マンホールの裏の海原に沈んでしまいたい、と道端で立ち尽くしてしまった私の背中を、そっと撫でてくれた人の名前を、私は知らない。優しい手のひらは感触だけを残して、私から遠ざかった。だから、振り向きはしない。たとえまた、次に止まるのが、マンホールの上じゃなくて汚い溝の横だったとしても、私は大丈夫。名前の知らない大きな手が、きっとまた、引き止めてくれるから。
「また本を読んでるの?」
「見れば分かるだろ。つまらん質問をするな、気が散る」
図書室には、それこそ一生かかっても読めないくらい沢山の本がある。それをいちいち確認するのが、トト先生は好きなんだという。知らないことが無いことを知るために、本を読むんだ。だから、先生にとって読書は確認でしかない。先生の頭の中は、きっと私には想像も出来ないくらい広くて深いんだろう。限界が無いって素敵だ、とんでもなく。ページをめくる度に、手首の重たそうな装身具(というのだと前に教えてもらった)がきらりと光る。
「先生って、宇宙みたいね」
「お前の比喩は、いつも極端だな」
「極端って好きよ、私。嬉しいな」
「皮肉も通じないのか、哀れな奴だ」
見渡す限り本の背表紙が並んでいる壁は、何度見ても目がおかしくなりそうになる。先生の背中から本を覗き込むと、窓から差し込む光を遮ってしまうせいで、細かい文字列の上に陰が落ちた。しっしっ、と片手で払われたので、おとなしく従って本の匂いの染み付いたカーテンに包まった。外は晴れているみたい。小鳥の囀りが聞こえる。
「今は朝? それとも昼?」
「俺は時計じゃない」
「知ってる、先生はね、宇宙と神様」
「宇宙と並べるな、嘘くさくなる」
先生の声はいつだって不機嫌だ。
機嫌が良いのは、私が先生に泣かされる時だけ。でも、嘘泣きは必ずバレてしまって、余計に不機嫌になるから注意だ。といっても、不機嫌な先生も好きだから問題無い。びゅうう、と少し開けた窓の隙間に風が入り込むと、どこかで風鈴のような音がした。何もかもが気まぐれな図書館の外は、今はどの季節なんだろう。冬じゃなかったらいいな。冬は早く夜がきてしまうから。
「空が陰るよ。夜がくるの?」
「そんなに早く帰りたいのか?」
ぱたん、本が閉じられた。もう読み終わったんだろう。分厚い本を棚に片付けるために、先生は椅子から立ち上がった。窓辺に腰掛けている私の頭を今まで読んでいた本でごつんと叩いてから、新しい本を探しはじめた。
「今ので、また何か忘れた気がする」
「忘れたなら、覚えなおせばいいだろう」
「大切なことだったらどうしよう?」
「大切なことなら忘れるな」
そう言いながら窓の外を眺めた先生が、ポツリと「もう夕暮れだ」と呟いた。同じように窓の外を見ると、空は紫色から黒になろうとしていた。この色、私好きだなあ。硝子におでこをくっつけていると、先生が肩を持って引き剥がした。
「どうしてお前が、夜にここにいられないか教えてやろうか」
「うん、知りたい」
「……お前が、宇宙という永遠だからだ」
いつの間にか先生の顔が鼻がくっつくくらい近くにあって、白い歯がちらちらと見え隠れするのに合わせて胸がドキドキとうるさくなる。
「だから、元の世界に戻っても探そうとするな」
「それは無理だよ。だって私、ここから出たらトト先生のこと忘れちゃうもん」
先生は何か言おうと口を開けた瞬間、ゴーンゴーンと外の塔のてっぺんにある鐘が鳴りはじめた。ああ、もう帰る時間だ。夢から覚めて、先生のいない現実に。
「じゃあ、またねトト先生」
部屋の隅にうずくまっていると、いつか壁が私を飲み込んでマンションの一部になれたりしないかな。考え事をしていたせいで、お母さんが部屋の前に用意してくれていたお盆と水をひっくり返してしまった。慌てて拾おうとしゃがんだけれど、コップから溢れた水は廊下に広がってしまって、どうすることもできない。試しに顔を床にぐっと近付けて、舌でちょっとだけ触ってみた。水はキラキラと光っていて、まるで海の底から見上げる水面みたいだった。
もっと顔を近付けたら、潜れるかなぁ。
考えるのを遮るように、お母さんが階段の下で私の名前を呼んだ。弾かれるように返事をしたときに、頭を誰かに撫でられた気がした。私はこの優しい手のひらを知っている。いつかこの手が私の腕を引いて、永遠に連れて行ってくれるのを願いながら、私は階段を元気に駆け下りた。
「また本を読んでるの?」
「見れば分かるだろ。つまらん質問をするな、気が散る」
図書室には、それこそ一生かかっても読めないくらい沢山の本がある。それをいちいち確認するのが、トト先生は好きなんだという。知らないことが無いことを知るために、本を読むんだ。だから、先生にとって読書は確認でしかない。先生の頭の中は、きっと私には想像も出来ないくらい広くて深いんだろう。限界が無いって素敵だ、とんでもなく。ページをめくる度に、手首の重たそうな装身具(というのだと前に教えてもらった)がきらりと光る。
「先生って、宇宙みたいね」
「お前の比喩は、いつも極端だな」
「極端って好きよ、私。嬉しいな」
「皮肉も通じないのか、哀れな奴だ」
見渡す限り本の背表紙が並んでいる壁は、何度見ても目がおかしくなりそうになる。先生の背中から本を覗き込むと、窓から差し込む光を遮ってしまうせいで、細かい文字列の上に陰が落ちた。しっしっ、と片手で払われたので、おとなしく従って本の匂いの染み付いたカーテンに包まった。外は晴れているみたい。小鳥の囀りが聞こえる。
「今は朝? それとも昼?」
「俺は時計じゃない」
「知ってる、先生はね、宇宙と神様」
「宇宙と並べるな、嘘くさくなる」
先生の声はいつだって不機嫌だ。
機嫌が良いのは、私が先生に泣かされる時だけ。でも、嘘泣きは必ずバレてしまって、余計に不機嫌になるから注意だ。といっても、不機嫌な先生も好きだから問題無い。びゅうう、と少し開けた窓の隙間に風が入り込むと、どこかで風鈴のような音がした。何もかもが気まぐれな図書館の外は、今はどの季節なんだろう。冬じゃなかったらいいな。冬は早く夜がきてしまうから。
「空が陰るよ。夜がくるの?」
「そんなに早く帰りたいのか?」
ぱたん、本が閉じられた。もう読み終わったんだろう。分厚い本を棚に片付けるために、先生は椅子から立ち上がった。窓辺に腰掛けている私の頭を今まで読んでいた本でごつんと叩いてから、新しい本を探しはじめた。
「今ので、また何か忘れた気がする」
「忘れたなら、覚えなおせばいいだろう」
「大切なことだったらどうしよう?」
「大切なことなら忘れるな」
そう言いながら窓の外を眺めた先生が、ポツリと「もう夕暮れだ」と呟いた。同じように窓の外を見ると、空は紫色から黒になろうとしていた。この色、私好きだなあ。硝子におでこをくっつけていると、先生が肩を持って引き剥がした。
「どうしてお前が、夜にここにいられないか教えてやろうか」
「うん、知りたい」
「……お前が、宇宙という永遠だからだ」
いつの間にか先生の顔が鼻がくっつくくらい近くにあって、白い歯がちらちらと見え隠れするのに合わせて胸がドキドキとうるさくなる。
「だから、元の世界に戻っても探そうとするな」
「それは無理だよ。だって私、ここから出たらトト先生のこと忘れちゃうもん」
先生は何か言おうと口を開けた瞬間、ゴーンゴーンと外の塔のてっぺんにある鐘が鳴りはじめた。ああ、もう帰る時間だ。夢から覚めて、先生のいない現実に。
「じゃあ、またねトト先生」
部屋の隅にうずくまっていると、いつか壁が私を飲み込んでマンションの一部になれたりしないかな。考え事をしていたせいで、お母さんが部屋の前に用意してくれていたお盆と水をひっくり返してしまった。慌てて拾おうとしゃがんだけれど、コップから溢れた水は廊下に広がってしまって、どうすることもできない。試しに顔を床にぐっと近付けて、舌でちょっとだけ触ってみた。水はキラキラと光っていて、まるで海の底から見上げる水面みたいだった。
もっと顔を近付けたら、潜れるかなぁ。
考えるのを遮るように、お母さんが階段の下で私の名前を呼んだ。弾かれるように返事をしたときに、頭を誰かに撫でられた気がした。私はこの優しい手のひらを知っている。いつかこの手が私の腕を引いて、永遠に連れて行ってくれるのを願いながら、私は階段を元気に駆け下りた。