ススキの色が落ち、川縁に俯いて並んでいる。その間に座り込んで、泳ぐには随分冷たくなった水の中に両の足を漂わせる。
透明すぎる水面に映るのは、まるで死人のように白く浮かび上がる不健康な足が二本と赤すぎる夕焼け。
川の向こう岸で風に身を震わせた鈴虫が鳴いた。私もこのまま足の先から冷たくなって、最後に一度だけ鳴いて小さいものになればいいのに。
どこかで、私の名前を呼ぶ声がする。
*
「ダメじゃねぇか。ちゃんと寝とかないと、治るものも治らんだろ」
「近藤さん、コイツにいくら言ったってダメでさァ」
「そんなことないぞ、なぁ?」
早く元気になろうな、と私の頭をかき混ぜるように撫でた手の重さに首が勝手に頷いた。それを見て嬉しそうに笑う近藤さんと、嫌そうな顔をする沖田さんの顔を交互に見る。鼻も口も首も私と同じ場所についてるのに、どうしてこんなに色が違うのだろう。
私が弱いからだろうか。近藤さんの家に匿われて一度も震えたことのない声帯が、一層重く沈黙した。
「じゃあ、用事が終わったらまた顔見にくるから、それまでゆっくり寝とけ」
私の顔を一瞥して、さっさと廊下を進んで行った沖田さんを追いかけるように近藤さんも立ち上がる。この人の全ては私への好意などではなく、己の正義感に従順なだけなのだと寂しさを感じた自分を戒めて、もう行ってしまった背中に浅くうなづいた。
*
「へぇ、歌は歌えるんですねィ。なんて歌でしたっけ、それ」
いつの間にか障子の裏に座っていたらしい沖田さんの声が、蝋燭の明かりの下で読み進めていた本を閉じさせた。
無意識だったけれど鼻歌を歌っていたらしい。曖昧に笑う私に、挑発的な笑みを浮かべながら、あくまで当然のように部屋に入ってきた。その突然の動きに思わずびくりと肩を震わせてしまう。
「なぁ、」
彼の呼びかけに答えられるのは目だけだと、知っているからこそ目線を合わせるようにしゃがみこんでくる。今までにないくらいに沖田さんの冷めきった顔が近くにあり、どういう顔をしていいのか分からない。いつもみたいな笑みも、どこかにいってしまった。
表情が無い私の代わりに、沖田さんが笑っている。
「本当は、喋れるんじゃねえんですかィ?」
「道場の前で倒れてたのも、喋れねぇふりも近藤さんにつけいるためとかでしょ?」
「まったく、こんなに忙しい時に素性の知れねえ女を看病するなんて馬鹿な人でさァ」
「何とか言ってくだせェよ」
剣を振るう指が、私の顎をぐいと持ち上げた。彼には、私の震えも怯えも余す所無く伝わっている。それなのに、いつもと変わらない笑顔を浮かべているのが恐ろしい。
しかし、どう伝えれば良いんだろう。私の声帯は、精神的な苦痛を味わったせいで震えるのをやめたのだ。よく覚えてないけれど、私のお気に入りの浴衣は知らない血で真っ黒になってしまったらしい。
教えてくれないのは聞かれないからか、それとも知らないからか。
優しい近藤さんは好きだけど、全てが正しいとは思えないのは抜け落ちた記憶のせいだと思う。
どちらにせよ、無力な私には目で訴えかける事しか出来ない。
「……その目がみたかったんでィ」
縋るような、弱者の目。尊厳を傷つけられた目。裏切られた事に対する悲しみに満ちた目。どれのことかはわからないけれど、手が解かれたのでもう彼の目を見なくてもいい。
「ま、もう少ししたらアンタともお別れだし、最後にちゃんとその面拝んどきたかったんでさァ」
お別れ? 初めて聞いた単語に、眉をひそめる。それに気がついたのか、知らねえんですかィ。とわざとらしく声を上げた。
「武州から出て大江戸に行って、近藤さんを筆頭に警察になるんですって
俺達。だから、最後」
ほら、だから近藤さんって嫌い。
言う事だけ言ってまたもやすぐに消えた沖田さんの言葉を思い返している内に、うつむいていたせいか涙がぼろりと落ちた。足しか覆っていなかった布団を肩まで引き上げて、そのまま潜り込んで目をつぶる。
もしかしたら全てが夢で、次に起きたら生まれ育った家の天井の染みが見えるかもしれない。安易な期待をする気にもなれず、ただ思い出してしまうのは近藤さんの太陽のような笑顔ばかりで、それが余計に苦しかった。
*
都会には河原もなけりゃ、道場もない。至極当たり前の話だが。
早く報告しにこいと通信機越しに怒鳴ってきた忌々しい土方の元へ向かっている途中に、ふとそんなことを思った。それなのに、どうして俺はこんな所にいるんだろう。理由、なんてあまり考えてこなかった。自分の中で当然の事と処理されれば、それきり。
無理矢理植えられた偽物みたいな庭の木の間をかいくぐって土方の部屋を目指していると、その一歩手前で近藤さんと鉢会った。
それまでは早足で歩いていたのだが、俺がいつの間にか歌っていた鼻歌に、 総悟が鼻歌なんて珍しいなんて近藤さんから話しかけてきたもんだから、これはいい口実ができたと当たり前のように足を止めた。
「近藤さんは、何読んでるんですかィ」
「ん? 手紙だよ、お前の姉ちゃんから」
なるほど別に珍しい事でもない。どうせいつものせんべいに同封されていたんだろう。しかし、たった今自分も故郷のことを考えていたせいか、些細なことで懐かしい故郷の景色を思い出し易くなっていたようだ。頭によぎったのはずっと前に忘れたと思っていた、あの喋れない女のことだった。
「そういえば、あの女どうなったんですっけ。確か姉上が面倒見るとかなんとか」
「うん、元気でやってるそうだ。相変わらず口はきけんらしいが、良く笑うようになったと書いてある」
「へえ、それはそれは」
どんな顔だったけな。声は、聞いた事が無いから覚えている訳は無い。縁側に座っている近藤さんの横に座って手紙を覗き込む。そこには確かに見慣れた姉上の字で、女の様子が数行にわたって綴られていた。
「こっちに来る直前でしたよね、あの女拾ったの」
記憶を辿りながら、断片的に話す俺の言葉に適当に相づちを打ってはいるものの、目は手紙を必死に読んでいる。邪魔しちゃ悪いと思って立ち上がった瞬間に、総悟、と名前を呼ばれた。きっと嫌な話をするんだろう。こういうときの直感は、良く当たる。
「お前、初めて人斬ったのいつだ」
「さぁ、覚えてませんね」
「俺の話していいか?」
「……どーぞ」
「うんと昔の話だ。俺らがまだ武州にいて、幕府から声かけられたぐらいの昔。その時俺はいつもみたいに畑の間をぶらついてたんだが、一件の家の中から叫び声が聞こえた。どうしたんだと思わず家の中覗いたら、なんも無えんだよその家。家具も、着物も何にも無い。今思い返すと、抵当に入れてたんだろうな。不審におもってると、げっそりと頬のこけた親父が、俺の目の前で悲鳴上げてた妻を刺し殺しちまった。今まで剣術なんてもんを習ってきたが、あんなのを実際に見ちまうとダメだな。お前にも分かると思うが。剣、なんて綺麗なモンじゃねえ、ただの人殺しの道具だった。わかってたはずなのに、ショックだったなぁ。特にあの時は、上京前で色々考えてたから余計に。そんで、気付いたら親父から剣奪い取って、そのままバッサリやっちまったんだよ。それが最初」
「……初めて聞きやした」
「うん、初めて言った」
「その、もしかしてですけど、その時”拾った”んですかィ?」
「アイツは自分の親父斬り殺した俺から逃げて、道場の前でぶっ倒れたんだ。そんでそん時の記憶は全部無いらしい」
近藤さんがいつのまにか折り畳んでいた手紙の白さに、震える女の喉を思い出した。二人で黙って遠くの空を眺める。いつだったか、いつもの部屋からいなくなって近藤さんと探しにいったことがあった。その時も、こんな不気味な程に綺麗な夕日だった気がする。
「そういえば、さっき総悟が歌ってた曲ってなんて名前だっけ。どっかで聞いたことあるはずなんだがなぁ」
いつだったか、自分もした問いに答えることができない。これはあの女が歌ってた曲だ、きっと。
あの恐怖に満ちた目をあの時、食べてしまえば良かった。
そうしたら、俺が、俺ひとりだけが悪者でいられたのに。