「お前さ、最近ちゃんと寝てるか?」
「…………ハイ?」
「ハイじゃなくて、聞いてんだよ」

心配と怒気を半分ずつ含んだ不器用な質問から、いつもみたいに逃げようと曖昧な返事をしていると、許さないと言わんばかりに距離を詰められた。
煙草のキツい匂いが肺に刺さる。
少しでも気を抜けば、脳みそを覆うベールのような眠気に持って行かれそうになるので、刺激としてはちょうどいい気もする。

「寝てはいますよ、少なくとも副長よりは」
「何だその含みのある言い方は。お前、このあいだの見廻り中に倒れたらしいじゃねぇか」
「あれは、貧血で……」
「医者は寝不足だって、ハッキリ言ってたとよ」

一緒にいた山崎にはちゃんと口止めしたはずなのに。もしかしたら、原田さんといた時のことかな? なにぶん心当たりが多すぎて、うまく切り抜けられない。
わざわざ副長から改めて言われると、自己管理の甘さを痛感せざるを得なくて、返事がすみませんだけになってしまう。
情けない私の心臓を、無理矢理見ようとする土方さんの強い目を見返すことはできない。

「自分のことは自分が一番分かってるだろうから言いたくはねえが、取り返しつかなくなる前に何とかしろよ」
「はい……」
「ま、当分、前線には立たせるつもりねぇから、後で俺の部屋に書類取りに来い」

踵を返した副長の足音が廊下の奥に消えるのと反比例して、心臓がうるさくなっていく。このままじゃ、いけない。前に診察に行った時にもらった睡眠導入剤を捨ててしまったことを、今更後悔した。



流石に仕事が仕事なのもあるので心配性の上司達にバレないように、本当は山崎の前で倒れた次の日に診察してもらっていた。
結果は自分が思っていたとおり、ストレスからの不眠症とのことだ。

「不眠症といっても、寝てはいるんですけどね」

大袈裟な病名を誤魔化すように笑う私に眉を少しひそめた医者は

「限界まで睡眠を取らず、無理に運動して気を失うのを眠りとは呼ばないよ」

と静かに忠告した。
多量に服用しないように、と睡眠を促進するお薬を受け取ってから、さてとりあえず帰ろうと総合病院の広過ぎるロビーを横切ろうとした私を呼び止めたのが、佐々木さんだった。

「こんな所で会うなんて、世間は案外狭いものですね」

相変わらず携帯をいじりながらの抑揚の無い声に、自分の横に腰掛けるよう言われている気がして、何の因果か病院の固い革張りの椅子に江戸の二大警察のドンと下っ端が二人並んでいるという妙な構図になってしまった。

「入院されてたんですっけ、傷の具合はどうなんです?」
「ええ、おかげさまでとっくに退院してますよ」
「それはそれは。お大事になさってください」
「言われずともそのつもりです」

嫌味っぽい喋り方も、慣れてしまえばどうってことはない。いつの間にか携帯は閉じられていて、忙しなく行き交う速度の違う人々の動きをぼんやりと眺めているように見えた。けれど相変わらず、横顔のどこにも隙は無いから、流石エリートだなぁと妙な所に落とし所をつけてしまった。

「私のことはさて置き、あまりそういう薬に頼るのは感心しませんね」
「……バレてました?」
「バレてないと思ってたんですか」

こっそり後ろ手に持っていたはずなんだけどなぁ。無駄に張っていた緊張が解けていたせいか、少し笑ってしまう。思えば苦笑いや愛想笑い以外の笑いは、随分久し振りに感じた。

「その場しのぎで眠れたとしても、抜本的解決にはなりませんよ」
「解決を待つ前に、睡眠不足で死にそうなんで」
「おや、原因が自覚済みなら話は早いんじゃないですか?」
「自覚っていっても、私の世界は今の所、職場しか無いですから」
「窮屈な人生ですねぇ」
「お互い様でしょ」

うねりのように駆け巡る見えない話し声や機械の稼働音。どこかで鳴り響く警告音や廊下を走る音が、佐々木さんとの沈黙を簡単に葬ってしまった。紙袋にとんぷく、と優しく書かれたのを指でなぞっている私を、怪物はどんな目で見てるのか確かめる術は私には無い。

「治して差し上げましょうか、私が」
「……治すっていうのは、」
「だからお薬は捨ててしまいなさい」

最初から捨てるつもりだったとは、今更言えない上に、何を言ってるのか真意が掴めない。再び開かれた携帯と佐々木さんの横顔をかわるがわる見ている私に、携帯をよこしなさいと手のひらが差し出された。

「本当に治せるんですか?」
「勿論、エリートに不可能はありません。とはいえ、貴女にも立場というものがあるのは理解しています。ですから、本当に私の手に縋りたくなったら連絡して下さいね。アドレス帳、サブちゃんで登録しておきましたから」
「さ、サブちゃん……?」
「はい、サブちゃんです」

帰ってきた携帯を見ると、本当にアドレス帳に佐々木さんが登録されている。

「……私に構ってもあんまり、プラスになるようなことは無いと思いますけど」
「それは私が判断することです。現に、メル友は1人プラスされた訳ですから、全くもってゼロでは無いですよ」
「メル友、ですか……」
「メル友というより、主治医と患者ですかね」

ここ数分の間で起きた、顔見知りから主治医兼メル友への関係性の目覚ましい変化を薬と共に抱えながら帰路につく。
全くもって変な人だくらいにしか思ってなかったのだが、何故だか始終つきまとっていた睡魔らしき重い荷はいつの間にか消えていた。
そしてこの時はまだ、その提案に自分が簡単に乗ってしまうなど想像もしていなかったのだ。

▽▽

件の副長の忠告から更に、局長の大袈裟な気遣いやら沖田の悪質なイジりなんてのを経て、とうとう私は「佐々木さん」と名前をつけていたメールフォルダに溜まっている大量のメールに返信するに至った。
休日の朝から見廻組の局長室に呼び出された私は、相変わらず拷問のような頭痛やふらつきに耐えながら、普通の時なら躊躇してしまう豪勢な見廻組の門構えを隊服のまま突破した。
屯所の局長室とは一体何だったのかと思ってしまえる程度には、見廻組の局長室はそれらしかった。どちらかというと、社長室のような圧を質素さの中に秘めている、息のしづらい密室。そんなイメージだった。夢のようにふかふかなソファに深く腰掛けてからようやく見た佐々木さんの顔は、意外にも笑みを浮かべていた。

「しかし、貴女も度胸がおありです。流石に真選組の隊服で来られるとは、想定してませんでした」
「隊服といっても、黒か白かってだけじゃないですか」

最もらしいことを言っているが、これは単にエリート集団を訪問するのに相応しい着物を持っていなかったからだ。バレないといいけど。

「重症ですね」
「治りますか、先生」
「……善処しましょう」

それから行われたのは、簡単な受け答えだった。
例えば、夜は寝付けないかわりに昼間はものすごく眠いとか、酒もタバコも好きじゃないとか。前回の診察でも聞かれたような、当たり前のことをこうも淡々と聞かれると、佐々木さんが本当に医者に見えるから不思議だ。彼が席を立って少しすると、ソファが余りにも柔らかくて、瞼がだんだんと重くなる。首が頭の重さに耐えきれず、ガタンと揺れた瞬間、誰かに肩を素早く揺すぶられた。

「こんな時間に寝ては、また夜間の睡眠が難しくなるでしょう」
「……そ、ですね」
「先程、貴女が今日は此方に泊まっていくと連絡しておきました」
「え? 泊まり?」
「なにか、ご不満が?」
「不満っていうか、そうなるとは思わなくて驚いて」
「不眠症の治療で宿泊するという選択肢が無い方が驚きなのですが」

正論過ぎて、返す言葉がない。再び正面のソファに腰かけた佐々木さんは長い足を組みながら、言葉に詰まった私に言い聞かせるようにゆっくりと話し始める。

「まぁ、こんな質問に今更、意味はありませんけどね。どうします? 夜までに何かしたいことはありますか? できれば、適度な運動が望ましいのですが」
「何でも良いんですか?」
「可能な事ならば何でも、と行っても良いでしょう」
「……じゃあ、ひとつ」

私の脳裏に映るのは、不器用な二本の指で煙を燻らせる不敵な笑み。
それから、唇から紡がれる女でも隊士でもなく、私に対する言葉。

「お手合わせ、願いたいです」
「稽古ですか。しかし、うちのエリートは強いですよ。特に信女さんともなると、貴女などでは」
「私は佐々木さんに稽古つけて欲しい」

そう、強くならなければ。
私は、もっともっと強く。
思わずぶわりと湧き上がったのは、最近感じることのなかった戦闘に向かう気持ちだった。まとわりつく眠気を吹き飛ばすそれを見たか見ていないか分からないけれど、佐々木さんは少しだけ考えて、私の方を見たまま、行きましょうかと言っただけだった。

「時間を潰すのには、ちょうど良さそうじゃないですか。言っておきますが稽古は稽古。手抜きなどしませんよ?」

少しだけ、ほんの少しだけそう言う佐々木さんが楽しそうに見えて、やっぱり直接話すよりこっちの方が良いのか、と私も頬を緩ませた。

▽▽▽

はじまりは、目に見えないほど小さくて透明な、彼女に対するほんの一握りの好奇心だった。

車窓の外で流れるどうでもいい昼下がりの中で、不意に黒い隊服が現れ、倒れたのだ。
人影はひとつきりで、刺客に襲われた様子もない。ただ、受け身を取ることもなく、ゼンマイが切れたようにぱたりと倒れ伏した。
車を止めさせてわざわざ見にいってみると、倒れたのは真選組の女隊員で、舗装されてもいない道の真ん中で、あろうことかスヤスヤと寝息を立てていた。
勿論その時は屯所まで送り届け、困り顔の近藤殿に押し付けたのだが、恐らく寝ていた彼女は知らないのだろう。

それから、ふと気になって彼女の素性と周りのことを洗いざらい調べさせてみると彼女は不眠症であり、発症したのはごく最近であること。医師の診察は受けているが、回復の兆しは無さそうだということがわかった。
どうせ原因は凡人らしくストレスだろう。
道端に転がっていた寝顔を思い出しながら、部下に資料を突き返した。

興味はすっかり失せたと思っていたのに、病院で出会った自分は余りにも自然に、そして安易に彼女に歩み寄ろうとしたのだ。
稽古を終えて更衣室に消えていく彼女の後ろ姿を見ながら、頭の中にいくつかあったイメージを打ち消し、新しく書き足した。
外はいつの間にか夜に浸かっている。
手配してあった洋風のホテルで待機している部下に連絡を寄越しながら、窓に映った自分の顔がいつもと何と無く違う気がして、口元だけ歪めた。

▽▽△

秒針を刻む時計の音、機械が息をする音、自分の衣擦れの音、その全てが規則正しい呼吸を乱すような気がして、何度目か分からない目覚めを迎える。この表現は厳密には違っていて、一度も眠りにはついていない。
ただ、目をつむっているだけ。
頭はぼうっとするし、猛烈に眠いのにどうしてか寝付けない。

「眠れませんか」

優しい声が、夢と現に挟まれてる私の耳をしっとりと触る。
ああだとか、ううだとか、返事と呼んでいいのかわからない唸り声をあげると、白くて平たい手が私の頭を撫でた。
薄く開けた目には佐々木さんの空色の着物が映る。何でまだここにいるの、今何時なのとか。聞きたいことはあったけど、全部ちぐはぐな空気と息を混ぜて溶かした。

「やはり、場所を変えたぐらいでは治りませんか」

深夜にぴったりの音程で発される佐々木さんの声が手のひらと共に遠のいて、代わりに背中側に布団が引っ張られた。それに伴って横向きにうずくまっていた体を仰向けに倒すと、肩が何かにごつんと当たった。ぼんやりとした頭のまま、きっと佐々木さんの肩だなと思った。感触以外は全くもって現実味を帯びていないから、こんなに近くに佐々木さんがいるなんてやっぱり信じられない。

「……ゆめですか、これ」
「そうです、全て夢ですよ。貴女が見てしまったものも、なにもかも」
「見てしまった……?」
「だから、忘れなさい」

そうか、あれ、夢だったんだ。
ぼんやりとしたまま動かない感情が、目頭に滲む。副長と、知らない女の後ろ姿。初めて見た、優しそうな顔。黒ずくめの汚い私は、やはり女にはなれなかった。かといって、男にもなれない。副長からは常に遠く、近付くことを望むことすら、ゆるされないということも。
夜の繁華街に溶けた二つの影も、夢。
だとしたら、これも。

「佐々木さんが私のためにここまでしてくれるなんて、夢じゃなきゃおかしいのに、なんで気づかなかったんだろう」

乾き切った舌が自嘲気味に、そう言った。聞こえてるかわからない言葉未満の戯言を、揺らいで見える佐々木さんの瞳はちゃんと映してくれているんだろうか?
夢でしか無いというのなら、竹刀を交えて飛び散った汗や、理性の隙間からこぼれ出た獣のような光は? そして今、確かに存在する隣の熱は何なのだろう?

「夢とは得てしてそういう物ですよ」

佐々木さんは私を隠すように布団をかけて、その上から背中を何度も何度も撫でた。横向きの私の半身にかかる、腕の重さが心臓を優しく締め上げる。このまま夢に甘えてしまっても、いいんだろうか。迷いは目の前の緩んだ袂の隙間に吸い取られていくように、段々と私の中から消えていく。

「だったら……このまま死んじゃってもいい」
「それは、困りますね」

薄く開いていた両目が、大きな手でそっと隠された。心地よい暗闇に響くのは、少しだけ笑いを含んだ声だけ。

「夢で終わらせるつもりは、さらさらありませんから」

いやだ、まだこのままでと思うのに、脳みそは貪欲に休息を求めているようだ。次に目を覚ました現実のことを考える間もなく、私は全てを忘れ去るために、私は深い眠りの中に落ちた。



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