台本に目を落とす真剣な横顔に、足跡のように続く泣きボクロ。彼の視線がこちらに向いていない時に、その二つの点を眺めるのが、いつの間にか癖になっていた。私がつけた帳簿を確認する時、寮内ではしゃぐ学生達を叱る時、古い映画を観ている時も。彼の横は、どうしてか居心地がいい。普段は自分にも他人にも厳しいはずなのに、私が横に座って彼の顔を不躾に眺めていることに関して、咎められたことは一度もない。

「左京さん、ひとつ聞いてもいいですか」
「なんだ」
「お仕事って、やっぱり危ないこととかもしたりするんですか?」
「いきなり何を聞くかと思えば、お前、ヤクザに興味あったのか?」
「いや、そうじゃなくて! 危なかったり忙しかったりするんだったら、あらかじめ聞いておいた方がいいのかなと。仕事しながら演劇してる人って、ウチにはそんないませんし」
「心配しなくても大丈夫だ。だいたい、俺が中途半端な状態で芝居に取り組むと思ってんのか?」
「滅相もございません」

結局、どの方面から聞いてみても「心配ない」「知る必要はない」と取り付く島もない状態で、こうなったら迫田さんに色々聞くしかないなと内心早々に諦めた。再び台本へと視線を落とす左京さんの姿を眺め、これ以上詮索しないようにと、自分もスケジュール帳を開いてみる。考えないといけないことは山積みで、それが面白くもあるのだけど、どうしてか左京さんのことが気になってしまうのだ。私が加わる前から劇団を見守ってきた左京さんのことを、私は何も知らない。今になって芝居をしようと踏み出した一歩の重さも、彼の覚悟も。

「今更ですけど、私、ほんとに嬉しかったんです。左京さんが秋組のオーディションに来てくれた時」
「お前の話には面白いくらい脈絡がないな」
「これだけは言っておきたくて、唐突にすみません」
「……いや、謝らなくていい。俺も嬉しかったからな、お前が俺に声をかけてくれて」
「え? そうだったんですか?」
「お前は悪い女だよ、ほんとに」

あ、左京さんが笑った。思った瞬間、台本がぱたりと閉じられ、彼はソファーからおもむろに立ち上がった。見上げた顔にはすでに表情はなく、見間違えたのかと思わず瞬きをしてしまった。

「もう寝るんですか?」
「お前も早く寝ろ、電気代の無駄だ」
「確かにそうですね! おやすみなさい」
「……おやすみ」

ぱちん、小気味の良い音を立てて電気が消える。無理矢理降ろされた暗幕をかき分けて進む勇気は私にはなく、ただ部屋へと消える背中をぼんやりと見守ることしかできなかったのだった。



芝居への思いと少女への思いをまとめて脳の隅に追いやって、今まで生きてきたのだ、俺は。
舞台のポスターが埋め尽くされた駅前の掲示板を横目に、ため息をつく。劇場と共に俺の羨望も葬って、ようやく夢から解放されると思っていた時に、あの少女が再び俺の前に現れた。神様なんてもちろん信じちゃいねえが、もしいるとしたら何考えてんのか問い質したい。夢にまで見た少女と偶然の再会、手を伸ばせば簡単に捕まえられる距離で、俺の名前を呼ぶだなんて誰かの頭の中にストーリーが入ってなきゃ有り得ない展開だ。

俺ももう良い年で、全部が手に入らないと気が済まないなんて熱量もない。むしろ今の俺には、充分すぎるくらい与えられている。だから余計、芝居に向き合えば向き合うほど、少女への憧れは別の形に変わっていく。いつまで自分は、耐えられるのだろう。はぁあ、長めのため息を吐き出しながら、帰り道にあるレンタルビデオ店に足を運ぶ。考えを別の所に追いやろうと陳列棚の間をゆっくりと進んでいく。気になるものはあらかた観てしまっているからな、たまにはジャンルを変えて……と普段は近付かないカーテンの入り口ギリギリの通路に体を滑り込ませた瞬間、すでに物色中だった先客と目が合う。

「え」
「お前……」
「ち、ちがいますよ!」
「まだ何も言ってない」

しゃがみこんだまま慌てふためくのは、うちの監督以外の何者でもない。さっきまで考えていたおかげだろうか、夢に見た少女のなれの果てに遭遇するとは。どうせ出会うなら、こんなところでなくとも良かったんだが。いたたまれなくなったのか視線を彷徨わせる彼女の眼に映るのは、ホラー、極道、ソフトアダルトなど、上品とは言えない見出しばかりだろう。そのことに気付いたのか、何枚か手に取っていたDVDを後ろ手にそっと隠そうとしているようだった。

「言っとくが、寮には学生も大勢いる。何を見るかは自由だが、時間と場所は弁えろよ」
「そんなのわかってます! というか、別に人に見られちゃマズイものじゃないですから!」
「そうか。だったら参考までに、監督さんが何を鑑賞するつもりなのか俺にも教えてくれないか?」
「い、いやです!!無理です!!」
「あそこにあるの、カレー料理のDVDじゃないか?」

小学生でも嘘だとわかる罠にまんまと引っかかり、彼女の視線が逸れた瞬間、背後に隠し持っていたディスクを奪い取る。俺の鼓膜を破る気なのか、さっきの数倍デカい声で「あ!」と叫ぶのを無視してDVDを物色する。

「…………お前、やっぱりヤクザに興味あったのか」
「いや、そういう訳では無いんですけれども……なんというか……」
「冗談だ。ちなみにこれの1よりも2の方が、よりリアルだと思うぞ。まあ、多少エグいがな」
「へ?」
「見る時には声をかけろ、特別に解説してやる」

いかがわしい棚の隙間から腕を引いて連れ出しながら、ついでに説教でもしてやろうかとも思ったが、心なしか嬉しそうな顔をしているように見えたので、ひと言で済ませてやった。今までヤクザなんて仕事は金に関して以外損ばかりだと思ってきたが、存外悪くないのかもしれない。

「左京さん」
「なんだ」
「違いますからね」
「何がだ」
「私が興味あるのは、ヤクザじゃなくて左京さんなので。杯とか交わす予定とかまったく微塵もないし、誤解しないでくださいね。あと皆にもこのことは……左京さん?」
「お前というやつは……」
「あれ? どうしたんですか? なんか顔が赤いですけど、どうかしましたか?」
「どうもしてねえ! か、借りてくるから外で待ってろ!」

俺の言葉に渋々従ったのか、出口に向かう背中を確認してから、思わず長い長いため息をついてしまう。まったく、今日はあいつのことでため息を吐いてばかりだ。これが全部無意識なのだから、タチが悪いなんてもんじゃねえ。なにが興味がある、だ。ビデオなんか見ずに直接俺に聞けば……。ここまで考えて、そういえば以前、仕事が危ないのかどんなことをしているのかと聞かれたことがあった。何でそんなことをと思いながら適当に流したのだが、未だに気になっていたのか。

再び顔に熱が集まりそうになってきたのを、必死で堪える。これでも役者の端くれだ、などと思っていたが、お会計をする店員が怯えた顔をしていたので、恐らくとんでもない顔つきになっていたのだろう。申し訳ないと思い、受け取る際に自分らしくなく微笑んでお礼を言った。この店舗はよく利用するのだから、これくらいはしておいても損はない。

「……待たせたな」
「いいえ、ありがとうございました。そういえば、左京さんは借りなくて良かったんですか?」
「いい。お前が借りたやつを俺も見る」
「そうですか? だったら良いんですけどっ……。って、なんで頭ぐしゃぐしゃにするんですか!もう!」
「お返しだよ」

もっともこんなんじゃ、ちっとも返した気にならねえが。思いながら肩を並べて夜道を二人、歩く。こんな幸せが与えられるなら、今までの人生もそう悪くなかったなんて思えてしまうのが恐ろしい。街灯がぼんやりと照らす道は、いつのまにか駅前の喧騒から遠ざかっていて、歩いているのは俺と監督の二人きりだった。小さな手を引いて歩いた道を、大人になり監督になったコイツと一緒に歩く。そしていつか俺ではない誰かの横に並んで幸せそうに笑うコイツを、送り出すんだろう。せめてそれまでは、泡になって消えてしまいそうな幸せが続いてくれるのなら。俺は、それだけで。俺の薄っぺらな祈りを嘲笑うように、ぬるい春風が前髪をすくってたちまち消えた。

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