縁側に座ったまま、しんしんと微かに残った緑の葉に白く積もる雪に目を凝らす。温かくしなきゃと羽織って出た半纏も、赤くなってしまった冷たすぎる裸足のせいで今となっては何の意味も無くなっている。着物の帯が苦しい、昼に食べ過ぎたかな。家の中を忙しなく歩き回るお母様の足音が、遠くに感じた。
私は自分の家の中で、中庭が一番好きだ。廊下に囲まれて硝子で隔離されている、家の中であり、外とも言えるこの箱庭が。私の部屋とは面していないから、わざわざ客間まで来ないといけないのが唯一の難点で、それ以外は全部申し分がないといっても私は見ているだけだ。手を伸ばすことも、下駄を履いて降り立つこともしない。自分の中で、唯一侵してはいけない場所だからだろうか。 ここに立つことを許せるのは、月に一度来てくれる庭師のおじさん一人だけだ。気持ち良く枝葉を切り落として、細部から全体を整える際にするチョキンチョキンという軽快な鋏の音もこの庭にとって必要な存在だから。それから後いるとすれば、一人しか思い浮かばない。
「まーたここに居たのかよ、いい加減にしねぇと風邪ひくぞ」
ぶっきらぼうな物言いに反して、足音は割に静かだから、一瞬夢でも見てるのかと思ってしまった。先生のことを考えていたから、余計にだろう。まじまじと姿を見てからようやく、今日は金曜日で先生が来る日だったということを思い出した。先生とはいっても、彼が教えてくれるのは勉強じゃない。単なる話し相手といっても良いだろう。
「もうちょっとだけ、」
「お母さまに見つかっても知らないからな、俺は」
そう言いながらも、いつも通りに私の横へ腰かけて同じように足を垂らす。それでも私よりも長い足は私用に置いてある赤い鼻緒の下駄に届いてしまい、それを自然とひっかけた。私も履いたこと無いのに、文句を言おうとしたが白過ぎる先生の足が女物の赤と綺麗に映えていて、悔しくて喋るのをやめた。代わりに吐き出した息が、白く丸く空気に解けた。
「ほんと好きな、お前。庭眺めるのなんて、老後の楽しみにとっときゃ良いのに」
「先生が本当は全然勉強できないの、お母様にバラしますよ」
「ほんとに素敵な庭だよな、なんてーの? あれ、情緒がもう、すごい」
「……無理しなくても結構です」
「うまくは言えねえけど、いい庭だよ。それくらい、お前見てりゃわかるさ」
先生は本当は何でも屋さんをしていて、家庭教師なんて依頼されたのはウチが初めてなんだと、初めて会って、ここに一緒に並んで座った時に教えてくれた。
私の家は古くから和菓子屋の経営に携わっている。いくつかある店舗の中でとりわけ小さい歌舞伎町にあるお店の常連さんが、先生だったのだ。そこで色んな人脈を活かして家庭教師を探していたお母様の耳に入ってしまったというわけだ。
もちろん出来ない依頼は断らないと、と思ったものの、家に招待されて和菓子を山盛りに出されてしまえば、残ったのはやる気だけだったらしい。今日も女中さんに持たされた店の紙袋は見るからに膨れていて、見るだけで胃がもたれそうだ。
「なに? そんなに見てもやんねーよ?」
「私は先生と違って、わざわざ働かなくても食べられますから」
「何言ってんのお前、こんなんが仕事だと思ったら大違いだからね? 豪邸にきて喋るだけで菓子と給料貰えるなんて、むしろご褒美だから」
「でしたら、ご褒美だけあげましょうか?」
冷えきった足に力が入らない。それでも、立ち上がって先生の真っ白な髪とつむじを見下ろす。反して見上げてくる先生の怪訝そうな目を見て思わず笑ってしまった。手を差し伸べたら、先生は反射的に私の手を取った。
「行きましょ、先生」
「あ、うん」
きゅうと握った薬指と小指は、ずいぶん温かかった。その日の夜、先生が帰ってからしばらくして、女中さんに家庭教師を変えてくださいとお願いした。少し渋い顔で、今回の人も駄目でしたか?と聞かれたので、温度の無い声ではい、と返事をした。それに取ってつけたように、「申し訳ないので、先生がお店にいらした時にはお代を取らないでください」とも言った。お母様には秘密のお願いだ。女中さんは、低い声でわかりましたと言った後、困ったように笑った。
「お嬢様がそんなお願いをするのは、初めてでございますね」
彼女の一言が、頭から離れないまま夜が更けてしまった。こっそり部屋から抜け出して、無人のお座敷を横切って中庭に面した硝子戸を開ける。昼間と同じようにそこに座って息を吐き出してみる。ふと、見下ろした先にあった散らばった下駄を思わず拾い上げた。これは、持っていこう。勿論、履くことはしないけれど。あと一週間もせずに、私はこの家を出ることになっている。きっと家庭教師なんてもう雇うことは無いだろう。それでいい、先生が私の中で最後で居てくれるだけで、どこにいたって私はこの中庭と生きられる。胸の中で冷えきった下駄の鼻緒が、赤く震えていた。
*
私が政治家の嫡男の所に嫁いでから、何年経っただろう。数えるのも嫌になるくらい豪華なだけの檻の中で、私は歳を取った。小さな少女だった私はいつの間にか立派に女になってしまったが、あくまでそれは外見だけの話だ。私の頭はいつまでも、遠く離れた中庭から動けずにいる。
若くして亡くなってしまった夫がいなくなっても、家に戻ることは許されず、かといって新しい縁談を受けることもなく、私はおとなしく息をひそめて生きているだけだった。まるで植物のような生き方は嫌いではなかったし、私が望むものに近くもあった。けれど、贅沢を言うとすれば、こんなところで死にたくはない。しかし、どうすることも出来ない内に、いずれ不満も消えるだろう。これは予測ではなく願望なのかもしれない。
久しぶりのいい天気ですからと、お手伝いさんに外に出ることを勧められた。家にいても何をするわけでも無い。お供を名乗りあげた女中さんにやんわり断りを入れて、一人でこっそりと裏戸から外に出た。
道を一本外れ、二本外れると喧騒は段々と酷くなる。恐らく私と同い年くらいの若者が団子になって楽しそうに笑っていた。
どこに行くわけでもなく歩いていると、見知った看板を見つけてしまい、無性に懐かしさを覚えて、片手を上げて暖簾の中を覗く。
いらっしゃいませと元気に声を上げた店の奥のおばさんが、私の姿を見るなり血相を変えて表へ出てきた。あまりの剣幕に追い返されるのかと思ったが、美人になられて、とかあんなに小さかったのにとか、涙ながらに喜ばれて、そういえば最後にここの店先に来たのは嫁ぐ少し前だったのだと思い出した。
店の奥から次々と出てくる見知った顔と一通りの再会をした後に、店の中から注がれる好奇の視線から逃れるように外に出て、真っ赤な長椅子の端に腰かけた。こんなに寒いのにと涙を散らしながら言われたが、それを振り切ってお団子とお茶を注文した。
行き交う人達をぼうっと眺めていても、私もこの中にいることが俄かには信じられない。
まるでテレビを見ているように、遠くに感じてしまう。洋服を着ている人も増え、信じられない程短い丈の着物を着ている女の子も沢山いる。私がそうしている間にも、店の中にいたお客がぱらぱらと出て行き、何人かが店に入って行った。
すぐに出てきたお団子の串の先に記された焦げ茶色の店名をぺろりと舐めていると、また一人お客が来た。暖簾をくぐろうとした瞬間に、不自然に足音が止まった。思わず見上げてしまい、来たばかりの客と目が合う。ぱらり、串が地面に落ちた。簡単には忘れられない風貌が眩しくて、考えるよりも先に口が動いた。
「……先生?」
私の顔を食い入るように見ていた先生が、小さい声で私の名前を呼んだ。それに返事をする前に、先生は私の手首をぐいと掴んで立ち上がらせた。突然のことに驚く間も与えられないまま、先生は私を引っ張ってただ歩いた。足をもつれさせないように気をつけながら、黙って先生の歩くままについていく。路地の隙間を猫のように迷わず進んだかと思いきや、彼は突然ピタリと止まった。細い路地裏は高い建物に挟まれて、ジメジメと湿っていた。
もう一度、先生と呼ぶと、先生がようやく手を離してくれた。それから私の方を向いて、ゴメンと小さく謝った。何に対する謝罪かすぐにはわからず、小さく首を横に振った。
「夢でも、見てんのかと思った」
「……私もです」
言葉に偽りは無い。何度夢で見ただろう。中庭を歩く先生など、見たことない筈なのに。片時も忘れたことがないと言っても良いだろう。思い出になった筈なのに、なんでまた。考えてもわからないことは分かりきっていた。
「先生、変わらないですね」
「お前は、変わったな」
「変わりました?」
「綺麗すぎて怖いくらいだ」
相変わらず、お世辞が下手だ。思わず笑ってしまった私を、先生はそっと壊れ物のように抱きしめた。冷え切った体は拒むことをせず、求めていた熱にもたれかかった。先生とこんなに近くにいるのは初めてなのに、不思議とそんな気はしなかった。
「お前な、こういう時は突き飛ばしてでも逃げねぇと変な奴に連れ去られるって、教えてやったろ?」
「私、もう子どもじゃ無いのよ先生」
どこにも根をはれない、枯れかけの花。それでも先生は、良いっていうの? 突き放そうと先生の服を掴んだ両手が、まるで縋るように震えた。
「だったら俺も先生はお役御免だ。そしたらもう、お前に解雇されることもねぇし?」
「まだ、根に持ってたんですね」
「……俺が何にも知らないと思ったら大間違いだからな、万事屋ナメんなよ」
「でしたら万事屋さん、ご依頼よろしいですか」
先生の胸を押すと、呆気なく腕の中から抜け出せた。いつの間にか雪が降り始めていて、ビルの隙間から覗く空は薄い灰色をしていた。けれど不思議と寒くない。
「私が死んだら、あの中庭に埋めてください。お受けしてくださるなら、なんだって差し上げます」
「それって、お前も含まれんの?」
「もちろん」
私が居なきゃ、埋められないでしょ?
それからもう一度、先生は私の手を取った。今度は優しく、それでも離すことを許さない大きな手だった。もう何も未練はなかった。
私の側に座って、一緒に庭を見てくれた唯一の人と共に居られるのなら、私はもう焦がれなくてもいいのだから。