口からこぼれかけていた悲鳴をぐっと堪えて、今にも組み敷いてきそうだった男の顎を思いっきり殴って、自習室の前で呆然と立ちすくむ銀八先生の横をすり抜けて全速力で逃げ出した。
背中を刺すように呼ばれた私の名前を断ち切る為に勢いよく駆け込んだトイレの扉をしめる。男子用でも女子用でもなく、誰も使わない車椅子用の広い個室トイレに、いつものくせで入ってしまったことを軽く後悔した。分厚い扉越しに聞こえる足音が段々と大きくなるのを聞きながら、つられて心臓が信じられないくらい鼓動を加速する。
少しだけ乱れたシャツを元に戻そうとしたが、指が震えてうまくボタンをかけられない。見られて、しまった。しかも、よりによって先生に。涙がじんわりと目に滲む。ゼツボーってこんな色なのかな、瞼が重くて上がらない。
とん、力無い拳が扉を叩いた。返事はしない。代わりに、息の上がった先生の声が薄く隙間から漏れてくる。先生は私の名前を2回呼んだ。
「おっさんには飽きたからって、わざわざ見せてくれなくてもいいんじゃねぇの? おっさんだって人間だからね? 傷付いちゃうよ」
「ち、違う。そんなんじゃない」
「そんなんって、じゃあ何だってんだよ、さっき俺が見ちゃったのは」
いくら普段通りの声を出そうとしても、声帯がブルブルと言うことを聞かない。
ダメじゃん、いつもみたいに何でもないよって笑わなきゃ。ちぐはぐな顔は、きっと信じられないくらいブサイクだろうな。笑おうとしている口の中に、しょっぱい涙が入った。ただ不安だったんだよ。でも、こんな顔は見せたらダメなの。バカみたいに何されても何しても平気な顔をしてないと、先生に嫌われちゃう。
「告白されて、ことわったら、なんか脅されてそしたら襲われかけた、だけ」
「じゃあお前が最近先生のこと避けてたのは、それとは関係ない訳だ」
「……それは」
「なあ、開けろよ」
○
『先輩って、頼めばヤらせてくれるって本当ですか?』
下品な顔をした知らない後輩に、言われたばかりの言葉が頭に響く。
すぐに返せなかったのは、その通りだったから。自分のことなのにすっかり忘れてたけど、でもそうなったのは、貞操観念がちょっとおかしい先生に近づく方法を他に知らなかったから。
ガラリと変わった雰囲気に伴い、どこからか流れた知らない噂も、聞こえないふりを続けるには流石に無理があったみたいだ。
その一瞬の間を肯定ととったのか、私の腕を鼻息荒く掴んできた。背筋に寒気が走り、振りほどこうとしたけど、ぶくぶくと太った体を押し付けてきてそれは叶わなかった。
『離して、くれるかな……?』
『いいの? 抵抗したら言いふらすよ、あのこと』
『は?』
『あのさ、先週の放課後に先輩が銀八と、この教室に入って行くの偶然見ちゃってさ。教師と学校でヤるとか、先輩マジAVみたいじゃん。どうせ今更一人や二人かわんないでしょ?』
『、あれは、個人指導受けてただけで、そんなこと』
『あのさー、それ聞いて誰が信じんの?先輩、自分がどう見られてるかわかんないわけ?』
何でそんなこと言われなきゃいけない。
何でこんな目で見られなきゃいけないの。
今にも泣きそうになってる私を、更に机に思い切り押し付けて『先輩キスしてよ』なんて言ってくる男の上気した顔。額の脂汗。溶けた眉尻。その何もかもに、舐めまわされている気になった。いっそこのまま押しつぶしてくれ。その祈りは、何故だか先生に届いてしまったらしい。ダメじゃん先生、こんな女追いかけてきたら、学校辞めなきゃいけなくなるよ。
「もしそれホントなら、すっげえムカついてんのね、俺。お前が開けてくんないと、戻ってさっきのデブ殺しちゃうよ」
「なに言ってんの、ばかじゃない」
「本気で言ってんだけど」
「意味わかんない。なんで先生怒ってんの?……関係ないじゃん」
「あんまり馬鹿な事言ってんじゃねぇぞ」
ばかなのは先生だ。軽い女が好きなくせに、なんでそんなに優しくするの? まるでほんとの彼女みたいに接してくれるの?
気紛れな先生に、いつ捨てられても大丈夫なように振る舞ってきた私を、どうして捨ててくれないの?
どうして、
嫌いにならせてくれないの?
「お前は、俺の事が好きなんだろ」
先生が、確かにそう言った瞬間に、もたれかかっていたトイレの扉が、いきなり後ろに開いた。体制を崩しながら外へ倒れかかる私を、待っていたかというように二本の腕はすぐに捕まえた。
「やっと出てきたな」
「ちょっ、と! はなせ! ばか!」
「離しませーん。お前さ、ここの個室の鍵、壊れてたの知らねえの?」
不敵に笑った顔に、心臓が跳ねる。そのまま先生の顔が近づいてきて、俺はぎゅうっと目をつぶった。それは一瞬の事だったらしく、目をあけると先生の顔との距離は元通りになっていた。
「何で……」
私の口から思わずこぼれた、理由を問うそれに目を丸くして、それから眉を下げる先生は言いにくそうに口を開いた。
「……前から思ってたけど、お前ってもしかして、なんか色々勘違いしてない?」
「勘違い? どういうこと?」
「あーもう! お前って奴は!」
私を抱きしめる腕に力がこもった。息ができなくて苦しいともがくと、逃がさないと言うように更に強く抱きしめられる。
「この際言っとくけど、」
「はぁ」
「俺、遊びで生徒に手出すようなバカじゃねえから」
この意味、わかる?
先生の言葉に、思考が一旦止まってしまう。何を言ってるのかわからない筈なのに、目からはさっき止まった涙が信じられないくらい溢れ始めた。このままじゃ、化粧が。慌てて隠れようとすると、させないというように顔を先生の方に無理やり向かせられる。私の頬をつまむ指に黒い涙がついて、それでまた泣きそうになった。
「そんなの、言ってくれなきゃわかんない……!」
「あっそ、だったらこれからいくらでも言ってやるよ」
「なにそれ…… じゃあ今までの私ってなんだったの……」
「あとさ、個人的には魔改造前の芋臭ぇお前の方が好きなんだけど、それも言ったら戻してくれんの」
「それは…………検討します」