スクーターの故障中に遠方からの依頼、これが一番困るのだ。常時金欠である万事屋では地図を囲んで作戦会議が行われていた。元々、スクーターでも遠い距離だったせいで、神楽が提案した定春案は、新八にすぐさま棄却された。拗ねた神楽は口を尖らせて、そのまま昼寝中の定春の懐に潜り込んで静かに寝息を立て始めた。
「まぁ、お前らが来ねえなら、俺一人くらい何とでもなるけどな」
新八は呆気なく銀時の言葉に同意して、依頼内容と住所、依頼者の名前と電話番号が順に走り書きされた電話のメモを眺める。それから、ようやく今月の給料が入る、と小さい声で呟いた。新八の言葉につられて、部屋に飾られたカレンダーに目を走らせると言葉の通りに、先程銀時が書き込んだ依頼日以外に印はどこにも無かった。
「それにしてもこんなに遠くの人も万事屋を知ってるなんて、銀さん有名人ですね」
新八は夕飯の用意をしようとフライパンを出しながら、銀時に話しかけた。既にソファーで寝転がっている銀時にも充分聞こえる音量で。
「ったりめーだろ。ちっとは銀さんを敬えよコラ」
「ハイハイ、すごいすごい。この調子で仕事の依頼が遠くからも沢山きたらいいんですけど」
「やだよメンドクセェ」
今日は卵があるのでオムライスだ。忽ちチキンライスの匂いが部屋中に立ち込め、寝ていた神楽を起こし、銀時の腹の虫も起こした。何にも遮られない、平凡で平和な夕暮れだった。
・ ・・
「本日は遠方からわざわざ足を運んで頂いて、ありがとうございます」
改まった丁寧なお礼に慌てて頭を下げたせいで、電車に久しぶりに揺られて限界を訴えていた腰に自ら追い打ちをかけてしまった。電話口と変わらない上品な物言いに加えて、通された客間の静謐なこと。これはかなり高収入が期待できると、銀時は内心ほくそ笑んだ。若草色の着物を着た老婦人は、恐らく若い頃は相当な美人だったのだろう。髪にも肌にも艶があり、口元のホクロが色っぽい。どっかのババアにも見習って欲しいと切に願うくらい、年相応の美しさは嫌味なく彼女の内外に保たれているような気がした。思わずしゃんと伸びてしまう背を見透かしたように、依頼主の婦人は微笑み、言葉を続けた。
「電話でもお伝えしたのですけど、依頼、覚えてらっしゃるかしら」
「確か、探し物だったような」
「ふふ、そうなの。ちょっとね探して頂きたいものがあって、けれど大したものじゃないの。このためだけにわざわざ人を呼ぶなんて大げさだわと思っていたんだけど、綾乃さんがいい人がいるって教えてくれたものだから」
綾乃さん? 一瞬頭に浮かびかけたハテナマークはいつぞやの記憶に掻き消された。そういえばそんな可憐な名前だった、あのババアは。同時に未納の家賃のことを思い出して、冷や汗が出たが今は考えないようにした。
「ごめんなさいね、私ばかり話してしまって」
「いやいや。ところで、探し物っていうのは?」
「そうね、肝心なことを伝え忘れていたわ。探して欲しいといっても、場所はね、あらかた検討はついているの。この家は数年前に建て直したばかりで、その時隅々まで調べたから。探して欲しいのは離れにある蔵」
「蔵、ですか」
「ええ、あるとしたらそこしか考えられないわ。唐草模様の入った小さな箱なんですけれど」
これくらいの、と彼女は手で小さく四角をつくった。どんな大切なものかは知らないが、両手に乗る程度の大きさで、蔵の広さはわからないがこの家の広さを見る限り骨が折れそうだと銀時は思った。その焦りを見透かしたように、老婦人は慌てて言葉を続けた。
「ああ、見つからなくてもいいのよ。今までは、隅々まで探すこともできなかった。蔵まで探して見つからないのなら、それはそれで諦めがつくわ」
「へえ、大事なものなんだな」
「そうね。この箱を頂いた時に、決して失くさないようにって約束したのよ。箱も大事だけれど、この約束も同じくらい大事なの」
昼に差し掛かる寸前の秋晴れの空の下で、やはり大きな蔵の前で銀時は一人頭を掻いていた。見つからなくても報酬はたっぷり支払いますとは言われたものの、見つかった方がいいに決まっている。いっちょやりますか、と気合を入れて錠前のぶら下がった扉を思いっきり引いた。
壁に建てつけてある簡易的なスイッチを押すと、パチパチと軽快な音を立てて豆電球の幾つかに明かりが灯り、幾つかは発光する気配を見せたものの明かりは点かなかった。昼でも蔵の中は暗く涼しく、高い天井の付近に風の通り道なのか格子のかかった窓がひとつあるだけだった。長年手が付けられなかった蔵、ということで身構えていたが、その予想は簡単に裏切られてしまう。家と変わらず整然として、物は多いものの其々が自分の在るべき場所を知っているかのように収まっていた。これは別の意味で、ヤバイかもしれねえなと出したばかりのやる気は呆気なくしぼんでいった。
「箱ってことは、中に何か入ってるとか?」
「そうね、空っぽという訳では無いわ。もっとも最後に手にしたのが、私がお嫁に行くよりも前だから、大昔なのだけど」
「……へえ、そりゃまた随分年季の入った」
「あら、何が入ってるかは聞いてくれないのね」
「そいつは箱を見付ければわかることだからな」
ご苦労様と差し入れでもらった冷えた麦茶を喉に流し込みながら、ニコニコと笑う依頼主を横目で見る。ふと、彼女はこの広い家に一人で住んでいるだろうかと思った。田舎の外れにある古い家に、一人きりで静かに営まれている生活に自分が踏み込んでいるのが何となくおかしく思えてしまって、神楽と新八を連れて来なくてよかったかもしれないと思った。
結果として、銀時が一日かけて、ひっくり返したりどかしたりしてそれこそ蔵中を依頼通りに隅から隅まで探し回ったが、唐草模様の箱は、それらしいものすら見つけることはできなかった。普段は飄々とした銀時も、流石に頭を下げて謝った。しかしほんの気持ちと言われて差し出された分厚い封筒はしっかりと両手で受け取った。
「いいのよ、気になさらないで。話で聞いたことしかなかった坂田さんに会えて、楽しかったのよ私。気が向いたらまたいらして、今度は万事屋さんみんな一緒に」
穏やかな微笑みに見送られ、依頼主の家を出ようとした銀時を老婦人は大して焦っていない声色で呼び止めた。
「それと、もし万事屋さんがこれから先、私の探している箱を見つけたら、私には知らせなくていいわ。それを必要としている人にあげて頂戴ね」
「でもアンタ、長いこと探してるんじゃ……」
「そうね、長かったわ。けど今日でそれももう一段落したことだし、持つべき人が持っているのが一番、そう思わない?」
首を傾げて微笑まれてしまえば、返そうとしていた反論は喉の奥から出てこなかった。銀時は優しい別れの挨拶に背中を向けて、都会とは比べ物にならないほど澄み切った星空の下を、街に1つだけだという駅への道を一人、とぼとぼと歩いた。気付けば夜も更けている。家に着く頃にはきっと日付も跨いでしまっているだろう。1時間に1本しかない電車に慌てて乗り込み、乗り換えは長らく無いが律儀に各駅に止まる小さな電車の隅に、ため息と共に深く腰を下ろした。
・・・
規則的な振動に身体が慣れ、仕事疲れも相まって気付けば眠りに落ちていた。やっぱり電車なんて乗るもんじゃねぇな。思い切りのいい欠伸をひとつして、相変わらず人のまばらな車内を目だけで確認する。気づけば2両だった電車も車両か増えており、確実に都会に向かっているのだと安心した。
「もし、お兄さん」
鈴のような声に、再びまどろんでいた意識が一瞬で覚めてしまう。いつの間にか目の前には着物の姿の女性が行儀よく座っており、黒目がちな瞳で銀時のことをじいっと見つめていた。慌てながら辺りを見回すも、近くに自分の他に「お兄さん」らしき人はいない。
「え? 俺?」
「そう、貴方よ。お侍のお兄さん、はじめまして」
「は、はじめまして……」
声の出だしが驚きのあまり裏返ったのだが、大人と子供のちょうど境目にいるような美しい女は一切気にしていないようだった。薄桃色の着物を着て、爪先までぴったりと合わせた彼女の視線はあっという間に銀時の顔から外れ、別の所に注がれた。怪訝に思った銀時も同じように目線を移す。二つの視線の先は膝の上の小箱に集まった。
「お兄さんもその小箱を持っているね。私、少し前にそれにそっくりなものを無くしてしまったので、つい声をかけてしまったの」
銀時はいつの間にか己の膝の上にあった小さな箱を全く知らない訳でも、よく知っている訳でもなかった。両手にぴったり収まるほどの小さな箱の表面は鮮やかな翡翠色の唐草模様に覆われており、留め具された銀の花の真ん中には翡翠が埋め込まれていた。おそらく高価なものである箱がどうして自分の手の上にあるのか、理解できないまま口を開けていると、目の前の女性が「大丈夫ですか?」と尋ねてきた。
「い、いやぁ、実はさっき知り合いから譲ってもらったんで、この箱がどういうものか俺はちっとも知らないというか」
「あら、そうだったの。でしたら、開けてご覧になったら?」
「開けて良いんですか?」
「ふふ、開けなきゃ勿体無いわ。今はお客さんも少ないし、怒られることも無いと思います」
促されるまま、留め具を外し重たい蓋を少しだけ開けてみる。蝶番に甘えて蓋を完全に開けてみるものの、紅色のビロードが貼られている以外、何の変哲も無いただの空の小箱だった。
「あら? おかしいわね」
女性の穏やかだった顔が、箱を見つめたまま歪む。何がおかしいのか分からないまま、箱をひっくり返して眺め始めた銀時の鼻をふわりと白檀の香りがくすぐった。匂いに誘われるまま見上げると、いつの間にか目と鼻の先に彼女の顔があり、思わず顔を小箱から離した。電車の揺れを物ともせず、しっかりと立ったまま銀時の手元を見下ろしていた。
「ちょっとこれ、貸してくださらない?」
言葉にカクカクと首だけで頷いて、押しつけるように細い指先に押し付ける。彼女の手に収まった瞬間に、箱から小さくも電車の揺れる音に掻き消されることのない、しっかりとした旋律が溢れた。それに満足したように、彼女は顔全体で微笑んで「よかった」と漏らした。そこでようやく銀時は、あの小箱はただの物入れではなくオルゴールなのだと理解した。しかし、先ほど自分の手にあった時は確かに中身は空で、音が流れる仕組みなんてどこにもなかったはずなのに。
「……なんで、仕掛けも無しに」
「さあ、どうしてかしら?」
悪戯に微笑んだかと思うと、目を閉じて掌の上の音楽に耳を傾ける。彼女の夢心地な顔は、大人びた印象の顔立ちをぐっと幼く見せる。どこに引き金があったのか銀時は去り際に老婦人が言っていた言葉を思い出した。
「それ、アンタが持ってろ。俺みたいな奴が持つには、綺麗すぎるんでな」
音も見た目も何もかもが美しく繊細な小箱を、10本の指に閉じ込めて彼女は大きな目を瞬かせた。そして言葉の意味を噛み砕いたのか、花の咲くような笑顔で「ありがとうございます」と囁いた。なんだかむず痒く、視線を横に逸らした瞬間、無機質なアナウンスが次の駅の名前を告げた。きっとここで降りてしまうのだろう、美しく不思議な女は銀時の前にキチンと立ち直した。吊革も持っていないのによろめくことのない彼女は、本当にそこにいるのか疑わしいほどに現実味がなかった。
「きっと私、また貴方に会える気がするわ」
「そりゃ気のせいでも嬉しいこった。その箱、もう無くすんじゃねえぞ」
「ふふ、もし私がこの箱を持ってなかったら一緒に探してくださるかしら?」
「……あぁ、約束だ」
銀時の答えに満足したのか、彼女はもう一度ニッコリと笑った。それから背中を向けて、振り返ることなく駅の暗闇に消えた。銀時の頭の中には延々と、空のオルゴールの奏でるメロディーが流れていた。たしか、振り返りざまに見た彼女の口元には、見たことのあるようなホクロがひとつあった。まさか、そんなわけないよな。相変わらず、都会のネオンを目指して走る電車の中で一人、銀時は深く息を吸って目を閉じた。
「まぁ、お前らが来ねえなら、俺一人くらい何とでもなるけどな」
新八は呆気なく銀時の言葉に同意して、依頼内容と住所、依頼者の名前と電話番号が順に走り書きされた電話のメモを眺める。それから、ようやく今月の給料が入る、と小さい声で呟いた。新八の言葉につられて、部屋に飾られたカレンダーに目を走らせると言葉の通りに、先程銀時が書き込んだ依頼日以外に印はどこにも無かった。
「それにしてもこんなに遠くの人も万事屋を知ってるなんて、銀さん有名人ですね」
新八は夕飯の用意をしようとフライパンを出しながら、銀時に話しかけた。既にソファーで寝転がっている銀時にも充分聞こえる音量で。
「ったりめーだろ。ちっとは銀さんを敬えよコラ」
「ハイハイ、すごいすごい。この調子で仕事の依頼が遠くからも沢山きたらいいんですけど」
「やだよメンドクセェ」
今日は卵があるのでオムライスだ。忽ちチキンライスの匂いが部屋中に立ち込め、寝ていた神楽を起こし、銀時の腹の虫も起こした。何にも遮られない、平凡で平和な夕暮れだった。
・ ・・
「本日は遠方からわざわざ足を運んで頂いて、ありがとうございます」
改まった丁寧なお礼に慌てて頭を下げたせいで、電車に久しぶりに揺られて限界を訴えていた腰に自ら追い打ちをかけてしまった。電話口と変わらない上品な物言いに加えて、通された客間の静謐なこと。これはかなり高収入が期待できると、銀時は内心ほくそ笑んだ。若草色の着物を着た老婦人は、恐らく若い頃は相当な美人だったのだろう。髪にも肌にも艶があり、口元のホクロが色っぽい。どっかのババアにも見習って欲しいと切に願うくらい、年相応の美しさは嫌味なく彼女の内外に保たれているような気がした。思わずしゃんと伸びてしまう背を見透かしたように、依頼主の婦人は微笑み、言葉を続けた。
「電話でもお伝えしたのですけど、依頼、覚えてらっしゃるかしら」
「確か、探し物だったような」
「ふふ、そうなの。ちょっとね探して頂きたいものがあって、けれど大したものじゃないの。このためだけにわざわざ人を呼ぶなんて大げさだわと思っていたんだけど、綾乃さんがいい人がいるって教えてくれたものだから」
綾乃さん? 一瞬頭に浮かびかけたハテナマークはいつぞやの記憶に掻き消された。そういえばそんな可憐な名前だった、あのババアは。同時に未納の家賃のことを思い出して、冷や汗が出たが今は考えないようにした。
「ごめんなさいね、私ばかり話してしまって」
「いやいや。ところで、探し物っていうのは?」
「そうね、肝心なことを伝え忘れていたわ。探して欲しいといっても、場所はね、あらかた検討はついているの。この家は数年前に建て直したばかりで、その時隅々まで調べたから。探して欲しいのは離れにある蔵」
「蔵、ですか」
「ええ、あるとしたらそこしか考えられないわ。唐草模様の入った小さな箱なんですけれど」
これくらいの、と彼女は手で小さく四角をつくった。どんな大切なものかは知らないが、両手に乗る程度の大きさで、蔵の広さはわからないがこの家の広さを見る限り骨が折れそうだと銀時は思った。その焦りを見透かしたように、老婦人は慌てて言葉を続けた。
「ああ、見つからなくてもいいのよ。今までは、隅々まで探すこともできなかった。蔵まで探して見つからないのなら、それはそれで諦めがつくわ」
「へえ、大事なものなんだな」
「そうね。この箱を頂いた時に、決して失くさないようにって約束したのよ。箱も大事だけれど、この約束も同じくらい大事なの」
昼に差し掛かる寸前の秋晴れの空の下で、やはり大きな蔵の前で銀時は一人頭を掻いていた。見つからなくても報酬はたっぷり支払いますとは言われたものの、見つかった方がいいに決まっている。いっちょやりますか、と気合を入れて錠前のぶら下がった扉を思いっきり引いた。
壁に建てつけてある簡易的なスイッチを押すと、パチパチと軽快な音を立てて豆電球の幾つかに明かりが灯り、幾つかは発光する気配を見せたものの明かりは点かなかった。昼でも蔵の中は暗く涼しく、高い天井の付近に風の通り道なのか格子のかかった窓がひとつあるだけだった。長年手が付けられなかった蔵、ということで身構えていたが、その予想は簡単に裏切られてしまう。家と変わらず整然として、物は多いものの其々が自分の在るべき場所を知っているかのように収まっていた。これは別の意味で、ヤバイかもしれねえなと出したばかりのやる気は呆気なくしぼんでいった。
「箱ってことは、中に何か入ってるとか?」
「そうね、空っぽという訳では無いわ。もっとも最後に手にしたのが、私がお嫁に行くよりも前だから、大昔なのだけど」
「……へえ、そりゃまた随分年季の入った」
「あら、何が入ってるかは聞いてくれないのね」
「そいつは箱を見付ければわかることだからな」
ご苦労様と差し入れでもらった冷えた麦茶を喉に流し込みながら、ニコニコと笑う依頼主を横目で見る。ふと、彼女はこの広い家に一人で住んでいるだろうかと思った。田舎の外れにある古い家に、一人きりで静かに営まれている生活に自分が踏み込んでいるのが何となくおかしく思えてしまって、神楽と新八を連れて来なくてよかったかもしれないと思った。
結果として、銀時が一日かけて、ひっくり返したりどかしたりしてそれこそ蔵中を依頼通りに隅から隅まで探し回ったが、唐草模様の箱は、それらしいものすら見つけることはできなかった。普段は飄々とした銀時も、流石に頭を下げて謝った。しかしほんの気持ちと言われて差し出された分厚い封筒はしっかりと両手で受け取った。
「いいのよ、気になさらないで。話で聞いたことしかなかった坂田さんに会えて、楽しかったのよ私。気が向いたらまたいらして、今度は万事屋さんみんな一緒に」
穏やかな微笑みに見送られ、依頼主の家を出ようとした銀時を老婦人は大して焦っていない声色で呼び止めた。
「それと、もし万事屋さんがこれから先、私の探している箱を見つけたら、私には知らせなくていいわ。それを必要としている人にあげて頂戴ね」
「でもアンタ、長いこと探してるんじゃ……」
「そうね、長かったわ。けど今日でそれももう一段落したことだし、持つべき人が持っているのが一番、そう思わない?」
首を傾げて微笑まれてしまえば、返そうとしていた反論は喉の奥から出てこなかった。銀時は優しい別れの挨拶に背中を向けて、都会とは比べ物にならないほど澄み切った星空の下を、街に1つだけだという駅への道を一人、とぼとぼと歩いた。気付けば夜も更けている。家に着く頃にはきっと日付も跨いでしまっているだろう。1時間に1本しかない電車に慌てて乗り込み、乗り換えは長らく無いが律儀に各駅に止まる小さな電車の隅に、ため息と共に深く腰を下ろした。
・・・
規則的な振動に身体が慣れ、仕事疲れも相まって気付けば眠りに落ちていた。やっぱり電車なんて乗るもんじゃねぇな。思い切りのいい欠伸をひとつして、相変わらず人のまばらな車内を目だけで確認する。気づけば2両だった電車も車両か増えており、確実に都会に向かっているのだと安心した。
「もし、お兄さん」
鈴のような声に、再びまどろんでいた意識が一瞬で覚めてしまう。いつの間にか目の前には着物の姿の女性が行儀よく座っており、黒目がちな瞳で銀時のことをじいっと見つめていた。慌てながら辺りを見回すも、近くに自分の他に「お兄さん」らしき人はいない。
「え? 俺?」
「そう、貴方よ。お侍のお兄さん、はじめまして」
「は、はじめまして……」
声の出だしが驚きのあまり裏返ったのだが、大人と子供のちょうど境目にいるような美しい女は一切気にしていないようだった。薄桃色の着物を着て、爪先までぴったりと合わせた彼女の視線はあっという間に銀時の顔から外れ、別の所に注がれた。怪訝に思った銀時も同じように目線を移す。二つの視線の先は膝の上の小箱に集まった。
「お兄さんもその小箱を持っているね。私、少し前にそれにそっくりなものを無くしてしまったので、つい声をかけてしまったの」
銀時はいつの間にか己の膝の上にあった小さな箱を全く知らない訳でも、よく知っている訳でもなかった。両手にぴったり収まるほどの小さな箱の表面は鮮やかな翡翠色の唐草模様に覆われており、留め具された銀の花の真ん中には翡翠が埋め込まれていた。おそらく高価なものである箱がどうして自分の手の上にあるのか、理解できないまま口を開けていると、目の前の女性が「大丈夫ですか?」と尋ねてきた。
「い、いやぁ、実はさっき知り合いから譲ってもらったんで、この箱がどういうものか俺はちっとも知らないというか」
「あら、そうだったの。でしたら、開けてご覧になったら?」
「開けて良いんですか?」
「ふふ、開けなきゃ勿体無いわ。今はお客さんも少ないし、怒られることも無いと思います」
促されるまま、留め具を外し重たい蓋を少しだけ開けてみる。蝶番に甘えて蓋を完全に開けてみるものの、紅色のビロードが貼られている以外、何の変哲も無いただの空の小箱だった。
「あら? おかしいわね」
女性の穏やかだった顔が、箱を見つめたまま歪む。何がおかしいのか分からないまま、箱をひっくり返して眺め始めた銀時の鼻をふわりと白檀の香りがくすぐった。匂いに誘われるまま見上げると、いつの間にか目と鼻の先に彼女の顔があり、思わず顔を小箱から離した。電車の揺れを物ともせず、しっかりと立ったまま銀時の手元を見下ろしていた。
「ちょっとこれ、貸してくださらない?」
言葉にカクカクと首だけで頷いて、押しつけるように細い指先に押し付ける。彼女の手に収まった瞬間に、箱から小さくも電車の揺れる音に掻き消されることのない、しっかりとした旋律が溢れた。それに満足したように、彼女は顔全体で微笑んで「よかった」と漏らした。そこでようやく銀時は、あの小箱はただの物入れではなくオルゴールなのだと理解した。しかし、先ほど自分の手にあった時は確かに中身は空で、音が流れる仕組みなんてどこにもなかったはずなのに。
「……なんで、仕掛けも無しに」
「さあ、どうしてかしら?」
悪戯に微笑んだかと思うと、目を閉じて掌の上の音楽に耳を傾ける。彼女の夢心地な顔は、大人びた印象の顔立ちをぐっと幼く見せる。どこに引き金があったのか銀時は去り際に老婦人が言っていた言葉を思い出した。
「それ、アンタが持ってろ。俺みたいな奴が持つには、綺麗すぎるんでな」
音も見た目も何もかもが美しく繊細な小箱を、10本の指に閉じ込めて彼女は大きな目を瞬かせた。そして言葉の意味を噛み砕いたのか、花の咲くような笑顔で「ありがとうございます」と囁いた。なんだかむず痒く、視線を横に逸らした瞬間、無機質なアナウンスが次の駅の名前を告げた。きっとここで降りてしまうのだろう、美しく不思議な女は銀時の前にキチンと立ち直した。吊革も持っていないのによろめくことのない彼女は、本当にそこにいるのか疑わしいほどに現実味がなかった。
「きっと私、また貴方に会える気がするわ」
「そりゃ気のせいでも嬉しいこった。その箱、もう無くすんじゃねえぞ」
「ふふ、もし私がこの箱を持ってなかったら一緒に探してくださるかしら?」
「……あぁ、約束だ」
銀時の答えに満足したのか、彼女はもう一度ニッコリと笑った。それから背中を向けて、振り返ることなく駅の暗闇に消えた。銀時の頭の中には延々と、空のオルゴールの奏でるメロディーが流れていた。たしか、振り返りざまに見た彼女の口元には、見たことのあるようなホクロがひとつあった。まさか、そんなわけないよな。相変わらず、都会のネオンを目指して走る電車の中で一人、銀時は深く息を吸って目を閉じた。