信じられないことっていうのは、いつまでも信じられないものだ。長時間水中にいるのに、ちっともふやけない指先をじいっと見つめる。これは本当に私の手なんだろうか、脳味噌だけ誰かと挿げ替えたと言われても、今ならちっとも驚かない。ふう、息を吐き出しながらまた潜る。中学の時だったか、授業で行われた着衣水泳は不快以外何でもなかった。水を吸って重く冷たく体にまとわりつく服も、重石のように私を沈ませようとする靴もズボンも。確かに濡れたまま外気に触れると昔と変わらず気持ち悪いけど、こうして水槽に入ってしまえば外で歩く時と何ら変わらない。どういう仕組みなのか、息苦しくもないし。くるりと前転しようとした瞬間、あることに気付く。

そういえば私のパンツ、どこいった?
足が二本あったのが一本にまとめられているのだ、であれば履いていたパンツって。考えるや否や、スカートをたくし上げると腰の辺りに見慣れた水色の布があることに気付く。片方の穴だけが拡がって、スカートのベルト部分までせり上がってきているみたいだった。なんてこと、お気に入りだったのに。けれど脱いでしまっても後始末に困る。しかたなくそのままにしておくかと諦めつつ、なおもスカートの中を観察する。おへその指二本分くらい下から鱗が始まって、大切な部分を全て覆い隠すように魚になってしまっている。もともと足が二本あった痕跡もなく、お尻とかの窪みもない。これトイレどうすんだろ? というか、そもそもトイレまで行けないのか。かわりに腰の両横にエラのような割れ目があり、はくはくと私の意思と関係なく動いているようだった。こいつのおかげで息を止めてても苦しくないのは何となくわかる。しかしトイレ問題を考えながら、何気なくエラの中に指を入れてみるとあまりにくすぐったくて、水面に出たまま「うひゃあ」と声を上げてしまった。

「……なんて格好してんだ、痴女か君は」
「あ! サンドイッチだ! 好きです!」
「君の食い意地だけは、心から尊敬するよ」

扉が突然開いたかと思うと、片手でお盆を持った岸辺露伴が姿を現した。ウェイターのような立ち姿を見ながら、慌ててたくし上げていたスカートを押さえつけた。部屋の隅にいつのまにか立てかけてあった折り畳みの机を水槽のすぐ横に設置し、その上にサンドイッチと紅茶のポット、マグカップが手早く並べられた。最後に手渡されたタオルを慌てて受け取り、手を拭く。私が拭き終わったなという所で再び岸辺露伴の手が伸びてきて、私からタオルを引ったくって机の脚に引っ掛けた。

「ああ、足りなかったら遠慮なく言えよ 」
「はい、いただきます」

お皿に綺麗に並べられていたサンドイッチを両脇から競うように私と岸辺露伴が崩して行き、たちまち一切れも無くなってしまった。正直おかわりが欲しかったが、そこは流石に遠慮した。岸辺露伴はというと、これで満腹のように見える。漫画家とは思えないスタイルの良さはこういうことなのか。戦ってもいないのに何故だか敗北感を味わう。淹れてくれた紅茶はとてもあたたかくて、じんわりと体が熱を帯びる。冷たい水の中にいくらいても冷たく感じないのは体温も捨ててしまったせいかと思ったが、ちゃんと温もりは感じるようで安心した。

「人魚って、何着るんだろうな」
「ん? なんですか?」
「服だよ、服。まさか、全裸ってことはないだろ? いや、仮に全裸だとしてもだ。君に裸で居られるなんて、考えただけで気分が悪くなってきた。絶対にイヤだな」
「私だって絶対にイヤですよそんなの。うーん、水着とかなら良いんじゃあないですか? ずっと水の中だし」
「水着か…… 。たしか君に水着を快く貸してくれそうな女友達なんて、ひとりもいなかったよなあ。仕方ない、今日はとりあえずその格好で過ごしてくれよ」

今さらりと失礼なことを言われた気がするが、よく考えたらこの人が失礼なのは出会った瞬間からだったので、もう気にしないことにした。皿を片付けながら、見るからにうわの空になってしまった漫画家先生に「ごちそうさま、美味しかったです」と一応声をかけておく。空中でウロウロとしていた視線が降りてきて、押しピンで留めるように私を射抜いた。

「それと、せっかくだから言っておくが」
「は、はい?」
「フルネームで呼ばれるの、バカにされてるみたいで好きじゃあなくてね。ぼくのことは、露伴先生と呼んでくれ」
「露伴先生……はあ、わかりました」
「君は非常に不本意ながら、しばらくの間ウチに住むことになってしまった。しかも人間に戻るまでの間、ここから一歩も動けないんだ。何かあったらすぐにぼくに声をかけろよ。腹が減ったとか気分が悪いとか、遠慮なく言ってくれて構わない。ただ、」
「ただ、なんでしょう?」
「ただ、万が一ぼくの仕事の邪魔でもしたら、金持ちの変態に売りつけてやるからな」

それじゃあ遠慮するより他ないじゃないか……。私の目が絶望に曇ったことに気付いたのか、ハハハ冗談だよとまったく冗談じゃなさそうなトーンで返ってきた。とりあえず仕事机に向かっている時以外は、好きに話しかけても恐ろしい目に遭わないだろうと結論づけるしかない。水槽から動けないということは、私を生かすも殺すも岸辺露伴にかかっているということを改めて痛感したのだった。仕方ない、と皿を重ねて部屋から出ようとしている岸辺露伴、いや、露伴先生を呼び止める。

「露伴先生、サンドイッチのおかわりいいですか。あっ! 具材だけ持ってきてもらえれば、自分で挟んで食べますから」

返事は、大きな大きなため息ひとつきりだった。


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