*現代パロ/捏造注意
銀ちゃんのいってきますを最後に聞いたのは、ミンミンゼミがうるさいくらい鳴いて鳴いて鳴きまくっていた鬱陶しい夏の朝だった。そのうるさすぎる幾千のミンミンミンに掻き消されるように、忽然と銀ちゃんは私達のお家に姿を見せなくなったのだ。
1日経ち、2日経ち、段々と職員さん達は騒ぎ始めた。
もともと素行のよろしくなかったテンガイコドクの銀ちゃんにだって、いなくなれば心配する大人はたくさん居るのだ。きっと私にも、不思議な事に。昨日補習の帰り道に買ってきたチョコレートの溶けかけたパンを頬張りながら、ひっきりなしに鳴ったり鳴らしたりしてる電話の音を、自分用にあてがわれた部屋で聞いていた。宿題なんて進むわけない、夏休みのど真ん中。銀ちゃんは、どこにいったんだろう。どろどろになったパンを食べるのをやめて、手の甲でぐいと口の端を拭った。その手をぺろりと舐めて、鬱蒼と茂った施設周りの木の陰に目を凝らす。あんなに目立つ銀髪だ。自然と蒸発したならまだしも、跡形も無く消えるなんてありえるんだろうか。銀ちゃんは、自分からいってしまったのだ。それが分かったのは、新学期が始まってからだった。中途半端に終えた課題を出しに、職員室へ向かう途中覗いた2−Bにはもう、銀ちゃんの席は無かった。
こうやって、ひとつひとつ、銀ちゃんが居た痕跡は無くなってしまうのかなぁ。最近はもう下世話な噂にも上らない、記憶の中でどろりと溶ける死んだ目だけが笑った気がして、担任の前でぼろりと涙を二粒こぼしてしまった。
この時、不覚にも私は記憶の中の銀ちゃんに恋をしてしまっていたのだ。
*
一人目は高杉さんにした。
学校のイチョウの木の下で寝ているのを見たことがあったから、見に行ったけれどあったのは見事に黄色く燃えるイチョウだけだった。こんなに天気のいい日だからどこかにはいるはずだと野良猫でも見つけるような気持ちで、校舎裏や用具小屋を探してみたが、それは失敗に終わった。機嫌のあまりよろしくなさそうなトーンに、ぶっきらぼうに声をかけられたのは、結局授業の始まる直前、諦めて駆け上がっていた階段の踊り場だった。
「お前はまだ居たんだな、てっきりあのボンクラと消えたもんだと思ってたが」
「そっくりそのままお返しします」
「いンや、そんなもん返さなくていいさ」
機嫌を損ねたのは私のせいなんだろうか。駆け上がってきた階段を降りる足音は二つ。イチョウの木は、ギンナン臭ェから今は近寄らねェんだよと鬱陶しそうに教えてくれた口ぶりは、最初よりは幾分か楽しそうだった。チャイムの音を聞き流し、眼帯の白さを見ないようにする私は果たして見えているんだろうか? なんにも信じられないけど、この胡散臭い銀ちゃんのトモダチのことは不思議と信じても良い気がした。
「去年の夏に、私と銀ちゃんと三人でコンビニ寄ったの覚えてますか」
「……覚えてると思うか?」
「ほら、高杉さんのアイスバーが当たりだった時のことですよ?」
隠れていない方の目がきょろりと動いただけで、十分だった。下足場に入ろうとしていた足を止めて、さよならと声をかけた。返事は無かった。まるで私など存在しなかったように、歩いていく背中に、どうかあの夏のアイスバーが高杉さんの思い出の中で最後の当たりでありますようにと祈った。呼応するように薄い手が、ひらりと私にお別れを告げた。
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二人目は桂さんだった。
長い髪が灰色の空の下でも変わらずにまっすぐだから、すぐにわかった。恐らく通ると思われた道に面したコンビニから、急いで飛び出して勢いのまま声を掛けると、「確か銀時の」と言いかけて、不自然に口をつぐんだ。おそらく、施設の事を言うのが憚られたんだろう。どこまでも真面目な人だ、相変わらず。
しんしんと雪の降りしきるなか、銀ちゃんが買ってくれた黒い手袋に包まれた手がかじかんでいる。
「残念ながら、俺にも銀時の事はわからない」
私が問う前に、答えは与えられた。それから、すまない。と笑う桂さんに、だまって首を振った。本当はそんなことが聞きたかったんじゃない。
「去年の夏、一緒に宿題したの覚えてます? たしか、市の図書館で」
「そういえばそんなこともあったな。それがどうかしたか?」
「いえ、聞いてみたかっただけなんです。気にしないでください」
やっぱり、私の記憶は間違ってなかった。ほう、と丸く吐いた息が白くなる。
桂さんと話したのは二回目で、一回目に確かに銀ちゃんは居たのだ。施設のどこにも銀ちゃんの居た証拠はないけれど、桂さんの記憶の中にも銀ちゃんは住んでいる。そして市の図書館の自習室の一番奥で、私と一緒に宿題をしているのだ。
お礼を言って、肩と頭についた雪を払う。いつのまにか傾けられていた桂さんの赤い傘から逃げるように、私は知らない路地をじぐざぐに走った。
*
三人目は、坂本さんになった。
駆け足で逃げていった冬に未練たらたらの私は、その日も懲りずにマフラーを首の後ろに余らせていた。後ろから突然引っ張られ、思わず蛙がつぶれたような声をあげてしまった。朝っぱらからテンションの高い坂本さんとは、銀ちゃん抜きでもちょこちょこと遭遇していたから、特に新鮮さは無かった。残念ながら。「あんりゃ〜 まっこと久しぶりじゃの!」とお決まりの大声は健在なようで安心した。
「おんしらぁ連れて、船見に行ったんは去年の夏じゃったか?」
「……そうでしたね」
「もう、ほがぁに経つんじゃの」
他の生徒が私達を追い抜いていく。春の陽気に浮かれ気味の明るい声がそこかしこで上がり、私の震え声を遮った。サングラス越しの瞳もまた、春に溶かされていつもよりきらきらしている気がした。いつもより綺麗に磨いたローファーの先についた汚い桜の花弁に目線を落として自分への動揺を散らせた。覚えてるのは私だけじゃない。当たり前の事なのに、どうしてか聞こえないはずのミンミンゼミの声が脳をゆらす。私よりも大きな足で進む坂本さんの髪の毛についていた花弁は、綺麗なままだった。
「おまんと会うのも、これがしまいかもしれん」
「私もそんな気がしてました」
「わしらぁ、気が合うな」
坂本さんにすべてを見透かされる気がして怖い半分、嬉しくもあった。坂本さんとはどうでも良い話を、私の教室に着くまで続けた。今までよりも少し感傷的になってしまうのは、もうすぐ夏が来るからだろう。ズボンからはみ出た白シャツが廊下を曲がるまで、目を離せなかったのもきっとそのせいだ。
*
「来ると思ってたけど、ほんとに来たな」
「予想を裏切れなくて、すいません」
閉め切られた窓ガラスを覆う黄ばんでしまった厚いカーテンでも、真夏の殺人光線は遮られない。補習と補習の隙間時間、随分と久しぶりに足を運んだ国語科準備室はわざとらしい冷気で満たされていた。どうぞと渡されたコーヒーからは湯気が立っていて冷えてしまった体を温める為にひとくち、口に含んだ。銀ちゃんにそっくりな坂田先生は、似てるだけで全くの別人だ。もしかしたら血のつながりはあるかもれないけれど、確かめる方法を持っているひとはもういない。それでも、最後に会うのは先生だと、決めていた。目の色も、髪質も声色も、先生の全部が大人になった銀ちゃんを無理矢理に想像させるから、言葉通り目に毒だ。私はもう、上書きする気はないんだから。
「明日だろ、」
「はい」
「……銀時によろしく言っといてくれや」
カレンダーを一通り辿った目が、そのままに私を捕まえて離さない。
「先生は知ってるんですよね。銀ちゃんのこと」
「聞きたいとかいうんじゃねーぞ」
「言いませんし、聞きたくないです」
てっきり止められるのかと身構えていた私は、短く断ってから少しだけ気を抜いた。握りしめていた右手に溜まった汗を、スカートが雑に吸う。クーラーの起動音以外、何も聞こえない。銀ちゃんの居た夏は、あんなにうるさかったのに不思議だ。
「アイツも去年の今日、俺のとこに来たよ」
「だとおもった」
お前らはよくわかんねぇな、なんて失礼な事を言いながらぼさぼさの髪を撫で付けて諦めたように笑う先生は、きっともう私のことを見ることはないだろう。私や銀ちゃんには超えられないものを超えて、大人になってしまった先生は、遠すぎる。
「さよなら、先生」
部屋の扉を開けると、熱風の中、いつかのミンミンゼミの大合唱が響き渡っていた。銀ちゃんは存在した。それから私と銀ちゃんが一緒に過ごした夏が確かに在った。それだけわかれば、もう迷いは無い。一歩踏み出した上履きが、いつもよりも軽やかな音を立てた。銀ちゃんのいない夏なんて、私には永遠に来なくていい。次々に移り行く四季の底で、私と銀ちゃんが一緒に過ごした夏が誰かの中で生きてさえいれば、他に何も要らないのだから。蝉の大合唱が、止んだ。