片耳しか聞こえないイヤホンをつけたまま電車で揺られていると、もう何も考えられなくなる。
その事に気付いた時には既に遅く、アップテンポなアイドルの歌と、車輪の回転するごうんごうんという音が、耳と耳の真ん中でうねりを作り上げていた。
音は消して心地良くは無い。頭と足を思い切り別々の金具で引っ張られているような感覚に、立っている足が竦んだ。
次の駅まで辿り着くのが、まるで気が遠くなる程長く感じた。いざ開けられた扉から出ても揺れない床に安心するわけでもなく、ただホームの自販機の前で放心しているだけだった。
片方が潰れたイヤホンを、早めに処分しなくてはいけない。その決心は階段を一段下るごとに、どうでもいい日常に霞んだ。
*
「……どっちか一つがダメになったら、全部ダメになるよねぇ」
「それは、お前のテストの話か。それとも、お前の頭の話か?」
「どっちも関係無いでーす」
「関係ないことは、補修中に言わないでくださーい」
そんなこと言われても、他の生徒だって喋ってるじゃん。半目で先生を睨んでから、後ろのさざ波のような談話に耳だけ傾ける。一緒に遊んでいたのに、テストは難無く合格した友人達に取り残された私は、仲良くもないクラスメイトとつるむ訳もなく、先生の近くにポツンと座っていた。そのせいで独り言まで取り締まられるなんて、不平等だ。
先生の手元には、他のクラスの答案用紙が重ねられていて、赤ペンの先だけが跳ねたり囲ったり書き込んだりと慌ただしく動き、それ以外は淡々と作業が進められている。
夏休みは目前だというのに、めぼしい予定は塾の夏期講習ぐらいしかない。学校にくる口実も、この補修の合格を最後に無くなってしまう。私が生徒で、彼が先生である以上、学校のない期間に理由もなく会うことはできない。しかし、理由があればいくらでも会えるという逆転の発想によって私が編み出した作戦は、期末テストの得意教科で思い切りこけるということだったのだ。
所詮、教師にとっての私たちは、サラリーマンでいう担当先の会社と同じ。私達をうまく転がすことが、彼らの成績に繋がる。
それならば、転がされてやろう。
もしかしたら坂田先生が好きかもしれないと私が気づいた時には、結論はすでに出ていた。
「そういえば、土方がそろそろ先生のタバコ取り締まるって言ってたから気をつけてね」
「まぁ、タバコじゃねぇからね、これ」
「どっちにしろダメなんじゃない?」
「マジかよ……。つーか良いのか?」
「何が」
「彼氏の情報売ってんじゃん、お前」
途切れ途切れに続いていた会話を、後ろの方で話していた集団が遮断した。先生を囲んで、がやがやとさっきよりも大きな声で騒ぐ生徒たちの一様に答えの揃った答案を一瞥してから、先生の発した全員合格の声で再び集団が沸いた。
「後お前一人だけど、いつ解き終わんの」
「まだかかる」
「はいよ」
「早く終わって欲しいなら急ぐけど」
「教室閉める時間に終わってたら、文句無ぇよ」
こういうところが好きなんだよねぇ。ちょっと嬉しくなりながら、分厚い辞書のページを繰る。簡単にリセットされた土方の話も、二人では広すぎる教室も何だか可笑しかった。
*
下校時刻に鳴り響くトロイメライに追い出された私は、先生が廊下の先に消えるのをぼんやりと眺めて、満足と共に自分の教室に足を運んだ。細長い扉のはめ込み窓から覗き込むと、いつもとは違う場所に見慣れた人影があった。足音が止んだのに気付いたからか、顔を上げた鋭い目二つにあっけなく見つかってしまう。
「お待たせしました」
「かかりすぎだ、バーカ」
「ずっと待ってたの?」
「お前が待てっつったんだろ」
「そうだったね」
先に帰っても良かったのに、は言わない事にする。土方の手元を見ると、想像通り、もう夏休みの課題に着手していたから少し笑ってしまった。
下校時間を意識して少し急ぎながら片付けを始める彼の頭をくしゃりと撫でると、簡単にその手は止まってしまう。いつもは隠している優しさと少しの熱を秘めた目で私を見上げる土方は何も言わない。
きっと、私達二人きりだからだろう。
それなのに何もかもがさっきまでいた教室と違う。
そうだ、これでいい。
髪を撫でていた手を、するりと頬に這わす。引きはがされる事はしない。この続きを期待している土方が、長い長い瞬きをした。
「はーい、不純異性交遊は家に帰ってからやってくださーい」
ガラリと扉が開くと同時に、弾かれたように土方が離れた。
声の主は期待通りの無気力な低音で、その口には何もくわえられていなかった。恐らく教室の鍵を閉める前に、下駄箱の戸締まりをしたんだろうな。あまり先生の顔を見ないように扉に近づく。先生は鍵を閉める為なのか、扉の前から動こうとしない。背後で、慌ただしく鞄に教材を突っ込む音が聞こえる。
「二人で一緒に居ただけで、不純なんですか?」
「時と場合によっては」
視線が交わらないままの会話に含めた意味を、互いにどれくらい掬えているのだろう。わからないまま、土方に右手が攫われて教室から大股で連れ出された。おかげで先生に二度目のさよならは言えなかった。
*
終業式終わりのホームルームで、坂田先生に呼び出された。
呼び出された先は国語科の準備室で、扉を開けた瞬間に溜まっていたコーヒーと古い本の淀んだ匂いが一気に溢れて目眩がした。
「こないだの答案、返すわ」
「座ってていい?」
「いいよ」
先生がプリントの山をひっくり返している間に、終業式の最中から頭に流れているCMソングを鼻歌で歌いながら伸びかけの髪の先をいじる。この部屋は先生といるのは好きじゃない。どうしてだろう。壁にびっしりとしきつめられたファイルや本に見られている気分になるから、かもしれない。
「先生、タバコやめちゃった?」
「んなわけねーだろ。タバコじゃなくて、飴な飴。ほれ」
「あ、ほんとに合格だ」
「お前の手には乗ってやんねえよ」
その言葉に、ハッと顔を上げると笑っている先生が私を見ていた。あんなに間違いだらけの答案出されたらバレるだろうな、そうじゃなきゃ困るし。私の隣の席に座って、さっき私が歌っていた鼻歌の続きを口ずさんでいる横顔が近いのに手を伸ばせないぐらい遠い。
「あ、そうだ先生。私古典苦手だから教えてよ」
「担当のセンセイに頼め。俺、現国だし」
「1年の漢文受け持ってるじゃん」
「あれは代打なの」
「取り締まられる前に教えてあげたし」
「生徒に何言われても今更こわくねーんだよ」
「先生は教え子がこのまま成績落ち続けて、大学行けなくなってもいいんだ」
この台詞を使うという事は、私がこの遠い遠い距離を保つ気だという事だとわかっているのだろうか。いや、わかっているんだろう。先生は片眉をわざとらしく上げてから、ため息を吐いて了承してくれた。空っぽだった夏休みのスケジュールが埋められていくのに喜んでいると、先生が私の頭を撫でた。優しい手の平に思わず目を細めると、逃げるようにその手はすぐに離されてしまった。
「大体教師って生き物はね、慕ってくれる生徒はカワイイもんだ」
「私も可愛がってくれる先生って好きよ」
こないだは言えなかったさよならを言ってから、立ち上がり部屋から出る。廊下のゴミ箱に、ポケットの底でじいっとしていたイヤホンを投げ捨てる。片方がダメなら、どっちもダメにしちゃえばいいんだ。
わざとらしく紡がれた言葉の裏にいる、いつかの放課後の私に気付いてしまった。きっと先生は、私と土方のちぐはぐな距離を見透かしていたんだろう。
敵わないな、やっぱり。
合格と雑に書かれたプリントを代わりにポケットの底に突っ込む。
そういえばさっきの二人きりは、時も場合も不純ではなかったんだろうか。
ぺたぺたと上靴が足音を刻む廊下が、心なしか小さく軋んでいる気がした。