私の先生は、万事屋さんの常連だった。
少しでも困ったこと(例えば、洗剤を洗濯機に全部いれてしまったとか、書架の本棚が雪崩れたとか)があれば、すぐに私の名前をしわしわの大声で呼んで戸棚の奥に大量に溢れた飴玉を三つ寄越して、万事屋さんによろしく、と言うのだった。
多ければ毎日のように万事屋さんの看板を見る事もあった。磨りガラスの扉を三回叩くと、私よりも頭ひとつ分くらい背の高い神楽ちゃんが、にこにこ笑って出迎えてくれるのがとても好きだった。またお前かぁ、なんて言いながらジャンプを読んでいる銀さんに飴玉を差し出すと、渋々こっちを見てくれるのもお決まりになっている。優しい新八くんは、こっそり飴のお礼と言って美味しいお菓子をくれる。ここは、あったかい。定春の長くて白い毛に顔をうずめて、時々後ろに乗せてもらうのもたまらなくドキドキした。その時の私の顔を見る先生も、やっぱり嬉しそうだった。


私の背が伸びて、いつの間にか新八くんと同じくらいになった夏に先生は死んだ。いつものように、万事屋さんによろしくと私を見送ったのが、最期だった。三人と一匹を引き連れて帰ったら、古びた玄関に小さな老人が頭から血を流して転がっていた。銀さん達の慌てた顔を見て初めて、これが先生なのだと気付いた。涙は出なかった。
葬式の準備は全部万事屋さんの下に住んでいるお登勢さんがしてくれた。私の頭を撫でてくれた皺の多い手が、一瞬、先生の物かと思ったけどもちろん違う。葬式の参列者は、この町の顔なじみと私だけだった。先生の家族は、ひとりもこなかった。全員が沈黙に沈んでいたけれど、どんな気持ちだったのかまではわからなかった。先生が死んでから初めて、私は先生の名前を知った。

「それでお前は、これからどうすんだ」
「これから?」
「爺さんが死んだんだ。ここにはもう居れねえだろ」

私は父の顔も母の顔も知らず、気付けば先生の手伝いをしていた。先生はとても物知りで、近所の人達にも先生と呼ばれていた。昔々に教師をしていたと、何処かで聞いたような気がする。自分の生まれは知らないが、先生の読みたい本が書架のどこにあるのか全て知っている。今まではそれで十分だった。しかし、先生がいなくなった今、私に残ったのは先生のいってらっしゃいだけだったのだ。
そんなことを、片付けやら何やらが終わってガランとしてしまった部屋で考えていた。銀さんは、相変わらず面倒くさそうに戸棚の奥に潜んでいた飴をがりごりと噛みながら私の返答を待っている。

「お前、何で自分が爺さんと二人暮らしなのか知ってるのか?」
「知らない」
「何で、ウチにしょっちゅう来ていたのかは」
「先生が、行けって言うから」

やっぱりな、銀さんが呆れ顔でため息を吐いた。その理由は何となく分かる気がする。私は、住む場所も手段も生活も何もかもいっぺんに失ったのに、なんとも思っていないのだ。だから、呆れてるんだろう。わかっているけれど、今までそんなことを考える必要がなかったから考え方がわからない。どうにもならないなら、どうにもならないんだろう。先生が倒れていた時の姿を思い返す。踏んだらすぐに音が鳴る腐った木の色をした床から土間に落ちるように、うつ伏せになっていた。何であんなに小さかったんだろう。何で、どうも思わないんだろう。

「ひとつ聞いていいか」
「なに?」
「もしお前は、爺さんが俺を殺せって言ってたら殺したか?」

そういえば、銀さんと二人で話すのは初めてだとおもった。ダラリと土間に広がった血の黒い色。いつも先生が舐めてた飴の色と同じ。ああ、夏だなぁ。今はもう乾いて見えなくなったけど。

「うん」


ALICE+