雨雲の隙間に星の覗く、とびきり綺麗な夜だった。

「こんな時間に生徒が出歩くなんて、どうかしてます」

静かな声がブレザーの裾を、軽く揺らした。けれど、そんなことはもう随分と今更で、合理的な先生らしくないトンチンカンな発言に思わず結んでいた唇がゆるむ。

「こんな時間まで、生徒を追い回す先生の方がどうかしてる」

後ろに立つ先生の顔を見なくて済んでよかった。雫のたくさんついたビニール傘で歩道橋をトントンと叩く。ライトを撒き散らしながら勢い良く走り抜けるスポーツカーを黒目で追いながら、そういえば今は何時なんだろうと首を傾げた。こんな時間、なんていうから、きっと日付は越えてんだろう。
ただの箱として寝静まる学校とある程度、離れてもなお、私達が律儀に先生と生徒のままなのも、おかしい。淡く残る雨の匂いに顔をしかめる。信号は赤のまま点滅を繰り返している。危険なのかそうじゃないのか、よくわからない。
先生のため息が、真横から聞こえる。見上げると相変わらず表情の無い横顔が、汚い街を見下ろしていた。

「残念ながら、貴女が何と言い訳をしようと、私がこのまま見過ごすことはありえませんから」

例え、その選択があなたのためになるとしても。付け足されたのは余計な一言。はいはい、そんなこと知ってるっての。先生の疲れ切ったため息が吐き出され、指でネクタイをゆるめる動作を見守る。隙の無い人だと思っていたけど、違うのかも知れない。少しだけ、嬉しくなる。とうに終電を見送った静かな線路を見下ろしながら、先生、と意味もなく呼びかける。返事は、無い。

「佐々木先生」
「聞こえてますよ、何ですか」
「星が、」
「は?」
「星が綺麗なんです、すごく」

親が離婚した訳でも、友達と喧嘩した訳でもない。大きな事件も起こらない、正しい木曜日、だったはずだ。塾からの帰り道、ふと見上げた空は、星が無数にまたたいていた。いつのまにか視力が落ちた目に力を入れるのをやめて、授業用のメガネをかけて再び見上げてみれば、もう行き先は決まっていた。
お気に入りの歩道橋に私以外の人が通っているのなんて、見たことがなかった。こんなに星に近付けるのに。私のことが見えていないまばらに行き交う車を見下ろして、飽きたら空を見上げて。何度目か忘れたけれど、ちょうど星を見上げている時だった。こんな時間に、何してるんです?という冷たい先生の声が、私の首根っこを掴んだのは。

「生徒の考えは元からよくわかりませんが、あなたは特に理解し難い」
「喜んでいいの?」
「……勝手になさい」

いつの間にか先生の目線は携帯に移っていて、先生の手元から漏れる人工の光に思わず目を細めてしまった。段々と現実に引き戻される感覚から逃れるように、二、三度頭を振る。お母さん、心配してくれてるかな。どうせいつものことだって、呆れてるだろうけど。手持ち無沙汰に、傘を歩道橋の手すりに沿わせて歩いてみる。

「さあ、あそこに車を止めてあります。さっさとここから降りますよ。送ってあげますから」
「私を送ったら、今日の先生の仕事は終わり?」
「そうなるように願っています」




黒く光る大きな車の後部座席に難なく乗せられたまま、ふかふかのシートに身を預けて目をつむる。ああ、眠ってしまいそう。うつらうつらとしたまま、窓の外に目線を向けると眠たそうな私のだらしない顔と、その向こうに無人の通学路が映っていた。
ああ、あんなに綺麗な星だったのに。一晩中だって見ていたかった。じわり、涙が右目に滲んだ。さっきから一言も喋らない先生には、きっと気付かれない。

「どうして、私を見つけられたの」
「……あんな目立つところにいて、どうして見つからないと思うんです?」

通学路から何本も外れた裏通りにある、忘れられたような歩道橋。目立つ、なんて嘘。
きっと先生も、星を見に来たんだ。あり得ない結論に、おかしくなって少しだけ笑いが溢れる。
思ったよりも立ちっぱなしで疲労の溜まっていた両足を投げ出して、尚も身の無い話を続ける。聞けば答えてくれるから、先生は優しい。

「私の家、知ってるんだ」
「ええ、じゃなきゃ送るなんて言いません」
「……私は先生の家、知らないのに」
「当たり前でしょう」

もう5歳、いや、10歳上だったら、私は助手席に座れたのかもしれない。きっと今でも先生は駄目だなんて言わないだろうけど。誰もいない助手席をぼんやり眺めながら、次はそんなことを考える。まだ着かないんだろうか。いつもは自転車通学だから、そんなに遠くもないんだけど。辺りは見たこともないけれど、どこかで見たようなアパートや一軒家が立ち並んでいる。

「……あそこにいる時は、家に帰りたくない時なのか、それとも星が見たい時なのか、どっちなんです?」

バックミラー越しに目があって、ドキッと心臓が跳ねる。瞬間、気付いてしまった。
先生は私があの歩道橋に行くことを、前から知っていたんだ。伝えたいことを、なんでもないように、薄く薄く水に溶いてしか言えない弱虫なな口は「さあ、」ととぼけた。効果があるのかは知らないけど。

「先生に、会いたいなって考えてる時?」
「笑えない冗談はよしてください。好きじゃないんで」
「意地悪」
「お互い様でしょう」

眠ったらどうですか、少しおかしそうに先生は促した。

「もう、目を閉じかけてるじゃないですか。家に着くまで、少しでも寝ておいたらいかがですか」

先生の言葉に従うように、まぶたが重くなっていく。まだ先生と話していたいのに。どこを走っているのか、もう全然わからない車のシートべルトに頭を預けた私を、更に深い眠りに誘うように、先生は私の名前を呼んだ。ハンドルが、唐突に右に切られる。

「見過ごさないって、言ったでしょう?」


0913 加筆修正






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