冷房も暖房も必要ない暖かな部屋の隅で、スマホに近づけていた顔を意味も無く歪ませてみた。それは、たまたま読みふけってしまった怖い話のせいでもあり、全然関係無いのにアタマをよぎった佐々木さんの横顔のせいでもある。それまで二転三転していた思考は、結局、思い出してしまった横顔に落ち着いた。
そういえば、彼はこの部屋に来たことが無かった。電気を落としたまま、目線だけ動かした暗闇の中にどこにも彼はいなくて、なんだか少しだけホッとする。
おかしな話だ、さっきまで傍にいて欲しいと思っていたはずなのに。この続きを考えたくなくて、無理矢理に目を閉じてしまった。



佐々木さんと一緒にいるのは、何より楽だった。
先生や親の前のように、にこにこと良い子で居れば正解だとよく分かったから。大概の場合、どう振る舞えば良いのか分からなくなるだけで済まないので、そういう意味ではとても楽だったし、何より楽しかった。やっぱり大人の男は違うわ〜と、友達にこぼすと、腑に落ちない顔で頷かれた。
そんなことも気にならない。学生気分のいつまでも抜けない、電話を取ったりお茶を汲んだり、書類を整理するだけの仕事。平坦で単調で、それでいてなんの不満もない毎日の繰り返しに、佐々木さんはピリリとアクセントを入れてくれるんだから。
最も佐々木さんは忙しいから、そんなに頻繁に会える訳でもなかったけど、充分だった。時々メールして、会って食事して、それを繰り返すだけで良かった。私はデートのためにうんと時間をかけて準備をすることができたし、一人でいる時も佐々木さんのことで頭がいっぱいだった。彼の横で笑う正解な私の姿を想像するだけで、私は満足だったから。
「会いたかったです」と私が言えば、「私もです」と(無表情ではあるけれど)返してくれるし、それだけで、私は。



「別れましょうか」

佐々木さんが私の部屋に初めて来たのは、珍しく一日中休みが取れて、その休みが世間の休みとかぶった貴重な週末のことだった。私はその日のために、年末でもないのに徹底的に大掃除をして、文字通り塵一つない部屋にして佐々木さんを迎えることに成功した。
彼は私がお付き合いするのが憚られるくらいのお金持ちで、そんなセレブを狭いワンルームにいれるのはなかなかにハードルが高く、今までしょうもない理由をつけて断ってきたのだが、「どんな部屋でも構いませんよ」という佐々木さんの言葉に甘えて、上がってもらったのだ。
初めてのデートの時を上回る緊張をごまかしながら、どちらかというと女子らしい部屋にミスマッチな佐々木さんにお茶を出し、前から佐々木さんと見ましょうと言っていたDVDを視聴するという大変ベタな展開ではあったが、そこまで外していないという自信はあった。平均点くらいの至極健全なお家デートを終えた次の日の朝、目を覚ましたての私に、一足先に起きていたらしい佐々木さんが「おはようございます」のついでに言ったのが、前述の台詞である。
恐らく、多分。私の耳が聞き間違えていなければ。

「……すいません、えっと?」
「聞こえませんでした?」
「いえ、今『別れましょうか』って聞こえたんですけど、聞き間違いですよ、ね?」
「間違えていませんよ、確かにそう言いました」

頭をハンマーで殴られたような、比喩でも何でもなくそんな衝撃に何も言えなくなる。何で?どうして?私、何かした?頭の中が焦りと疑問で埋め尽くされて、何も言えなくなる。そんな兆候が一切見られなかったから、尚更。どうしていいのかわからないまま、ベッドの上で硬直する私にお構い無しに、佐々木さんがベッドの縁に腰かける。そういえばいつの間にか服に着替えている。まさか、眠りこける私を見て幻滅したとか? 有り得そうなことばかり思い浮かんでしまうのは、明らかに自分のせいだから、何も言えない。

「理由とか、聞いても」
「聞けばあなたは納得するんですか」

するわけない。でも、聞かずにはいそうですか、なんて引き下がれない。昨日のまま置きっぱなしになっている二人分のマグカップをぼんやりと眺め、だらしないからかなぁ、とこれまたぼんやりと思った。どうやらすでに思考は正しく動いてくれないらしい。

「つまらなかったから、ですか」
「いえ、そうは感じませんでした」
「私が、だらしなくて、朝にも弱いから」
「あなたの寝顔もよく見れたことですし、問題ないですよ」
「……じゃあ、何で嫌いになったんですか」
「嫌いになった?」

後一歩で泣きそうな私の顔を見ながら、いつものような冷静な顔を崩さないまま繰り返される。声色には意味がわからないという色が明らかににじんでいて、そんなの私の方だ、と布団に隠れた拳を握りしめた。

「私がいつ、あなたを嫌いになったっていうんです?」
「だって今、別れようって」
「言いましたよ。しかし、あなたのことを嫌いとは言っていません」
「言ってなくても、別れるってそういうことじゃないんですか……」
「ああ、泣かないでください。いじめたくなってしまいます」

ん? 今、何か不穏な単語が聞こえた気が。私の考えを遮るように佐々木さんが指差したのは、カレンダーだった。何の変哲も無い、一年間の予定がまるまる載った一枚の大きなカレンダー。デザインが好きで毎年同じ種類の物をかっている。指をさした先にあとあるのは、壁のみだ。よく見ようと目を凝らすと、佐々木さんがさっきまでよりも低い声で「あれに記入してあるのは、誰の誕生日ですか」とだけ言った。

「……誕生日?」
「少なくとも現在のあなたの交友関係の中に、あの日が誕生日の人はいません。勿論私のものではない」
「えっと、もしかしてあの、ハートで囲んであって、下に誕生日って書いてある……?」
「はい」

明らかに佐々木さんの声は苛立っていて、顔から血の気が引いていくのを感じた。毎日視聴予約しているせいでテレビが勝手に起動し、「おはようございまーす」と無駄に元気な女子アナの声が部屋に響いた。

「今あなたとお付き合いしているのは私のはずです。にもかかわらず、あんな風に誕生日を記すということはよっぽど特別な人なんでしょう?」
「その……人、じゃないんです」
「は?」
「実家に飼ってる、犬の……」
「……」

そこまででもう私は限界だった。佐々木さんの顔を見ずに、うつむいたまま吹き出してしまった。石のように固まっていた佐々木さんが、それをジト目で睨んだので、無理矢理口を押さえてみたけれど、笑いは止まらなかった。その後大きめにつかれたため息に、こめられた想いを考えれば考えるほど、今まで思ったことの無いくらい、好きで好きでたまらなくなる。

「う、嬉しいです。そこまで、思ってもらえるなんて」
「黙りなさい」
「ごめんなさい。でも」
「なんですか」
「もう、嫌いでもないのに別れるなんて言わないでくださいね」

何か言おうとした佐々木さんの隣をすり抜けて、ベッドから降りる。つもりだったのに、体の後ろにあった腕を簡単に捕まえられてしまい、体制を崩してそのまま佐々木さんの胸の中に背中からなだれ込む。「今日のお天気は、日中を通して晴れです!」テレビの中のお天気キャスターもどことなく嬉しそうだ。

「あの、佐々木さ」
「好きです」
「へ」
「いまいち伝わってなさそうでしたので、これを期に伝えておきます」

近くで言われたから、耳がくすぐったい。近距離から見上げた佐々木さんの顔はいつもよりほんの少し優しくて、セットしていない髪がさらりと耳にかけてあって、心臓が飛び跳ねた。逃げるように「佐々木さん!」と名前呼ぶと、「はい」といつも通りの返事がかえってきたけれど、絶対にわざとだ。間違いない。

「コーヒー、飲みますか?」
「お願いします」

このコーヒーを飲み終わったら、もう少し会いたいですってわがままを言ってみよう。まだ半分以上残ったコーヒーからはシナモンの薫りが、ふわりと鼻を刺激する。最初は苦手だったこの味も、すっかり舌に馴染んでしまった。そういうものなのかもしれない。雑にまとめながら、再び彼の名前を呼ぶ。律儀に返事がかえってくる限り、私は佐々木さんの傍を離れられないだろうな、と思いながら少しだけ残ったコーヒーをマグカップの底でくるりと回した。


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