出会いがあれば別れがある。
学校なんてこの世のセオリーに従順なことこの上ない。たった3年間という、人生の何分の一か分からない程短い季節を私達はその小さな小さな箱庭で過ごすのだ。そんなことを、私は最近とても強く感じてしまう。ドリンクを作っている手をふととめ、無人の部室をぐるりと見回す。隙間のないその空間の壁からは外からの大きな笑い声やかけ声、ボールがラケットに当たる音が薄くしみ出していた。何故だろう。こんないつものことなのに、終わる、と強く感じてしまう。終わらなければ始まらない。それはわかっている、けど。私達が全力で走った夏の終わりがすぐそこまで来ている。大きな先輩達の背中がなんだか小さく見えてきたなんて、切原に言ったらなんて言うだろう。よいしょ、手に力を入れてタオルを持ち上げる。塞がった手でドアノブを回そうと四苦八苦していると、扉が静かに外側からあけられた。そこから漏れたのは眩い日光とそれから、それよりも眩い銀髪だった。
「すいませ、ん」
「タオルで隠れて顔が見えなんだが、お前さんか」
「はい」
「どれ、半分貸してみ。」
「いや、良いですよ。先輩も部室に用事があったんでしょうし」
「ああ、いや、大したことじゃなか。ほら」
半ば強引にひったくられたタオルの山は、半分というにはとても多すぎて、開けた視界に申し訳なさが募った。こうやって先輩と二人で歩くことなんかあまりない。だからだろうか、何故だか少しだけ緊張していつもより口がよくまわる。
「先輩、あれ考えてくれました?」
「あれ……あー……」
「……まだ、ですか」
「もうお前が考えてくれたらええのに」
「いやっそれはできませんよ!」
「知っとる」
「……後は仁王先輩だけなんですよ」
「まじか」
「まじっす」
あれ、とは。
引退する先輩方が1人ずつ部室に何かを寄贈するというものだ。考えたのは、3年のマネージャーの先輩で、部長はあの口煩い副部長をすんなり丸め込んで、ただのアイディアが実行に移されたのだ。残せるのは3年生のレギュラーだけで、私達2年生はそれを預かっておく係。きっと部長引き継ぎの時に披露されるんだろうと思う。副部長の書道、部長のプランターを始め、どの先輩もいろんな意味で期待を裏切らないものばかりで、それらが集められる度に他の子達となんだかほっとしたような、嬉しいような気持ちになって笑ったものだった。後1人で全員分揃うというのに、だ。やっぱりというか、案の定、仁王先輩だけが引退3日前の今日になっても決まってもいないようだった。
「一応あれこれ考えてはおるんじゃ……」
「え、そうなんですか」
「意外だったか」
「いやだって、先輩全然そんな風には」
「ここだけの話じゃが、俺はこれに気乗りしとらん。けど、皆がやるんじゃけ、俺だけせんっちゅうのはおかしいからの」
「あー……だろうと思いました。」
「なんていうか、ここに残したくないんじゃ、自分を」
「……え」
「だって、来年には俺らを知らん後輩とかがそれを見るじゃろう。それがな、どうしても」
真剣な声色につられて思わず、顔を覗き見てしまった。私の視線に気づいてすぐ、まっすぐな瞳は緩められ、なんてな。なんてごまかされてしまった。何かを言いたいのに、上手く言えそうにない。それを分かってるかのように、なんも言わんでええよ。なんて笑う先輩に、更にどうしていいのかわからなくなった。いつも見ている仁王先輩は明るくて真剣でふざけてて、つかみ所の全然ない印象ばかりだったから。まるで二人居るかのような、どちらが表かわからないようなその態度に、思えばまっすぐ向き合ったことはなかった。のらりくらりとかわされる視線を、追っているようで私は何も、見ていなかったのかもしれない。隣を歩く正直者の先輩は、一体表なんだろうか、裏なんだろうか。
「真田は書道で、柳生は詩じゃろう。幸村は、花か?」
「え、」
「ブン太はどうせ菓子にしようとして止められたとか」
「何で知ってんですか……」
「お、当たりか。全くあいつらも期待を裏切らんのう」
「先輩の、私達楽しみにしてるんですよ」
「プレッシャーかけんな」
「いや、だって先輩だけは何かわかんなくて」
「ほーう、わからんか」
「……嬉しそうですね」
「まあ、楽しみにしときんしゃい」
ベンチにタオルを降ろしながら、悪戯を仕掛けたときのようないつもの先輩の口ぶりに何故だか泣きそうになってしまった。するりと練習にもどる先輩の背中にお礼を言うと、振り向かずに手だけで返される。その動作のひとつひとつが先輩らしくて、そんな慣れきった小さな光景ですら失われるのが怖かった。きっと私達は部室に飾られるであろうそれらを見る度に、あの夏を、別れを思い出して、胸が締め付けられるのだろう。駆け足でコートに向かいながら先輩達のいないそこを見たくないとまで思ってしまった。しかし、きっと3日後の私は享受してしまう。来るべき別れを、先輩達のいないコートを。私達はそんなに強くはないけれど、無数の別れに耐えられない程脆くもないから。
「……結局、先輩だけ出してくれなかったね」
私、楽しみにしてたのになあ。友達の残念そうな声に三日前を思い出した。切原が部長になり、泣いたり笑ったりのお披露目会ももう終盤に差し掛かっていた。仁王先輩のあの目立つ頭は何故かどこにもいなくて、それに誰も気づいていないようだった。隣で笑う友達も、いつも通り騒がしい先輩達も。
「ねえ、先輩いなくない?」
「え、あ……ほんとだ」
「どこいっちゃったんだろ」
こっそりときょろきょろと二人で辺りを見回してみる。沢山の部員達の中にも、その姿はなくて、ようやく気づいた先輩達も仁王先輩の名前を呼びながら、辺りを見回し始め、副部長の怒声が宛もなく飛んだりした。もう、終わってしまうのに。校舎の上にかかった時計を仰ぎ見た時に、目立つ銀色が目にちらついた。屋上にいるその豆粒みたいに小さい仁王先輩と、目が合った気がした。先輩は多分、笑ってる。
「あそこに、仁王先輩が」
一斉に全員の視線が屋上に注がれ、何人かの感嘆詞が漏れた。それらを交わすようにいつも通りひらひらと手を振っている。相変わらずの自由人だと、皆が少しだけ笑ったのが分かった。その時、私達の目の前に、ふわふわと無数の泡が降ってきた。見上げずとも、次から次へと降ってくるシャボン玉が仁王先輩からの寄贈品だと誰もが分かったんだろう。幸村部長の、仁王らしいね。という言葉に、誰もが破顔した。それに引っ込んでいた涙が溢れそうになって、上を向いてしまった。にじむ青空に、無数のシャボン玉。先輩、十分残っちゃいましたよ。思わず手を差し伸べてしまった透明な泡は、それに呼応するように手の中で一瞬で弾けた。
(look into my twilight eyes.)