今までありがとうございました、と下げた頭がなんとまぁ軽いこと軽いこと。
仕えていたご主人様は私のつむじを見るのを2秒でやめてしまった。顔を上げたところで見えるのは、奥様の不愉快に満ちた目と、坊っちゃまのせせら笑いだけだから、お互い様だ。重い扉が開け放たれ、箱庭から外の世界への引導を渡される。両手に何も持たないまま、今にも駆け出したい気持ちを抑えながら屋敷の庭をゆっくりと進んでいく。四季折々の草木が計算された角度で生えている、この胸糞悪い秩序が早く終わればいいのに、頭の中で唱えながら、一歩。また、一歩。
▽▽▽
自分の居場所がすっかりと無くなってしまったのだが、不思議となにも思わない。
あんなに辛くて長くて、しまいには感情を動かす元気すら無くなったというのに、改めて思い出すことがひとつも無いのが、悲しくもあり、嬉しくもある。
住所不定、無職であるにも拘らず、身に纏うメイド服のせいだろうか、私と行き交う人が少し距離をとっていることに途中で気が付いた。
これしか、服が無かったのだから仕方ない。そう片付けられるのは、恐らく私だけだろう。
道行く人から見れば、この薄汚れたメイド服は、あの有名な成金財閥にお仕えしている印に他ならないのだから。
街中で私達が何と呼ばれていたか、知らないわけではなかった。この、臙脂色のスカートは市民の血で染められていると、桃色のエプロンは市民の肉の色だと。
しかし、あの世界はもう私とは関係無い。
人通りの少ない所へ、少ない所へと道を曲がっていくと、小さな橋に辿り着いた。人は誰もいない。ここで初めて私は、屋敷から逃げられたのだと思うことができた。嫌味なほど綺麗に洗われたエプロンを脱ぎ捨てて、橋から投げ捨てようと身を乗り出した。その時の私はどんなに醜い顔をしていただろう。誰にも見せたことのないその顔を、見上げる男がいて、私の時が止まる。振りかざした左手からは、あっという間に力が抜け、次いで、力無く宙をエプロンが舞った。それを掴んだ男が、橋の下で笑った。笑いながら、名前を尋ねてきた。私には答えられなかった。
「もう要らねえのか、これ」
しげしげと手の中のエプロンを眺める男の、身にまとう黒い服がそのあざとい肉の色を塗りつぶしてくれれば良いのに。なあ、と改めて見上げてきた男と目を合わせること無く、私はその場にしゃがみ込んで泣いた。
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「へえ、家政婦さんねえ……」
「なにかと便利だろ、いるのといないのとだったら」
「そりゃそうだけどさ、マズいんじゃないの?」
普段、土方が自分に言うようなことを今更言う気にもなれず、小さく目配せに留めていると、そこは長年の付き合い。わかっている、と小さくため息をつかれた。
近藤が思い描いている二三の問題点はもちろん、それを除いても多くのデメリットが土方の頭の中にあるといっても過言ではない。それなのに、どうして自分がここまで、先刻出会ったばかりの女に固執するのかを考えるには至らなかった。
元来、規律は誰よりも遵守し、過度に保守的な男である。それなのに、突然家政婦を雇いたいと見ず知らずの女を近藤の前に連れてきた。しかも、女が身にまとっているのは、あろうことか攘夷派に内通している疑いのある官僚の使用人服だった。
この異常な行動の原因を、近藤だけは見抜いていた。否、土方と女以外は見抜いていた。見抜いていたからこその、懸念である。もちろん言うまでもないが。
しかし、土方は押し黙ったままだ。説得するでもなし、諦めるでもなし、ただ黙っている。これでは収集がつかない。近藤は、腹を決めた。つとめて明るく、隣の部屋にいる女に聞こえるような大きな声を出した。
「とりあえず、一週間、置いて様子を見ようか」
「ああ、それがいい」
それだけ言って、土方は部屋を去った。全く、良い年してろくな恋愛をしていない奴ってのは怖いね。誰宛かよくわからない苦笑いを浮かべて、自分も続けて部屋を出た。
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私を拾ってくれた男は、土方という名前だった。
どこかで聞いたことのある名前だと名を告げられたときから思っていたが、よくよく思い出してみれば真選組の副長の名前と同じだった。そして私のエプロンを拾い上げた彼こそが、真選組の副長の土方だったのだ。そのことに気付いた時には、話はすでに終わっていて、私は真選組の屯所で使用人として働くことになっていた。それを淡々と告げてきたのも土方で、断ろうにも行く宛ての無い私は縦に首を振るしか無かったのだ。
「疲れただろう、休むか?」
「あ、いいえ。お構いなく」
彼と交わしたのは二三言で、視線が合ったのも出会ったとききりなのに、どうしてこうなってしまったのか。何も知らない女を働かせるほど、真選組は懐が大きいのだろうか、それともこの服装がそこまで信用たるものだったのか。いくら考えても、語られない以上知り得ない。当たり前のような沈黙が息苦しくて、すがるように土方を見た。土方もまた、何とも言えない顔で煙草をふかしていた。
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女は、申し分なく働いた。
朝は誰よりも早く起き、当番制だった掃除も全てそつなくこなし、男達が気付かなかった綻びを丁寧に繕った。それ故に、誰からも愛された。ある者は酒の席で彼女のすばらしさを熱弁し、初めは渋っていた者も、今となっては当たり前のように笑顔で挨拶を交わした。
試しの一週間が過ぎてからは、彼女はずっと寄り添うように一人で抱えるには大きすぎる屯所と四季を過ごした。
それでも、屯所の中の誰も、彼女の名前を知る者はいなかった。そのことを気に留める者も、少なかった。彼女は彼らにとって、最早屯所の一部であり、姉さんとは彼女のみに使われる代名詞だったからだ。
このことを除いても、元いた屋敷とは何もかもが決定的に違った。
いつだって笑い声は自分と遠くにあったし、主人の目をまっすぐに見たことすらなかったのに、ここではいつだって何人もの感情が自分のすぐそばで動く。彼女は幸せだった。何も考えられなくなってしまうほどに。その幸せが在る理由にも気づかないままに。
「アンタ、このままで良いんですかィ?」
「このまま、というのは、どの状態を指すのでしょう」
「むさ苦しい野郎共のために、掃除して洗濯して飯を炊く、今のアンタの状態でィ」
「これといった不満は無いですね」
何度か、同じことを沖田に聞かれた。 沖田は常は少年のようなのに、誰よりも大人びた目を偶にすることがあった。恐ろしくもあり、不思議でもあった。そういう時は私が濁った返事をして、沖田がふぅんと興味なさげに笑うのがお決まりだった。
しかし、ある時に気付いてしまう。
これは、確認であったのだと。私が不満を顔に浮かべればすぐに、成立してしまう縁談が幾度かあったらしいのだ。
「名も知らない女なのに」
「それでも、お前は俺達の仲間だからな」
自虐的に笑う私に、土方は淀みなく答える。どうして名前を聞かれないのか、考えもしなかったが、考えるまでもないことだった。私は必要とされても、名前はされていないからだ。私は、いればいい。掃除と洗濯と炊事をすればいいのだから。
この事は、彼らが町を護る事と同じなのだろうか。同じだといい。考えはここまで飛躍して、いつも前置きなく制止する。
ここは完璧な秩序も冷徹な家族も存在しないが、全く違う世界という訳ではないのだから。信じたくない事実に直面する度に、そこがどこであろうとぎゅうと両目を閉じた。いつの間にか身についた、無意識で自覚済みの癖だった。
▽▽▽
彼から前置きのない話をされたのは、二度目だった。一度目は、ここで働くことになった時である。そして今が二度目だ。
「お前が嫌だと言ったら、どんな手を使ってもやめさせる」
土方はまっすぐに私を見て、ピシャリとそう言い切った。状況が飲み込めない私は、とうとうここにもいられなくなってしまったのかと思い込み、黙ってしまった。
「頼む、言ってくれ」
「……嫌です」
「それは、縁談の方だよな?」
「縁談の方……?」
ここでやっと、土方が自分は急ぎすぎていたということに気がついた。
そのことに軽く舌打ちをしたあと、私に縁談がきていること。その縁談がいつもよりも、高貴な身分の方からなので断わりづらいこと。それでも、私が嫌だと言えば破談にしてもらえるとのことをつとめて丁寧に教えてくれた。
私の推測が、完全に外れでもなかったことに少なからず驚いた。そして、今までは彼が私の縁談を無断では断っていたというのにも、同じように驚いた。しかし後者は、どうして? の方が大きいかもしれない。ただの家政婦など、この色街に溢れているというのに。
黙って膝に目を落とす私を見て、これは答えあぐねていると判断したのだろう。土方は、そうか。と小さな声で言った。どうやら未だに冷静でないらしい。一年の半分は彼らと過ごしたおかげか、出会った時はわからなかった不器用な彼の沈黙がこんなに饒舌に聞こえるようになるとは思わなかった。
「どうして、ですか」
私が胸の中に大事にしまっていた、一番大切な質問だった。これを聞いてしまえば、全て終わってしまうかもしれない。そう思い、何度も触るのすら躊躇った。しかし、今がこの問いをする時だと、漠然と思った。どうしてたか。
「お前が必要だからだろ」
「それは、私の能力を評価してくださっているからですか?」
「……能力?」
「だとしたら、間違っています。この程度の仕事がこなせる使用人など、掃いて捨てるほど居るんですよ」
私も、土方さんも落ち着いていた。
しかし、この話次第で、今までの生活が続けられなくなることはお互いに勿論気付いていた。だからこそ、落ち着き払っていたのかもしれない。内心、傷付くのも傷付けるのも怖いくせに、何でもない振りをしてテーブルナイフを構えている。一言一言、舌の上で確かめながら、細心の注意をはらって言葉にする。
「だから何だ? 新しい家政婦雇って、お前には見合いに行かせろってことか?」
「違います。私は、ここまで貴方に守られるのに値しない女だと言っているんです」
「……窮屈か?」
「今まで生きてきた中で、一番幸せです」
眉間に寄っていた深いシワが緩んだ。ああ、この顔は見たことがあると、瞬時に悟った。初めて出会った時だ。橋の上と下で。彼はあの時もこんなに緩んだ顔で、私を見ていたのだ。
「初めて会った時」
「はい?」
「覚えてねぇのか」
「いいえ、よく覚えてます」
「そうか」
同じことを考えていたのだなと、少し嬉しくなった。既に彼はいつもの仏頂面に戻っていたが、何も気にならなかった。
「笑わねぇって、約束しろ」
「え、は、はい。笑いません」
少しの沈黙の後、重たい口を開いた土方の顔は、いつか宙を舞ったエプロンのような色をしていた。
「……俺はあの時な、お前のこと見て、天女がおりてきたと、本気で思ったんだよ」
尻すぼみになっていく言葉は、にわかに信じられなくて、もう一度聞き返そうとした瞬間に、逃げるように土方が重い腰を上げた。
「だから、もうどこにも行かなくて良いんだ、お前は」
逃げるように、それでいてはっきりと言い切られたその言葉に、そう言えばあのエプロンはどこに行ってしまったんだろうと、はっとした。ここで働き始めた日から、見ていない。もしかしたら、彼が隠しているのかもしれない。もう一度見たら、私が消えてしまうかもしれないから? 確かめようにも、彼の姿はもう無く、ただ漠然と、喪失感が胸の中にいつの間にか充満していた幸福感を食い尽くしたような感覚がした。
きっと私は、探してしまうんだろう。必死で、この端から端まで知り得たこの屋敷中を、血眼で探し回るのだろう。そして、それを見つけて、消えてしまうのだろう。どうか彼がそれを止めてくれたら良いのだけど。他人事のようにそう思い、呆然と立ち上がった。
彼もまた、幸せになりたいのだろう。
偽物の虚飾にまみれた屋敷の庭が、部屋のすぐ外に見えた気がして、目を固く閉じたまま一歩踏み出した。