この時期になると、決まって彼女達はペールトーンの羽を私たちに向ける。
まだ二年しか通っていない学校のサイクルをあたかも把握したような顔をしているのは、高校生活が三年きりだからか。それとも、去年も顔を顰めてしまったのを覚えているから? きっとどっちもだろう。いつだったか廊下で見たかもしれない卒業生達の顔が化粧で彩られ、キラキラと笑いながら校内を闊歩する姿が、どうしても好きになれない。
肩より少し伸びただけの、黒髪を指に巻き付けて窓からチラリと盗み見る。興味など有りませんという振りをしながらも、本当は気になって仕方ない。
私だけなんだろうか。
彼女達の痛んだ茶髪も揺れるピアスも全てが羨ましくて、ため息をついてしまうのが悔しくてしょうがないのは。
「どーした、さっきからぼけっとして、そんなに難しいのかこの問題」
「うん…… このままずっと独身だったら可哀想だなって憂いてたの」
「主語が無いんだけど、もしかしてそれ先生のことだったりする?」
窓ガラス越しに廊下のはしゃぎ声が漏れてくる。歳がいくつか違うだけなのに、彼女達の声はハッキリと高校生のものとは聞き分けられる。
私が何を気にしてるのかわかったんだろう。銀八先生は、ちょっと笑って「集中」と私の頭を小突いた。
その仕草が、余計に子供扱いされてるような気がして胸焼けがする。
「私も、あんな風になるのかな」
「なるんじゃねーの? 大学行ったら皆なっちまうんだよな、不思議なことに」
「……なにそれ」
「分かりたいか? 分かりたかったら勉強するんだな」
「先生、大人みたいな事いうんだね」
「大人ですから」
赤本のコピーをペンの先で突かれたが、今更集中なんてできるわけがない。いつの間にか静かになった廊下に漂う甘い匂いが、窓枠から入って来ないか気が気ではないのだから。
「私は子供だけどね、まだ」
「知ってるよ、言わなくても」
彼女達は、もうこの学校の生徒じゃない。
春までは同じ制服を身に纏っていたはずなのに、今となってはそれぞれの色に溢れている。何であんなに自由に笑うんだろう。
去年の夏、先生の隣で当たり前のように笑っていた彼女達の横顔を未だに忘れることができない。
「でも、大人になるよ」
「……それも知ってんの」
「大人になったら、先生と生徒じゃなくなる?」
「お前もしかして、ハタチになりゃ大人だとおもってんのか」
「……おっさんみたいなこというんだね、先生」
「おっさんだもん」
次に知ってると言ったのは私だった。ペンの後ろで机の上を二、三度ノックした先生は、少し考え込むような顔をしている。いつものくたびれた顔も良いけれど、先生の真面目な顔と人を食ったような顔に私は何よりも弱い。
きっと先生の頭の中では、私のわからない思い出と思惑がごちゃごちゃと混ぜられているんだろう。本当はそこにも両手を突っ込みたいけれど、今はただ、知らない回路が弾き出す私宛の言葉を静かに待つことにする。
「お前が卒業してからすぐ、ここに帰ってこなかったら考えてもいいな」
「……ここに来なかったら、どうやったら会えるっていうの」
「さあ」
腑に落ちていない私を置き去りに、時間だからと荷物を片付け始める白い手をジロリと睨む。
「私、馬鹿みたい」
「そう悲観すんな。宿題ちゃんとやって来いよ」
「…………絶対?」
「なにが」
「さっきの、来なかったらって奴」
「そうだな、絶対」
こんなに軽い”絶対”があってもいいの。言葉に出さなかったのは、冗談と畳まれてしまうのを恐れたから。私は震える指先で今にも壊れそうな約束をつまみ上げ、薄く開けた口に落とした。舌の上でじわりと溶けたそれは、少しだけ甘かった。
卒業式は名前だけの、ひどくあっけないものだった。
結局大学には推薦で入れたので、受験勉強もしていない。こんな簡単に大学に入れるのか、なんて浪人が決まった友達の隣で言う資格は無いけれど。
桜の木はまだ蕾すらつけておらず、申し訳程度に茂った青い葉も私達のことなんて知らん顔で揺れている。卒業証書の入った筒を三年間履いた上履きが雑に入れられた袋に気にせずつっこんで、私の3年間はこんなに軽かったのかなんて一生思わないような事を考えたりした。
機械的におめでとうおめでとうと言っている相変わらずの適当な先生が、送り出す傍から卒業生の名前を忘れていっている事を私は知っている。先生に見つからないように友達を捜していたのだが、それは叶わなかった。
あろうことか先生の隣でばか騒ぎしていた友達に、無理矢理先生の前に連れていかれた。小さく呟いた最悪、を聞こえないフリをした先生は、おめでとう、といつかみたいに頭を小突いてきた。
「……ありがとうございます」
「うわ、照れてるよコイツ。かわいー」
「ばっかじゃないの」
私の言葉に、友達がきゃあきゃあと笑う。そのおかげで先生の顔を見なくて済んだの。どうせすぐに私の名前も忘れてしまうその横顔に、生徒として触れることができなかったのは、きっとあの日の約束のせいだ。どうせなら最後に聞けば良かった。私の背中に、羽は生えているのだろうか。
「ねえ、まだ渋ってんの? 母校に行くだけじゃん」
「私早く帰らなきゃだから、急ごうよ〜」
2年と5ヶ月ぶりに会った友達は、何も変わってなかった。
すぐに会えるだろうと思っていたのだが、各々の予定が噛み合わず、いつのまにか2回も夏休みを過ごしてしまっていた。私の頭の中から、どんどんあの頃の鬱屈した泡のようなものは抜け落ちていった。代わりに入ったものは、何だろう。きっと知らなくてもいい、汚いものだろう。何回も染め直した髪の先を気にする時にふと、あの頃を思い出す。
しかし、今となっては高校時代の私が見ていたものがどうしても思い出せない。
「……私以外で行っておいでよ、待ってるからさ」
私の苦笑いの理由は、きっと誰にも伝わらない。そりゃそうだ、私にだってよく分かっていない。講義とサークルとバイトですり減らされた毎日は余りにも平坦で、さいごに鮮やかな色を見たのはいつだったか思い出せない。
結局、学校の入り口までという条件付きで私は再び高校に行くことになった。茹だるような暑さに文句を垂れ流しながら歩く道は何も変わっていないのに、なぜだか懐かしさを感じない。それにすら何とも思わないのは、皆が笑っているからだろうか。それとも、私も笑っているからだろうか。
「じゃあ、ここで待ってるからね」
私の言葉を最後まで聞かずに走り去った友達を見送りながら、校門の傍に生えた木の陰に入って手で顔を扇ぐ。そういえば、先生は居るのだろうか。別に、会いたい訳ではないけれど。なんて言い訳は誰に宛てたものだろう。まあ流石に、お盆前の学校が開いているのかも怪しいこの時期に出勤してくるほど真面目な教師だとは思えない。
ふらりと、私の足は学校に向かった。そこに意志はない、と私は思っている。
申し訳程度の化粧を溶かした汗が、首筋にひやりと流れた。
『考えてもいいな』『絶対』『お前が卒業して』
パンプスの先が進んでいく度に先生の言葉が消えては浮かぶ。いつだっただろう、先生と話した時に、私は。高校の壁沿いに歩いていると、窓が少し開いている教室があった。そこをひょいと覗いてみると、個別指導室なんていう懐かしい部屋だった。ああ、確かこの部屋だった。私の影が室内の机に黒々と映り、断片的な記憶をそのまま沈めた。
そうしているうちに、違う影が差し掛かった。
反射的に身を引いた私に相反して、部屋に入って来たのは記憶の中に有るままの白衣だった。
え、嘘。走り出そうとした足が竦む。もしかして、本当に? そんな都合のいい事がある訳ない。混乱に反して、足音は近づいてくる。
「誰? あれ、お前……」
「……お久しぶりです」
窓から顔を出したのは、何も変わらないぼさぼさの銀髪と不健康に白い肌。相変わらず生気のない目に視線を合わせる事はできない。曖昧に視線を外して苦笑いする私をみて、やっぱりなと先生は笑った。
「何がやっぱりなんですか、っていうか先生、私のこと覚えてないでしょ?」
「笑わせんじゃねーぞ。忘れてるのはお前なんだよ」
思い出せねえか?
試すように言葉は続いていく。窓を大きく開けた白い手がそのまま伸びて、私の頭を小突いた。その瞬間、スイッチを入れられたようにあの時の約束が頭に浮かんだ。
「覚えてたのは、俺だけだったろ?」
「あ……うそ……」
「来るなって言ったろ、馬鹿」
ここに来たらお前と俺は、生徒と先生のままなんだよ。
依然として笑っている先生の目の奥にあった感情を読み取るには、私はまだ幼すぎる。まだ子供でいたいのに、大人のまねごとしか出来ない中途半端な自分を、ずっと後ろから刺すような視線で高校のときの私が見ている気がした。
そうだ、あの時は確か、羨ましいと。あんな風になりたいと。
ぼろり、不純な涙が淡い色のスカートに落ちた。約束を破った私に、差し出される手はもうない。
今ならわかる、いつのまにか居なくなっていた先生が私に向けた空っぽの笑顔が、軽すぎる羽ではどこにも行けないと教えてくれていた事に。