岸辺露伴の仕事部屋には、三つの音が流れていた。
空調を保つためにかけっぱなしの除湿機の稼動音、原稿の上を忙しなく走り回るペン先の音、それから名字なまえの歌だった。それらは広々とした部屋の中でお互い干渉せずに響き合っており、少しも外に漏れ出ることもなかった。平日の昼下がり、高校生の春休みとは暇を消費するためにあるのだと証明するような時間がゆっくり進んでいく。件の水着騒動から、二人の関係は最悪になるのかと思いきや、存外発展も後退もしなかった。それは元から結ばれてない紐が、絡まったところですぐに解けてしまうのと似ていた。

「できた、完成だ」

正面の窓から射し込むやさしい陽の光に、完成したばかりの原稿を両手で掲げるように持ち上げる。身体中の力がすべて抜けて、代わりに幸福感と満足感で満たされるこの瞬間に、岸辺露伴は生かされている。口元に浮かんだ笑みもそのままに、完成稿をサイドテーブルに置いたところで、なまえの歌が止んでいるということにはた、と気付く。椅子ごと振り返ってみると、水槽の縁に顎を乗せてこちらをじいっと見つめる黒々としたふたつの瞳と視線がかち合った。口は閉じられていたが、代わりに目は強く何かを訴えているようで。しかし、その訴えの内容まで露伴には汲み取れない。仕事中に邪魔をしたらといった脅しが効いているのかとひとり納得して「もう今日の仕事は終わりだ」と声をかけた。それでもなまえは、特に口を開くわけでもなく、変わらずただじいっと露伴を見ているのだった。

「エーデルワイス、だったな?」
「…………なにが?」
「なにって、さっき君が歌ってた曲だよ」
「え、歌ってました? 私」

幻聴にしてはやけにハッキリと聞こえた気がするが、鼻を鳴らしても、彼女はキョトンとした顔のままだった。なまえの歌が聞こえたのは、露伴が何処からペン入れをするかと思案している最中だった。集中していれば耳に入らなかったかもしれないその音が、存外心地よかったため露伴がこれといって咎めることはなかった。最初は彼女が暇を持て余し、音楽をかけ始めたのかと思った。顔だけ振り向くと、なまえが歌っているのが視界の端に見える。視線はどこか遠くの方へ向けられていて、仕事中の漫画家の手が止まっていることに気付く様子は少しも無かった。彼女が歌がうまかったなんて、どこかに書いてあったかななんて思いながら作業を開始させた漫画家が同室に居たことなど、なまえは知るはずもない。

「私…………その、音痴なんですよ。音楽の成績、いっつも2だし。2って、完全に教師からのお情けじゃないですか? いっそ1にしてよっていう、2なんですけど」
「そうかい? 君の歌はなかなか上手いと思ったけどね。下手くそな歌を仕事中に聞いてやる趣味なんて、ぼくには無いからな。本当に君が言うとおり音痴なら、殴ってでも止めさせたさ」
「じゃあ、それも人魚になってから、かもしれないです。これみたいに」

見せびらかすように自分の尾鰭を動かすのを、ただ反射のみで目を追っていた露伴が、突然、何かを思い出したように本棚を漁りはじめた。最近買ったばかりの本が置いてある棚から、洋書を模した装丁の大きな翻訳本を取り出し、おもむろに開く。なまえの水着を通販で買った際に、ついでにと思い一緒に購入した、人魚にまつわる伝記を集めた書物だった。床に置いた本を食い入るように見つめる漫画家を、何事かと見守る人魚。この部屋には、非日常が飽和していた。

「あった、ここだな。『人魚はとても美しい歌声で人間を魅了します』なるほど、やはり君の歌は人魚になった影響のようだ。なになに、『歌に夢中にさせ、人間を海に引きずり込んで襲うこともあります』…………フム、まだあるな。『また美しい歌声には人間を衰弱させる不思議な力が宿っており』…………『聴いていた人間を、死に至らしめることも』」

パタン、重い本を閉じる音が響いたが、すでに水中に頭のてっぺんまで沈めていたなまえがその音を聞くことはなかった。露伴は、水槽に躊躇いなく片手を突っ込み、頭を思い切り掴み引き上げる。水を掻き分けられた音と共に、なまえの悲鳴が水面に思い切り響く。

「まさかとは思うが…………ぼくを死に至らしめるために、わざと歌っていた訳じゃあないよな?」
「ちがいますよそんなの…………今知りましたし…………そもそも歌ってたのも無意識でしたし…………」
「フン、まあいい。こんな小娘の歌如きでどうこうなるなど、この露伴に限って有り得ん。お前がいくら歌おうと、ぼくを攻撃することは出来ないんだからな」

露伴の自信には、根拠があった。
彼が名字なまえに対してヘブンズ・ドアーを使ったのは今までに四度、書き込んだのは一度だけだ。康一が帰った日の夜、身の危険を感じた露伴はたんこぶができた頭のまま、水槽の中で眠っているなまえに『私は岸辺露伴を攻撃することは出来ない』と迷いなく書き込んだ。そのことを勿論、なまえは知らない。書き込まれた文言は消えることなく、露伴を守り続けるのだ。そしてもちろん消す予定も、今のところは無い。

「念の為、もうひとつ聞いておくがお前…………人間を食べたいと思うか?」
「何言ってるんですか? いくら私のお腹が空いているとはいえ、そこまでは」
「さっき書いてあったんだよ、人を襲うのは、食べるためだとね。つまり今の君は、人間に対しても食欲が湧くってわけだ。歌っていたのも、本当は腹が減ったからぼくを食べたいと思ったからじゃあないのか?」
「…………もし食べられるとしても露伴先生は食べませんよ、なんか骨ばっかりで美味しくなさそうだし。お腹壊しそう」

安全装置は絶対だ、解除するつもりもない。とはいえこの水槽の中で暇と空腹を持て余している人魚に、襲い掛かられるのは気分がいいものではない。本を元あった場所にしまい、水槽ごと横目で睨みつけながら昼食の支度をしようと部屋から出る。恐らく本人は気付いていないが喋る度にチラつく鋭い八重歯は、人魚になった副産物だ。家に招き入れた時の彼女と今の彼女は、きっと根本的には変わっていないが何もかもが違う。そのことには恐らく彼女自身も、気付いているだろう。今更、存在感を増してきたひと握りの罪悪感を振り払うように、スーパーにでも行くかと家の鍵を手に出掛けようとして露伴の足が止まる。

「オイ、昼食は何が」

どうせなら、コイツのリクエストを聞いてやってもいい。自分の仕事場の扉をノックもなしに開ける。露伴の問いかけが聞こえなかったのか、返事の代わりに扉から漏れ聞こえてくるのは、なまえの歌声だった。家主が部屋に引き返してきたことに気づいていないのか、扉に背を向けて、先ほどとはまた違い、楽しそうに歌っていた。無意識にと言っていたが、今は違うのだろう。歌うことが楽しいと、聞き手に伝わるような声の晴れやかさ。水槽から乗り出すように腕をついているため、しなやかに反る背中とそれにかかる髪、仕事場に置かれた大きな水槽の中で歌う人魚、まるで映画のワンシーンを見ているようだった。言葉を忘れて、ただ立ち尽くす露伴は我に返り、慌てて扉の影に隠れた。少し開けておいた扉から依然として漏れ聞こえる歌声を、ただ目を閉じて聴く。こんな春の日も存外悪くないな、と露伴は口元を緩めた。

ちなみにこの日の昼食は、スーパーで購入した刺身の盛り合わせであった。久しぶりの魚だと喜んで平らげるなまえの姿を見て、ちょっとした復讐心で刺身を選んだ漫画家先生は少しだけ不満に思った。そのことはもちろん、魚を自分と同族だと思ってもいないなまえが知るはずはなかった。


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