新しい色を吸った絵筆を、水に溶かす。じんわりと水が波紋を描きながら薄い薄い青色に染まるのをただ空っぽな頭で眺めていた。まるで頭と体が別々にあるような感覚。幸村君がいなくなってから、美術室を使うのは私1人になってしまった。またすぐ戻ってくるから、と儚げに笑った彼に何と返せば良いか分からなくてうつむいた私も、こんな風に白いままの画用紙にひたすらに青を重ねていた。青はあまりにも薄くて、まるで水を塗っているようだった。重ねれば重ねる程に、紙がふにゃふにゃになっていく。水を吸いすぎると使い物にならなくなる。汚いそのふやけた紙を乾燥棚に眠らせるのだ。まるで封印するように、ひっそりと。静かな美術室に向かう、一つの足音が私を無理矢理現実に引きずりおろした。突然ともされた蛍光灯と、開け放たれた扉に目が釘付けになる。それは訪問者も同じだったらしく、口をあの形にしたまま一瞬硬直したまま、私達は暫し、時を共有した。

「すまない、暗かったから人がいると思わなかった」
「…大丈夫」

短い会話が歯痒く、なかなか次へ進まない。お互いに口下手なのは良く分かっているから何てことは無い筈だが、きっと二人で会話することの違和感を二人とも感じているのだと思う。恐る恐る、といったように上靴を部屋に滑り込ませる彼は、私が知っている真田君と全く一緒で安心した。彼は厳格そうな見た目に反して、穏やかな普通の男子なのだということを私は良く知っていた。それは、彼の態度によるものと、それから幸村君の口からよく語られる、彼の名前からでもあった。

「…久しぶりだな」
「そうだね」
「実は、その…幸村にな、お前の様子を見てきて欲しいと頼まれた」
「何でまた」
「お前がまた画用紙をダメにしてないか、心配なんだそうだ」
「…幸村君らしいなあ」

そのことで良く叱られたなあと、思わず笑みが漏れた。つられて真田君も、笑う。私達は教室の喧騒の中にいるときとは別人のように互いを認識していた。教室で彼と言葉を交わすことも、目で追うことすら無い。私達は別の生き物だと、どこかでよく分かっていたからかもしれない。だから、彼の久しぶりという言葉に酷く共感した。私達は、久しぶりなのだ。こういう風に言葉を交わし、視線を合わせて笑うときはいつも、幸村君がいた。

「もうすぐ退院できるそうだ」
「そうなんだ、良かったね」
「ああ」

ありきたりな言葉しかかけられない自分に引け目を感じながら、何となく汚れたパレットを洗おうと席を立った。もうダメになった画用紙は片付けたし、下校の本令も近い筈だ。それを見て慌てたように真田君が口を開き、少しだけ大きな声で私の名前をよんだ。

「あの、だな。その、また、来ても良いか?」
「なんでそんな事聞くの? 多分幸村君、また絵をかきにくるからその時に」
「そうではないのだ、あの…」

お前に会いに来ては駄目だろうか。
真田君らしくない、遠回しな言い方だった。それを脳が認識すると同時に、パレットがからんとてから滑り落ちた。下校する生徒達の笑い声が、蛇口から溢れる水の音にまぎれて聞こえる。それよりも大きな、心臓の音。手を止めて、ゆっくりと後ろで立ち尽くしている真田君を振り返る。

「断る理由が、ないよ」
「……良いのか?」
「私も、真田君に逢いたかったし」

そんな風に口が紡ぐのを、達観する私。これは、誰の言葉?薄く薄く塗り重ねていたのは、これだったの?嬉しそうに、噛み締めるようにありがとうと笑う彼の拳が震えているのを無感動に眺めながら、柔らかく微笑んで見せた。その向こう側に、幸村君の思惑が見えてしまった。きっともう私が画用紙を駄目にすることは無いだろうなとぼんやりと思いながら、筆洗いに溜まっていた水を勢い良く捨てた。



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