の背中を押すような、優しくて残酷な微笑みに押されるように一歩、後退りしてしまった。分厚そうな白の制服、鎖の垂れ下がった片眼鏡、こけた頬に温度のない瞳。改めて名前も知らない男の姿を見てみるが、消えた両足の先以外のどこにも死の影はない。それなのに。

私は男に背を向けて、何も言わずに帰った。彼も何も言わなかった。きっともう言葉は必要ないと悟ったのだろう。狭いアパートに転がる大量のカセットテープに埋もれながら、寂しくて泣いた。なにもかもを見透かした、あの男の両目が脳裏に焼きついて離れない。今日で、私が海を録音するのは最後だろう。カセットテープに今日の日付を書き込んで、雑に目元を擦った。名前も知らない悲しい男の隣に並ぶ明日の私を想像しながら、重たいカーテンの隙間から覗く月をぼんやりと見上げた。そうだ、明日は彼に録音してもらおう。カセットテープには触れられたのだから、私が爪先から海に飲まれる瞬間を残すことだって、きっと。 

ALICE+