事の発端は、神楽ちゃんの一言だった。
分厚いメガネは鼻の頭からずり落ち、パッチリと開いた瞳がその上からわたしを捉えていて、レンズがその役割を果たしていなかった。私はそのことばかり気になっていて、話している途中に嘘のような白い指が眼鏡のツルを押し上げる度、よく分からないため息を漏らした。 廊下の行き当たりの掃除用具入れは、私に背を預けたまま、微かに口を開けて沈黙している。
「ねぇ、知ってるアルか? 夢に好きな人が出て来たら、向こうが自分のこと好いてるらしいヨ」
「……昔はそう言われてたみたいだけどね」
「信じない?」
「わからない」
だって、夢だもん。
私の言葉に眉間の皺がきゅうと寄ってしまう。さっきまでは無意識にでも動かしていた不揃いで短い毛が覚束なく生えた箒が完全に止まってしまった。細く青い枝がてらりとひかる。それを見て、私も手を止める。掃除時間中だからと早足の先生が開け放った窓が、新鮮な空気と知らない笑い声を乗せてぬるく吹き込んでくる。
「確かに嘘くさい話ネ。でも、もし私が好きに夢を歩き回れたら、会いに行くアル」
「……沖田くんに?」
「なっ!! なんでアイツが出てくるアルか!! 違うネ!!」
神楽ちゃんの言葉が廊下に浮いて、がやがやと掃除用具を片付けにくる人達の波に溶けた。ちりとりを仕舞おうとしていた友達から受け取って、微かな塵を集める。神楽ちゃんは顔を真っ赤にしながらも、私が塵を集め終わるのを待っている。
「誰が会いに来るか、せいぜい楽しみにしてるヨロシ」
「神楽ちゃんもね」
チャイムと共に、私達はそれぞれの席につく。洗ったばかりで少し濡れた手で頬杖をついて、次の授業の先生が来るのを待つ。
それにしても、どうして神楽ちゃんはこんなことを私に言ったんだろう。女の子同士でする話なんて、私達から遠いものだと思っていた。欠伸をひとつして、窓の外を見る。先生の起立、礼を適当にこなしてすぐ、私は溶けるように睡眠に溺れて行った。
「オイ、起きろ」
ああ、またこの夢か。
目を覚ますと、やっぱり小学校の教室だった。この夢を見るのは何度目だろう。もう高校生も終わろうとしているのに、夢の中で私はまだ小学生にもどる。
「……はいはい、起きたよ」
「じゃあ、帰るぞ」
差し出された手は小さいのか大きいのかわからない。小さい時に握ったことのある手なのか、それとも今視界の端に映るだけの手なのかも。
それでも私は、この手を取る。これは夢だから。そう自分に言い聞かせながら、立ち上がり彼の隣に並ぶ。
「このまま帰るの?」
「どっか寄りてぇんだったら、付き合うけど」
「トシくんは、」
ここまで言って、ああそういえばこんな風に呼んでいたかもしれないと思い当たる。感触の無い手をぎゅうと握る。リアルな音はひとつもしない。
「私に、会いに来てくれたの?」
どうしてこんなことを聞いたのかはわからない。彼は何も答えない。私が答えて欲しいことも、何も。それが自分のエゴを浮かび出させている気がして、無性に気持ちが悪かった。
結局、終業のチャイムで目が覚めた私は、やっぱりあの夢を見てしまったことへの恥ずかしさと、よく覚えていないけれど嫌な夢だったような気がして、しばらく机に伏せたままいた。
次の授業は確か移動だった。のろのろと起き上がって、面倒なのでカバンごと持ち上げる。友達は……と教室をさっと見ると、どこからか視線を感じた。思わず、視線をかち合わせてしまって、すぐ後悔することになった。
ここは、夢では無いのだから。
案の定、すぐに逸らされた視線を気にしないように、廊下に飛び出した。
「あーあ、女子1人に何もたついてんですかィ情けない」
「相変わらずちっちゃい男アル」
「うるせぇ。テメェらには関係ねぇだろーが」
「何言ってんですか、土方さん。関係無い訳ねぇでしょ。こんな面白いこと知っちまって、何もしないなんて男が廃りまさァ!」
「しょうがないから協力してあげるネ。さっさと酢コンブ三箱献上するヨロシ」
どうしようもなく面倒なことになった。一番ばれたくない二人に、自分の視線がばれてしまったにも関わらず、他人事のようにそう思う。移動教室だからと、ペンケースと教材をかき集めている間にも目の前で仲良くぎゃあぎゃあと言い争いは続いている。
面白くもなんともない、よくある話だと我ながら思う。何で今にもなって、気になってしまうのか。早く切り捨ててしまえば良いものの、なんて、簡単にできるのならとっくにしている。
いつの間にか追ってしまう目を、アイツが気付いて無ければ良いのに。
お前と話せるのは、夢の中だけでいい。
夕日に沈む教室に懐かしさを覚え、夢を見ていることに気付いた。いつからだったか、忘れた所でそれを許さないように見てしまう夢。出て来るのは俺と、アイツの二人きり。俺はあの教室から、夕日から逃げる術を知らない。
差し出した手を取られなかったことが無いからか、重さの無い手を未練がましく握ってしまう。
「トシくんは、」
「え?」
「私に、会いに来てくれたの?」
どう答えれば良いのかわからずに、思わず口を噤んでしまう。
確かに俺は、ここでお前に会うことを望んではいるかもしれない。でも本当は夢の外でだって、こんな風に歩きたいと思っているなんてどうやって伝えればいい?
「何言ってんだ。お前が会いに来てるんだろ?」
いつの間にか取り返しのつかないほど開いた距離を戻す方法を、俺がまだ考えているなんて、きっとお前は知らない。
偽物の夕日の中ですら、本当の気持ちを伝えられない俺を笑ってくれ。
「ちょっと用事があるんで、教室で待ってて下せェ」
「用事? 沖田くんが私に?」
「あ、もし先に帰ったら、今後色々と不利な状況に陥ったとしても、責任はとりやせんぜ」
何やら怖い言葉を吐いた沖田くんに約束を取り付けられたのはいいものの、一向に用事が見えてこない。そもそも、あの人と仲の良いというだけで、距離を取りがちな存在であるのに。
ひとり、またひとりと教室からは人がいなくなり、とうに帰ってしまった友達の席で宿題をのろのろと片付けていたが、段々と眠たくなっていく。
今日はもう随分寝たのに……。気持ちとは裏腹に、私の頭は簡単に夢の中に沈んでいった。
「……オイ、起きろ」
何回、この声に起こされれば良いんだろう。抵抗するように、寝返りを打って気付かない振りをする。もしかしたら、私は何かを変えたかったんだろうか。いつまでも、思い出の中にいるのは嫌だったのかもしれない。
こんな事をしても、何の意味もないことは分かっているけれど。
これは私の見ている夢だから。
私と土方くんは、同じ教室にいることが嘘みたいに違う呼吸をしている。
「夢みたいにはいかねぇか」
この声は初めてだ。記憶の中で私と交わす幼さの残ったものではない。教室の底で静かに響く、今の彼の声。
相変わらず動けずにいる私の頭に、知らない掌が優しく触れた。感触が、やけに現実味を帯びている。いつもは握れない手の重さが、私の心臓を面白いほど揺さぶる。
「……やっぱり、会いに来てくれたんじゃない」
言いながら顔を上げると、目の前に立っていたのは中途半端に右手を泳がせたまま硬直している土方くんだった。
私は、まだ夢を見ているんだろう。
「そんなの、お互い様だろ」
改めて差し出された右手を握りしめる。初めて見た大きな手を確かめながら、知らない夢の続きを探すために私達は現実で温度を交換しあう。