返却されたプリントに、整然と並ぶ丸とバツ。明らかに多いのは後者で、わかっていたものの肩を落とす。名前の下に書かれている追試の時間をスケジュール帳にうつしながら、先生の手から直に受け取らなくて良かったと心底思った。

「先生のお気に入りは大変ですねィ」
「……それ嫌味?」
「あれ、嬉しく無いんです?」
「嬉しいも何も、どっから見たらそうなるのよ」

隣の席の沖田に、思わずじとっとした目線をよこしてしまった。何食わぬ顔で小テストを見ているのを覗いてみると、私よりもバツの数が多い。それなのに、書いてあるはずの追試の日程が無い。

「俗に言う、特別指導ってヤツですかィ」
「はあ?」

沖田の笑顔にしかめっ面を返しながらも、心の中では動揺が次々と大きく膨らんでいく。他の人も確かめてみようか?
でも、絶対に有り得ないけど、もしも名前の下に日付が記されたのが私一人だったら。
先生の仏頂面を頭に描いて急いで消した。
いや、佐々木先生に限って、有り得ない。
いつかの会議室の窓辺から眺めた紫陽花が、記憶の中でしとしと、雨に濡れる。

『明日の放課後、17:30〜』

達筆な走り書きを改めて確認していると、頭上で予鈴が鳴り響く。気付けば教室に生徒はいない。そういえば次は移動教室だったと、鞄ごと抱えて教室を飛び出した。



基本的に公平で生徒達にも丁寧に接し、優しいけど何を考えているのかわからない、という先生の評判に異を唱えることは無い。むしろ、その通りだと思っている。
けれど、どうしてだか私に対してだけ、先生はたまに氷のように冷たい言葉を投げかける。突き放すような言葉を、態度を、視線を。先生から感じたことは、誰も無いという。

「ようやく来ましたか」
「……時間通りのはずですけど」
「おや、そうでした?」

わざとらしく投げかけられた疑問符を見ないように、狭い会議室の二脚しか無い内の片方にさっと腰をおろした。
どうしてだか先生に呼ばれるのは、数学科準備室でも空き教室でも無く、本来面接にしか使われるはずのない会議室で、今となっては場所をわざわざ記されなくても当たり前のようにこの部屋で落ち合うようになった。
姿勢良く椅子に座っている先生の目線から逃がれようの無いことはよく理解した上で、持ってきた鞄から教材とペンケースをおずおずと取り出す。
二人の間に会話は無く、ただ気まずい沈黙が幕のようにおりているだけだ。

「どうも最近、時間の経過が遅く感じてしまって。歳でしょうか」
「先生でもそんなことってあるんですね」

先生の瞼が少しだけ持ち上がった。それを見て、思わず言ってしまった一言に後悔する。

「貴女を待っている時は、特に」

それは、
私が時間にルーズだと言いたいんだろうか。それとも、何か別の意味で?
危うくそのまま投げかける所だった質問は、唐突な「始めましょうか」にかき消された。

補習中に気を抜くことは許されない。
集中が途切れそうになると、公式を尋ねられたり応用問題を提示されたりと、目敏く隙間を埋められてしまう。フル稼働している頭では、他に考えることはできない。できるわけがない。
それはある意味好都合であり、いつまでも噛みきれない不快感を胸に抱える原因でもあった。
口には出さないけれど、本当は気付いている。この補習が特別なものであると。
しかし、どう特別なのか、私は判断しきれないでいる。好かれているとも、嫌われているとも確信できたことは無い。
沖田の口にした『先生のお気に入り』という言葉が頭に響く。これは生徒としての甘えだろうか。だとしたら、私はいつまで甘えることが許されているんだろう?

「そういえば以前、数学が苦手でも得意でも無いと言っていましたね」

教科書を閉じながら、先生はぼそりと呟いた。指導する時の正確な声とはまるで違う、足首を掴んでくるような低い声。
一瞬の内に頭に溢れた思考をそのままに、思わず引き寄せられるように顔を見てしまう。いつも教室の端から眺めている横顔とは違う、両目が私を突き刺して動けなくする。

「あまりにも傲慢な表現だ」

そう、この目だ。私しか知らないと自惚れてしまいそうになる温度の無い黒。これを特別、と呼ぶんでもいいのだろうか。逃げるように窓に視線を向ける。生い茂る緑の隙間に、帰路につくスカートが揺れていた。

「確かに貴女の成績は、悲観するほど悪くも、楽観するほど良くもない。それを踏まえると貴女の発言は正しいと言っていい」

先生は骨張った大きな手で教科書をぱたんと閉じた。それだけで無理に伸ばした背筋が跳ね上がりそうなほど驚いてしまう。大して考えもせず先生の問いに答えた自分が悪かったと反省しながらも、些細な会話でしかなかったはずの自分の発言を今まで先生が覚えていたということを信じられない。泳ぎに泳ぐ自分の目線を見つめている細い目の端が少しだけ和らいだ。

「正解ではありますが、満点ではない。そんなところでしょうか。まぁ、貴女なら良しとするでしょうが、私が許すと思わないでくださいね」
「だったら、どう答えたら良いんですか?」

こんなに慎重に質問したことが、今まであっただろうか。生徒という教えられる立場に甘んじて、いつだって私は軽薄に応じていた。スカートをシワになるくらいぎゅうと握りしめる。薄く薄く重ねて誤魔化していた、私の裏側が今、隠せない所まで見えてしまっている気がしてならない。手のひらから滲んだ恥ずかしさを確かめるように思わず落とした目線は、冷たい手を顎にかけられ無理やり持ち上げられた。そして、色のない厚い唇が私の問いに答えるために開かれた。

「好きです」
「…………え、」

これ以上無いほどしっかりと目が合った状態で、先生の放った一言に思わず釘付けになる。今、先生、何て言った? 返事をするべき日本語を見つけられない私を、相変わらず仏頂面で眺めていたかと思うと、突然その顔は授業用の微笑みに変わる。

「と、言えばいいんですよ」
「あ……、あぁ、そうだったんですね」

一拍遅れてしまったしどろもどろな返事に乗じて、ついでに持ち上げられていた顎も解放された。先生は自分の質問に答えただけなのに、なにを思い上がっているんだろう。特別だとか、あるはず無いのに。膨らみ切った心臓は急速にしぼんでいき、ますます先生の顔を見られなくなってしまった。

「……少々おいたが過ぎましたか」


そう言って笑った先生の顔は、自然に緩んでいた。卑怯だ、こんな顔を見せるなんて。責めることも下手に誤摩化すことも出来ない。ただ狭い部屋に私と先生がいて、それ以上のことなんて必要ない気がした。今日も補習は終わったのだ。つつがなく、いつも通りに。私が立ち上がれば、そうなるだろう。それなのにどうしてだか、私の両足は最終下校時刻を告げる鐘の音が聞こえないふりをする。

「では最後にひとつ、質問しましょう」

いつかと同じように、唐突に質問が切り出される。そのことを知っていたかのように、私は「はい」と返事をする。胸にいっぱいになったはずの恥ずかしさは嘘のように消えていた。

「貴女はこの補習を、どう捉えていますか?」

満点をもらえる答えは、ひとつきりだった。
詰まりながら答えた私の頭を、よくできましたと撫でてくれた先生の手は、大きくて温かかった。先生と私の口にしたそれぞれの「好き」が、沈みかけの夕焼けに消えることなく、いつまでも耳の底に張り付いて消えなかった。



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理衣さま「佐々木異三郎」
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みかんさま「学パロ」


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