彼は自分のことを平均的なだとか、ごく普通のなんて口にするが、周りの大人達と何もかもが違うことはきっと誰よりもよく知っているのだろう。彫りが深い横顔にはいつも余裕が浮かんでいて、どこかしこも清潔に整えられていた。几帳面というか神経質というか、彼の懐からはすぐにハンカチと爪切りがでてくることを、私はよく知っている。昼休憩に女子社員に黄色い声を上げられてもちっともなびかない理由も、もちろん。

「特別だとかあまり言われたくはないけど、君が褒めてくれるのは素直に嬉しいよ。ありがとう」
「私はただ思ってることを言ってるだけです。吉良さんみたいな人、私、初めて会ったので」

狡猾で冷徹な殺人鬼の懐のなかで、私の命と両手が無事なのには理由がある。彼は私自身を爆弾に変えて、それから東方くんや広瀬くん、それから空条さんたち、吉良さんの邪魔になる人はみんな殺してやろうという魂胆なのだ。人間爆弾というのは爆弾そのものより警戒されず、動物より言うことを聞くからね。吉良さんは楽しそうに私にそう告げた。不思議な力を持っているわけでもなく、学校でも地味で存在感のないくせに彼等と面識があった私はこの計画にちょうど良かったというのだ。

夏休みの初日、暇を持て余して外を歩いている私は吉良さんに話しかけられ、そのまま拐われた。この誘拐は決して無理やりではなく、あくまで私の意思あってのものだったが、結果として私は遠くない未来に死んでしまうらしいので、長い目で見れば立派な犯罪だと思う。吉良さんの不思議な力は証拠も跡形もなく消してしまうというから、犯罪だろうが何だろうが関係ないのだろうけど。知らない大人についていってはいけないと、あれだけ言われていたのに。己の選択を後悔した時にはすでに、いつ来るのかわからない終わりへのカウントダウンが、 私を置き去りに始まっていた。

「恐らくだが、間も無くこの家も私の素性もなにもかもが奴等にバレてしまうだろう。君が活躍するのは、その時だよ」
「そんな日いつまでも来なくていいのに、なんて言ったら私、殺されちゃいます?」
「まさか、私だってそう思っているさ。杜王町でこうして君と二人きりで、平穏な日常を過ごしたいってね」

高校生でも分かる嘘をつかないで欲しい、不服そうな私の顔を見て、吉良さんは少しだけ口元をゆるめて笑って見せた。彼が笑顔になるのは、「恋人達」の前だけだと私は知っている。この家に彼女達が留まれる時間は短いが、そんなことは全く重要なことじゃない。彼に愛されてきた数多の手の持ち主の意思は、すでに失われているのだから。

「ひとつだけ教えてください」
「ひとつとは言わず、なんだって教えてあげるけど」
「私はいつまで吉良さんの記憶の中にいられますか」

アメジストの瞳が揺れたのは、きっと私が居なくなる未来を写したからだろう。私という人間なんてはじめからいなかったように跡形もなく爆ぜて、私の破片は塵ひとつ残らない。そうなってしまえばもう、私の存在証明をしてくれるのは、吉良さんたったひとりだ。

「いつまでも、なんて言ったら君は怒るんだろうね」
「吉良さんは嘘つきだから」
「はは、大人は大抵みんな嘘つきだよ。私に限った話じゃあない」

私の頭を一度撫でて、吉良さんは立ち上がった。離れた手のひらを追った時に視界に入った時計の針は、もうすぐ彼は就寝するのだと静かに教えてくれた。食器を洗い始めた吉良さんの背中を横目に、おやすみなさいとひとこと残して自分の部屋に戻った。

私に与えられた一室は、子供の頃に吉良さんが使っていた部屋だという。余計なものは片付けられていて殺風景だが、自分の置かれた境遇を思えば自分の部屋があるだけマシだ。それどころかむしろ恵まれていると言ってもいいだろう。母が作るより美味しいご飯だけでなく、私が外に出なくてもいいように吉良さんが私に必要だと思うものは、何だって用意してくれる。足を踏み入れたことのない高級店のハンドクリームが未開封のまま、机に置いてあるのを眺めてゆっくりと息を吐く。包装越しに匂うのは、外国のお菓子のような甘ったるい匂い。塵も残らない私の手が今更、綺麗になったところで、なんだっていうんだろう。吉良さんが私を見てくれたことだって一度も無いのに。私の手なんて、なおさら。



「君とずっと一緒に居られる方法を見つけたんだ」

茹だるような暑さを残したまま、夏が終わろうとしていた。お盆が終わって少し経ってから、私は吉良さんに呼ばれた。着るように言われたベージュのコットンワンピースに袖を通しながら、恐らく今日でこの暮らしはおしまいなのだろうとぼんやり思う。いつもより豪華な食卓にふたりきり向かい合わせに座った後、開口一番、吉良さんが言ったのは私の想像とはまったく違うものだった。言葉の意味がうまく飲み込めず、返す言葉を探す私が伏せられたフォークの背に細長く映る。

「あれ、喜んでもらえると思ったんだけどな。君が言っていただろう? いつまで私の記憶の中にいられるかって。あの時、君は私のことを嘘つきだと言ったね」
「……だって、私はただの囮で、吉良さんを守るために爆弾になったんでしょう? そんな私とずっと、いつまでも一緒だなんて」
「実は私はね、邪魔者を消すだけにこんなまどろっこしい真似をする程、弱くはないんだ。その気になればきっとこの街ごと壊すことだってできる。勿論、試そうとは思わないが」

そう、自分で言ったじゃないか。吉良さんは嘘つきなんだ。何皿も並べられた美味しそうな手作りの料理は、のんきに湯気を立てている。ランチョンマットの上の白いお皿に視線を落とす。私に用意されたそれにも、吉良さんの前にある皿にも何も盛り付けられていない。彼の言葉の真意とこの食卓のメインディッシュが何なのか気付いた私がゆっくりと上げた視線の先では、吉良さんが満面の笑みを浮かべている。

「記憶の中とは言わず、君とはずっと一緒に居たいんだ。本当だよ? 嘘吐きの僕の言うことは信じられない?」
「……吉良さん」
「さ、良い子だから手を出して」
「吉良さん」

私の声は、きっともう届かないのだ。吉良さんの皿の上にはいつの間にか、私の部屋で使われないままになっていたハンドクリームが置いてあって、自分の勘が当たっていたことを知る。あの中身が嗅覚だけでなく味覚でも感じ取れる甘さなのだと気付いていたら、なにか変わっていただろうか。初めて見た吉良さんの笑顔に導かれるように、私は震える指先を差し出された手のひらに乗せた。でもこれで彼とずっと一緒、さいごに見た吉良さんの瞳に映った自分は幸せそうに微笑んでいた。



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