私の頭には、一曲の歌が住んでいる。
歌といってもいいのかも定かでない、意味のなさない文字を鼻歌に乗せたような曖昧なメロディー。どこで聞いたか、誰に聞いたか。何ひとつ覚えていないにもかかわらず、その歌は私の中にあった。音程がひとつ、歌詞が一節消えかけそうになる度に、溺れかけた子供のように必死でしがみついてくる。それなのに、この不思議な歌について、深く考えたことは今までに一度も無かった。
「その歌、好きなの」
テレビに顔を向け、小さい背中を私に向けたまま、しげるは私にぶっきらぼうに訊ねた。
「え、私、歌ってた?」
畳み終えた洗濯物の山を抱えながら、軽く聞き返す。こちらを向くのが面倒なのか、首が微かに頷き肯定を示した。テレビの中では相変わらず主婦向けの通販番組が繰り返されていて、それを眺める横顔に相変わらず感情はない。
「うーん、昔からクセみたいに歌っちゃうんだけど、よく知らないの。何の歌なんだろ」
「知らないのに歌うんだ」
「なんか、落ち着くんだよね」
近所に住んでいる南郷さんに頼まれて、しげるを預かることになってから、もう3ヶ月も経つ。それなのに、一向に私としげるの距離は近所の大人と子供のまま。こんなに会話をしたのは、もしかしたら初めてかもしれない。
「夕飯、何にしよっか?」
カラカラと音を立てて網戸ごと窓を開けると焼けるような夕日とともに、祭囃子と喧騒が差し込んできた。
「祭」
「そう、アパートに張り紙があったの、見なかった?」
「知らない」
言いながら、しげるはようやく私の顔を見た。三角座りをしたまま見上げる目は、祭への興味を示している、気がする。
「しげる、祭好きなの?」
「さあ、行ったことない」
「じゃあ行ってみて、そこでご飯食べようか。屋台もたくさん出てるだろうから」
無言で立ち上がったしげるは、滑るように玄関へ向かう。唐突に子供らしい一面を見せられたせいで、まだ窓辺に立ったままだった私の名前を靴を履き終えたしげるが小さな声で呼んだ。
そういえば忘れてたけど、しげるはまだ、13歳なんだった。
急かされながら出掛ける支度をして、外に出た時にはもう日が落ちかけていた。浴衣の子ども達が跳ね回り、神社に続く広い大通りいっぱいに人が行き交っている。私は、はぐれてしまわないか気が気でなかったが、人混みの中でしげるの銀髪はよく目立つ。私の心配は杞憂に終わった。人と人の間をすり抜けていくかと思えば、屋台の前に止まって動かない。かなりマイペースだったが、指をさしながら「あれは何?」と私に聞くときには、いつの間にか私の隣にいた。
「しげるが射的上手だから、屋台のおじさん焦ってたよ。そんなにぬいぐるみ欲しかったの?」
屋台を一通り見て、終点の神社に辿り着いた時には、狐の面を顔にかぶり、右手にはりんご飴、左手には金魚に景品にと、しげるはどこからどう見ても、目一杯に祭を楽しんだ格好になっていた。途中で2人分買った焼きそばを食べるかと聞けば、横に首を振り、少し面をずらして器用にりんご飴をかじっていた。人の賑わいから外れた、神社の手水舎の隣にある朽ちたベンチに二人で腰かけた。
「なんか懐かしいな。昔ね、ここでよく一人で遊んでたの。普段は誰もいないのに、祭の時だけ人が増えて、変な感じ」
「ひとりで」
「うん、友達作るの下手だったから、一人で学校の帰りはここに寄り道してた」
私が話しているのを聞きながら、しげるは面をかぶりなおした。狐面に隠れて表情は見えない。見事な銀髪が狐の毛並みに似ていて、面と相まって本物の狐のようだ。その白い首筋に夜が影を落とすのを、私は知っている気がする。いつ、どこでだったろう。遠くで聞こえる祭の音が、私の疑問を雑に消していく。
「夜が来る」
「そうね、あっちの空はもう真っ暗」
「あの歌、歌って待ってて」
「あ、しげる! どこ行くの?」
私の制止も虚しく、突然立ち上がったしげるはあっという間に藪の中に消えた。小さな神社だけど、いわゆる鎮守の森もあって、ひしめく木々の中にあれだけ目立つ銀色はあっという間に飲まれて見えなくなってしまった。しょうがなく残された2人分の焼きそばの入った袋を膝の上に置いて、しげるを待つ。気付けば、またあの歌を口ずさんでしまっていた。けれども、歌っても歌っても、不安を和らげてはくれない。はぁ、大きなため息を吐いて立ち上がり、枯れ果てた手水舎を覗き込む。柄杓も錆びてしまっていて、持ち手は少し触っただけでぼろりと木が欠けた。
「……待たせたな」
知らない声が、私の背後で響く。
反射的に振り向いて、思わず目を見張った。そこには狐面を斜めにかぶり、和服に身を包んだ男が立っていた。驚いたことに男の見た目は、さっき居なくなったばかりのしげると瓜二つだった。何と、口をきけばいいのか分からず、黙りこくった私に、男は笑いかける。他人へ向けるのに慣れきった自然な笑顔に、この人はしげるではないのだなぁ、と気付いてしまった。
「どちらさまですか」
「どちらさまって、俺を待っていてくれたじゃねぇか。年寄りに意地悪はするもんじゃないぜ」
「私が待っていたのは、しげるっていう男の子で、あなたではありません。人違いです、きっと」
「人違い?」
私の言葉を繰り返し、おかしそうに笑う男の首筋もまた、白く夜の闇から浮いていた。私の思考は正しく働かず、ただ居なくなったしげるのこと、しげるにそっくりな男のことで、何か手掛かりは無いかと頭の中で何度も検索をかける。無駄な行為なのは、分かっているというのに。
「こんな所で長話をする気は無かったんだが、やっぱり簡単に丸め込まれてくれねぇよな。ちゃんと説明しとくんだったが、あの時分の俺は口下手でいけねぇ」
彼の言葉に同意したのだろうか、鎮守の森から伸びる枝葉が風も無いのに揺れた。アパートの部屋にいても聞こえたはずの祭の喧騒は、いつの間にか聞こえなくなっていて、辺りはすっかり静かな夜に沈んでいた。そうするのが当然と言うように、男は私の左手首を掴んで少しだけ、自分の方に引き寄せる。右手に握っていた焼きそば入りの袋がカサリと音を立てなければ、されるがままに攫われていたかもしれない。
「アンタはこの神社が何を祀ってるか、知ってるか?」
男は、さぁご覧とでも言いたげに大きく手を広げた。それにつられて見上げれば、くすんだ色の鳥居が暮れかけの夜に抗うように、朱指している。その両端をを狛犬の代わりに守っているのは、
「……狐、ですか」
「正解」
口がにんまりと笑ったかと思うと、一瞬男の後ろに大きな尻尾が見えて、消えた。それはどう見たって、私が口にした動物の尻尾にしか見えず、言葉で説明されるより随分と分かりやすく突きつけられた答えに、開いた口が塞がらない。
「あなたが、その狐なの?」
「ま、これも正解だ。この神社は俺を祀るために建てられた。随分と昔のことだがな。アンタは知らないだろうが、俺はどのアンタだってよく知ってる。神様なんて大層なモンじゃねぇが、一応、妖の類なもんでね」
言葉の続きを探すように、男の視線が宙を漂った。それから薄く開かれた唇から、囁きのように漏れたのは、あの歌だった。どこで聞いたのかわからないのに、いつからか頭の中に響いていた、あの不思議な題名も知らない歌。
「この歌は、俺を呼ぶために作られたもんだ。平安か鎌倉か、昔の年号はとにかく曖昧で覚えてねえが、兎に角、俺がその歌を教えたのさ。どこに居ても、お前さんを見つけられるように」
きらり、男の瞳が黄金の光を灯した。宵闇に沈んでいく辺りとは裏腹に、彼の両の目は私を捉えて離さない。遅効性の毒でも飲んだかのように、掴まれたままの左手に力を入れられない。それをまるで玩具をいじるように手先で弄んだかと思うと、突然恋人がするように指と指とを絡めて二人の間に下ろした。
「何度もお前さんが産まれてそして死んでいくのを見てきたが、どうやら何度生まれ変わっても、その歌を忘れることは無いらしい。俺のことは忘れちまうようだけど」
「この歌に関しては、確かに私自身分からないことはたくさんあります。けど貴方が、本当にしげるなんだったら、どうして今まで私に何も言わなかったんですか?」
「だから、言ったろ? 昔の俺は、やることは派手なくせに口下手なんだって。懸想してる女を口説くことすら、考えもつかねえんだろうよ」
「け、けそうって……私、貴方と今初めて会って、なにも知らないのに」
「でも、歌は知ってただろ。俺を呼ぶためだけの、お前さんしか知らない歌を」
知らない人のはずなのに、男の笑顔はなんだかとても懐かしくて、心臓が切ない音を立てた。まるで彼に会えるのをずっと待っていたような、そんな切なさに胸が熱くなる。わからない、信じられないはずなのに。
「さ、帰るか。こんなとこ長居するもんじゃねえだろ」
「帰るって、どこに?」
「そりゃお前さんの所に決まってる。なぁに心配はいらねえ、今までだってお前さんが思い出さなかったことなんて、ここ千年近く、一度も無かったんだからな」
石段を一段ずつ降りる足音の数は行きと同じなのに、何もかもが違っている。とっくに解散してしまったと思っていた祭の賑わいは、相変わらず続いていて鳥居の向こうは燃えるように祭りの火が参道一杯を赤く染めていた。冷え切ってしまった焼きそばを揺らしながら、鳥居をくぐる。瞬間、横にいる男が狐の面にそっくりな顔で笑った気がしたが、改めて見てもそんなことは無かった。気のせいだろうか、違和感を無理やり飲み込んで帰路につく私達の背後では、鎮守の森が囁き合うようにざわざわと枝葉を揺らしていた。
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