いつの間にか学校に置かれている自販機から、あったかいが消えていた。反射的に顔を思い切りしかめる。季節は確かに春だけど、早朝と夕方はまだ冷える。完全に冬を捨て切れてないのだ。それなのに、口を尖らせたまま、渋々つめたいと書かれた欄にあるコーヒーを選ぶ。シナモンコーヒーなんて変わり種、早々にリストラされると思っていたけど、季節は変わっても健在ということは人気なんだろう。がこん、音と共に落ちてきた缶を拾い上げ、プルタブを開ける。まだ始業まではうんと暇があって、こんな時間に学校に来てるのはいつもは部活に励んでる真面目な体育会系だけだっていうのに。行事特有の見えない熱気に溢れた校内に居続けるのも、どこに行っても聞きたくない名前が聞こえてしまう校舎でじっとするのは苦痛だ。つまんないなぁ、缶に口をつけて余りの冷たさに身震いする。
「飲み歩きは禁止ちゃうかった? 見つかったら怒られるで」
「アンタこそ、送別会サボったら跡部に怒られるよ」
「ええの。跡部より自分とおりたいし」
嘘ばっかり。
当たり前のように肩を並べて来た忍足に見向きもせず、渡り廊下を相変わらずの速度で進む。生ぬるい風がびゅう、と私の前髪を乱して逃げた。中庭には藤棚が咲いていて、普通の高校らしいところもあるんだなぁなんて毒にも薬にもならないことを思った。
「ずいぶん早いやん、」
「遅いとあからさまじゃん」
「いつものことやろ、逆に不自然やって」
「忍足にしか会ってないから大丈夫」
あほやな、と忍足が笑った。言いながら私も思ってたから、苦笑いしといた。職員室に先生の影はまばらで、案の定、担任の席も空っぽだった。
王様の送別会の特別枠から抜け出して私なんかに絡むなんて、まったく意味がわからない。忍足は、私とのんびりと校内散策でもすることにしたんだろうか。教室の前を通る度に確認する時計の針はなかなか進んでくれない。時々、忍足と話したり黙ったりしながら、豪華な校舎の中をまるで何かを探しているよう歩き回る。強くなっていく日差しに目を刺されるのに愛想が尽きて、持っていた缶に口をつけたのは屋上に繋がる階段の中腹。「待って」忍足の優しい制止が、閉じ込められている空気に溶ける。
「一口くれへん、それ飲んだこと無いねん」
「ものすごく冷たいよ」
「ちょうどええわ」
「……あついの?」
「まあ」
歯切れの悪い返事。何となく続きが聞きたくなくて、結局ゴールになってしまった屋上へ一歩踏み出す。ヘリコプターが着陸する時の目印にするための白線にそって歩いてみる。てっきり着いてきてると思っていた忍足は、まだ扉の前に立っていた。無駄に背が高いせいか、ぽかんとした顔で突っ立っているのが予想以上にまぬけに見えて、笑ってしまった。白く澄み渡った空に、お決まりのチャイムが鳴り響いたけど、私達は動かなかった。生徒達の喧騒や足音や歓声がうんと遠い出来事に感じる。
「前にね、ここで寝てたら」
話し始めたのは私だった。白線を隔てたまま、忍足が頷いた。
「上から跡部が降ってきたの。嘘じゃないよ、ほんとの話」
「……ありえへん話では無いからな、あいつの場合」
「その時、好きになったって言ったら笑う?」
「笑わへんよ」
「笑われると思ったのに」
笑ってくれると思ったのに。
楽しかった思い出も跡部に向けた気持ちも全部、跡部と一緒に遠くへ飛んでいけばいいのに。跡部はもうここからいなくなるんだから。何でもないことのように、「向こうに帰る」と告げた跡部の横顔を思い出してしまった。跡部にとっては、その程度のことなんだろうけど。考えたくないことを考えたせいで、目の奥がじわりと熱を持った。
「自分が今どんな顔しとるか知らんやろ」
「知りたくない」
「俺だって、見たないねんけど」
「……ごめん」
「そうやなくて、」
言いにくそうに言葉を切る。忍足の顔だって見れたもんじゃない。気付いてないんだろう、でも目をそらすことはできなかった。
「行ってやりぃや。跡部やって一番大事なお前がおらん見送りなんか、耐えられへん」
「……そんなこと、思ってないくせに」
吐き捨てるように言う私の言葉に、忍足の目が泳いだ。わかりやすすぎる肯定に、心臓を掴まれる。自分で言ったくせに、思わず一歩下がった私を追うように、忍足が手を伸ばした。掴まれた腕に握っていた缶は、軽い音を立てて屋上に転がった。少しだけ残っていコーヒーが灰色の屋上に黒い染みを作った。
「なんでもかんでも使うて自分を傷つけるのやめぇや」
「離して」
「いやっていうたら」
「無理矢理逃げて、跡部にさよならって言いにいく」
「……嘘つけ、アホ」
唐突に忍足に抱きしめられる。忍足のブレザーに額を押し付けて、泣いた。どこにも行かんといて。縋るような忍足の言葉には何も返せない。頷いてしまえば皆、楽になれる。知っているけれど私には、選べない。
誰も幸せになれない朝が、永遠に終わらなければいい。式の始まりを告げる大きな拍手が私達の足元を、風に乗ったまま静かに通り過ぎた。