跡部景吾は、15歳である。
時々、忘れ落ちてしまう認識を改めて脳に叩き込みながら、自分が打ちっ放しにしていた無数のボールの一つを拾い上げる。ネットを挟んで広がった無数の黄色が早朝の澄んだ空気を乱して、発光しているようにすら見えた。らしくないなぁ、口に出さずに呟いて、再び足元のボールに手を伸ばす。
跡部だけじゃなくて。
ゴワゴワとした手触りのテニスボールを、これまた出しっ放しになっていた籠めがけて放る。正確な落下を見届けることなく、次の球へ。
俺も、やねんけど。
下を向いているせいでズレ落ちていく眼鏡を外して、わざわざかけ直す。春が夏が秋が終わり、冬が終わろうとしている。もうとっくに引退してしまった俺でも、生徒である限りテニスコートは使える。先生に感謝せな、口元に笑みを浮かべて最後のひとつを籠に投げ入れる。
俺と跡部は産まれた日の違いも10日そこらで、進み方はともあれ進んできた距離はほぼ等しい。なのに、何もかもが違う。そんな違いを、愛おしいという奴がいた。籠を所定の位置に戻し、ラケットをケースにしまってコートを後にする。鍵のかかっていないフェンスの扉が、ガシャンと大きな音を立てた。
*
「私は景吾のことなら何だってわかるわ。景吾が光なら私は影、そういう風に育てられたのだもの。泣き叫ぶことしかできない無力な赤ん坊が跡部景吾へ成長していく過程を、私以上に知る人は居ないのよ」
俺の前に現れる時、女はいつも黒いドレスを着ていた。その下には黒い下着を。どうして知っているのかというと、俺がこの手で暴いたから。レギュラーの為にあてがわれた部室を横目に通り過ぎ、シャワールームへ入る。塩素の匂いが少しだけする湿気た空間は、換気扇だけがからから宛てもなく回っていた。
「そうは言うてるけど、一回もアンタの名前を跡部の口から聞いたことないで。少なくとも、俺は」
「そんなの当然よ。貴方は他人に自分には右手があると主張したことがある? 自分の認識の中で当たり前のように存在しているものを、人は他人に改めて提示しないわ」
「じゃあ、こういうことを跡部とするんも当たり前で、せやから逃げへんの?」
捕まえた腕は妙に冷たい。壁に縫い付けたまま首筋に唇を押し当てて、膝を軽く割ってみる。装飾に装飾を重ねたような黒いスカートの生地が、俺の膝をやんわりと包み込んだ。女は少しも焦った様子もなく、ただ吸われるための首を、弄られるための下肢を俺に差し出した。
「貴方がしたいようにすればいい。私の反応を探るその瞳も、壊さないように掴むその腕も、心配せずとも景吾と比べるなんてしないから」
「そんなことでビビると思われてたなんて、心外やわ。せやったらめいっぱい鳴いてもらお、壁の向こうの跡部サマに聞こえるくらいな」
女の瞳孔が、少しだけ開かれた気がした。
生徒会室の隣の、待合室。ここの鍵は跡部しかもっていない。生徒会長が客人をもてなすために作らせた小部屋がある。そこに閉じ込められた、跡部景吾の影。秘密を知ることは、恐らくあってはならない。気紛れに捻った扉に鍵がかかってなくても、だ。
「驚いたわ」
「驚いた?」
「貴方もそんな顔をするのね。まるで拾った猫を取り上げられた子供みたい」
「どんな顔やねん」
「私はね、あなたが可哀想って言ってるの」
そこからは、もうめちゃくちゃだった。着ていたはずの服は床に落ち、横になるのには少し小さすぎる豪奢なソファーが船のように揺れた。我慢していたはずの女の押し殺した声は、いつの間にか大きなものになり、俺の鼓膜をどろどろに溶かす。
どうしてこの女を、抱こうと思ったのか。
ベルトをはめ直し、乱れた衣服はそのままに寝息を立てている彼女を改めて見下ろす。薄い胸は陶器のように白く、肉も骨も透けてしまいそうなほどだった。それでも規則的に上下する胸は、彼女が人形などではなく人間だという事実を俺に突きつける。跡部の影だと名乗ったこの女を抱いたのは、彼女が知っていたからだ。俺が脳の片隅で、簡単に拭えないほどの嫉妬を抱いていることを。誰にも見つかる筈のない巧妙に隠されたそれを、一目で暴いた女を俺は恐ろしいと思った。だから。
*
「お前がこんな時間に自主練なんて珍しいじゃねぇの」
「せやな」
「どうかしたのか」
「別に何も」
自信に満ちた声をかわすように、そっけない返事をしながら、部室に入ってきたばかりの跡部の姿を横目で確認する。
あの女と出会ってから、俺の中の跡部景吾の印象はがらりと変わった。誰よりも強く、そして気高かった孤独の王様の足元からのびる美しい影は、俺達が築いた3年間を簡単に破壊した。一握りの背徳感と優越感と、それから罪悪感。心を蝕んでいくこれらのどこにも、愛なんて存在していない。
一度が二度になり、それからはもう数えるのをやめた。夏が冬になって、瞬く間に春になって。めまぐるしく過ぎていく俺の日々に女が一人加わったことを、跡部と話したことは無かった。怖かった訳じゃない。確かに彼女は跡部のものだと自称したが、恋人でも家族でも無かった。一般的に作られた枠のどこにも当てはまらない二人の関係性に対して、俺と彼女の関係はセフレという枠にぴったりと収まっている。俺に右手があることを今更誰かに伝えることがないように、このことも跡部に伝える必要は感じなかった。いつだって俺は、跡部と同等でありたい。跡部を認める俺と、俺を認める跡部。例えそれが一方的なエゴだとしても、もう構わなかった。履き替えたばかりの革靴の爪先で床を叩き、ロッカーの扉で体の大半が隠れた跡部の方を見ることなく、背後を通り出口へ向かう。
「サーブの調整は、昨日仕上げたと言ってなかったか?」
「言うた。調整は出来てもしっくりこんでなぁ、今日はおさらいや。もう済んだけどな」
ほな、また放課後。言いかけた挨拶が、突き刺すような「待て」に遮られる。ドアノブをひねり出口まで後一歩というところで捕まってしまい、心臓が嫌な音を立てる。冷静を装い振り向くと、意外にも跡部はこちらを向いていなかった。忍足を視界の外に追いやったまま、話を続けた。
「ひとつ教えといてやる、お前にとっては残念なことだろうが」
「なんや、もったいぶって」
「待合室には、もう誰もいない」
「……なんて」
「この距離で聞こえなかった、なんてことはないだろ?」
「知ってたんやな、自分」
「何を揶揄しているか分からないが、あの部屋をつくったのは俺様なんだぜ」
跡部は口の端を吊り上げた。その表情は、暗に跡部景吾にはどうにもならない事情があったことを示唆しているようで、忍足は一瞬、眩暈を起こしかけた。あの部屋を作ったのは跡部だが、あの女を作ったのは無論、彼ではない。そんなことはとうに分かっていた。跡部財閥そのものは金持ちの象徴として不動の地位を築いてはいるが、内部は見えない事情が交差しているのだろう。その構造の中には跡部景吾も彼女も等しく存在するのだから、彼等がいつどんな理由で自分達の元を去ろうとも、驚きはしないと前から思っていた。
忍足は、彼女が消えたことに絶望した訳ではない。むしろ絶望したのは、跡部と自分が無力な子供であるということに、だった。ここまで狼狽えると思っていなかったのか、王様は少しだけ眉を顰めて、普段は冷静な友人の名前を呼んだ。跡部に呼ばれてようやく、自分が取り乱してしまったことに気付いた忍足は、度の入っていない眼鏡を掛け直し、本来自分が取ろうとしていた行動通りにロッカールームを後にした。
校舎に向かう歩調がだんだんと早足になり、それから堪らず走り始めるのに時間はかからなかった。早朝の練習で程よくほぐれた体は軽く、息も上がることはない。廊下にいる生徒達になるべく遭遇しないように、無人の階段を駆け上がって、人通りのない渡り廊下を走り抜けた。他の部活がようやく朝練を始める時間のせいで、人影は当然少ない。
生徒会室の隣、跡部の作らせた応接室。少々荒くなった息を整えて、いつものようにつるりと丸いドアノブをしっかりと握り、ひねる。ガチャリ、音を立てて扉は開いた。少し拍子抜けしながら、忍足は猫のようにするりと扉の隙間に忍び込んだ。
そこに、女はいなかった。
今くらいの早朝に来ようが、部活が終わって下校時刻のとうに過ぎた夜に来ようが、彼女は客人用のソファの真ん中に座って俺を出迎えてくれていた。それなのに。忍足が何気なくローテーブルに近付くと、そこに一枚のメモが残されているのに気付いた。そこには綺麗な筆記体で、有名な童謡の歌詞が記されていた。きっと彼女のものだろう、忍足は目を走らせてそれからメモを再びテーブルに戻した。ただおとぎ話から抜き出しただけのようにも思える一節が、何を表しているのか、忍足は難なく汲み取ってしまったのだった。
「Humpty Dumpty sat on a wall.
Humpty Dumpty had a great fall.
All the king's horses and all the king's men
Couldn't put Humpty together again.」
忍足侑士は15歳だった。
幾重にも蓋をして隠していた彼自身を暴いた少女は、王様が手を尽くしても、もうここには戻らない。あまりに突然すぎる離別に、彼は流すべき涙を持っていなかった。誰も招かない客間で、今度はあの女がこの部屋に戻り、また自分を可哀想だと哀れむのを待つために、忍足はソファに深く深く沈んだ。