ばたばたと上靴が廊下を蹴る音と、遠くで響く高笑いに、目を開けた。枕にしていた腕が痺れるのを我慢しながら、重たい頭を持ち上げる。反射的に目に映った窓の外の暗さと自分の寝ぼけた顔にぎょっとする。
慌てて見た教室の時計は、あと少しで最終下校時刻をさすところだ。すでに私しか残っていない教室には、無駄に煌々と電気がついていて、何でこうなったんだっけと少し考えた。机の上に開かれた問題集は、解こうとした痕跡すら見えない。誰かと約束した覚えもない。一体何人に間抜けな寝顔を晒したんだろうと今更悔やみながら、白紙のままの問題集を机の中に押し込んだ。

「あれ、まだ帰ってなかったんだ?」

突然の声に驚いて、思わず持とうとしていた鞄を取り損ねる。教室の前方にある扉から顔だけ出したまま話しかけてきたのは、隣のクラスの志村だった。

「なんだ、おどかさないでよ」
「ごめんごめん。まだ電気ついてたからさ、人居るのかなと思って」
「そっちの教室には誰もいないの?」
「今さっき先生が戸締りしにきたところ」

じゃあもうここも閉められるな。
暖房の電源を切ってから、電気はそのままに教室を出る。明るい廊下と隣の教室の暗さが気味が悪くて、早く行こうと志村を促した。
下足場に行くまでの廊下は、すでに暗くなっていて、私達二人分の足音がぺたぺたと響いているだけだった。通り過ぎた職員室も薄暗かったのも、きっと冬のせいだろうと段々寒くなってきた指先をスカートのポケットに突っ込んだ。

「誰もいないじゃん、先生ってこんな早く帰れるんだ?」
「今日は職員会議でしょ。職員室には居ないだけなんじゃない?」
「あー、そうだったね」

真面目な眼鏡くんは、やっぱり見掛け倒しでは無いらしい。上がってきたセーターの裾を伸ばしながら、尚も廊下を進む。剥き出しの膝小僧がすでに寒さを主張し始めたが、どうすることもできない。そういえば、志村は家どっちだっけ? 下足場にローファーを放りながら、横目でちらりと顔を盗み見たけど目は合わなかった。

「志村はさ、何してたの。こんな時間まで」
「先生に用事押し付けられちゃって、準備室でプリント仕分けさせられてた」
「え! なにそれ! ひどいね」
「でもほら、こんなの貰った」

割りに合わないよね。言いながら、ポケットから取り出したのは紙パックの苺牛乳だった。それを見て、そういえば坂田のクラスだったっけと、寒さできゅっと縮んだ脳みそでなんとなく考えた。通学路を男女二人で手を繋がずに帰るのって、中学生みたい。

「いる?」
「もらっていいの?」
「僕、そんなに甘いの好きじゃないから」
「でも、人が頑張った証を横取りするなんて……」
「そんなこと言わずに、はい」

志村は、いい奴だ。知ってたけど。
感動しながら貰い受けた苺牛乳を両手で握りしめていると、照れ臭そうに笑われた。
周りに同じ制服を着た生徒はいない。私達を後ろからぶっきらぼうに照らす車のライトに、志村の眼鏡の弦がキラリと光った。

「良かった、喜んで貰えて」
「何それ、嬉しいに決まってるよ」
「はは、先生に感謝しなきゃね」
「……人良すぎだね、相変わらず」
「そう、かな?」
「うん、全然変わってない」

まだ寝起きの余韻に浸っている脳みそが、捨てたはずの思い出を取り出そうとする。チェックのスカートだとか、文化祭の飾り付けだとか、チェーンが切れたキーホルダーだとか。その隙間に挟まっているのは、目移りを繰り返す私の横顔を咎めない、地味な同級生の困った笑顔だ。忘れようと思っても忘れられないのは、結局、私が何も変われていないからだろう。

「……その顔も、久しぶりに見た気がするな」
「え? 僕、変な顔してた?」
「私のこと、大好きって顔」

冬の夕方は短い。あっという間に夜は私達を覆ってしまう。一番星に反応した街灯が、順々に灯っていく。私達の顔も白く照らされて、反対に影は濃くなる。
志村は、笑っていなかった。こんな顔は初めて見たかもしれない。

「やっぱりこれ、返すよ。妙ちゃんにあげて」

紙パックを志村の鞄に無理矢理ねじこんで、代わりに私が笑う。

「ほら、もう家すぐそこだからさ。志村の家、真逆でしょ。早く帰らなきゃ、怒られちゃう」

道の真ん中に立ち止まった二つの影を、掻き消してしまいたくなった。記憶の繭に亀裂が入って浸み出してくるのは、居なくなったはずの汚い私。

「やっぱり、僕じゃ駄目なんだ」
「違うの」

無理に笑って見せないで。優しい声も震える指も、私にはふさわしくないんだから。志村の温かい優しさを分けてもらうには、私は汚れ過ぎた。

「私が、駄目なの」

どろどろに甘いいちご牛乳が、飲んでもないのに食道を塞いだ。こうやって志村から逃げるのは何回目だろう。少しだけ離れた私と志村の間に、静かに夜が横たわる。私達の影は交わらないまま、きっと大人になってしまう。それでいい、そうじゃなきゃ私。

「君こそ、そういうズルいところ相変わらずだ」
「嫌いになった?」
「……なれたら、こんなこと言わないよ」

自分が傷付くのが何よりも嫌だから、こうして自分を傷付けるフリだけして、志村の心臓に深く爪を立てる。だから早く帰ったら良かったのに。私なんかに声掛けずに、まっすぐ帰ればよかったんだ。いつの間にか私の手に戻っていたイチゴ牛乳は、飲めないほどに甘かった。



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