「あなた、それ本気で言ってるんですか」
眉尻を下げることもなければ、語尾にクエスチョンマークすらつかない。あくまで淡々と、事務作業のように片付けられる告白なんてあってたまるか。心持ちだけは強気でいたい、例え机の影に隠した拳が緊張で震えていても。
「私が冗談で局長に告白するような、軽薄な女だと思ってるんですか?」
「わざわざ答える必要あります? それ」
あ、笑った。鼻でだけど。手のひらで丸めてぽいと屑篭に放られた書き損じの書類を目で追いながら、いつまでも真っ白な袖口に眼を細める。佐々木さんは、どんな時も完璧で完全だった。呼吸しているのかも疑わしいほど無機質な彼が、猛り乱れるのは戦場だけ。そんなところも、今となっては好きなのだ。どうしようもなく。
「じゃあどうしたら局長に好きになってもらえるのか、教えてください」
「何が、じゃあ、なのかは理解できかねますね。それにそういうことは自分で考えたらいかがですか」
「考えたら、可能性はありますか? あるなら考えます」
「ありません。そんなくだらないことを考えるくらいなら、職務に励んでください」
そんな、と嘆く私をちらりとも見ずに、難しそうな内容の書類に視線を落としている。いい加減このやり取りに飽きたのかもしれない、自分で考えておきながらゾッとする。とはいえ、心当たりは十二分にあるから困ってしまう。
警察組織が再編成されてから突然上司になった佐々木さんの噂は、顔を見る前から知っていた。学問も剣術もその他諸々にも優れた、天才の中の天才。エリートの中のエリート。妻と子を亡くした後、冷徹な指揮官としてどんどん出世していったとか。
そんな彼がいつのまにか選抜した肩書きだけで人が殺せるくらいのエリート達の名前が羅列されている側近の名簿の中に、なぜか私の名前があったのだ。まるでシンデレラじゃない! 元同僚の先輩はウキウキしながら私の背中を叩いたが、こんな物騒なシンデレラがいてたまるか。大体12時の鐘が鳴っても家に帰れる気配もないし、そもそも王子様というか佐々木様の顔なんて見たこともないぞ。などと、実際の職務に取り掛かっても、可愛くない灰かぶりは、ぶつくさと不平不満を垂れ流していた。
彼の姿を、この目で見るまでは。
「局長と出会った時、運命だと思ったんです」
「思うのは構いませんが、あなたの妄想に私を巻き込まないでもらえますか。貴方と違って、くだらないことに割く時間は微塵もありませんので」
「くだらなくなんてないです! 始めはただの雇い主、上司だと思っていましたが、今は局長のために死んだって構わないと思ってます」
「だから、それがくだらないというんです」
眉間に皺を寄せたかと思うと、おもむろに立ち上がった佐々木さんはくるりと向きを変え、ガラス張りの壁へと視線を移した。やはり攻めすぎたか、もう少し慎ましくアタックするべきだったのかもしれない。などと今更考えてもどうしようもない反省に、冷や汗が流れる。だって局長の眉間に、皺だ。いつも無表情な佐々木さんの視線が動いただけでドキッとしてしまうのに、表情が変わるなんて。もしかしてクビになったりして、引きつった頬が元に戻らなくなった辺りで、静かに佐々木さんが口を開けた。
「産まれも普通、育ちも普通。のみならず外見、学力、武芸どれをとってもごく普通な貴女が、どうして警察組織の上層部に居られるのか、考えたことがありますか?」
「そんなの、何度も考えましたよ。何度も何度も、」
「けれどわからなかった」
沈黙が伝えたのは、肯定だろう。そんなこと、わざわざ言わなくたって知ってるはずでしょう。佐々木さんの頭で考えられた采配が、私なんかに理解されるはずがないって。思わず力を入れたせいで、爪が手のひらに食い込んでしまう。佐々木さんが私の目の前に立ち、視線を交わすことさえあり得ないのだ、本当は。分かっている。幾重にも鍵のかかった扉を、私は無理やり壊そうとしているにすぎないのだから。鍵なんて、私なんかが手に入れられる訳がない。それなのに懲りずに手を伸ばす私を、佐々木さんが冷めた目で眺めていることだって。
「当然です、わからなくて。だから選んだのですから」
「選んだって、私を?」
「他に誰がいるというのです。まあいい、特別に教えてさしあげましょう。あなたを選んだ理由を」
「本当ですか?!」
思わず身を乗り出す私に、佐々木さんは、にこりと相槌ような笑顔を投げる。ずっと知りたかった答えが、こうも簡単に手に入るなんて拍子抜けだ。けれど、鼓動は今か今かと焦がれ、より強く、早く鳴り響く。すっと佐々木さんの手が持ち上がり、正面から私の顔を指した。それから低い声で、言い聞かせるように佐々木さんは話し始める。
「きっとあなたはこれから、恋をするでしょう。そしていずれ結婚し、子供を産む。子供はすくすく育ち、大人になる。そしてその子供もまた家庭をつくり、あなたは母から祖母になる。世界中、どこにでもいる平凡な女性の一生を、あなたは寸分違えず歩むのだという、確信があったからです。初めてあなたを見た時に、そう強く感じました。あなたは幸せになるべくしてなる普通の人間なのだと」
佐々木さんは息継ぎもそこそこに、台本がどこかにあるのかと疑いたくなるほど流暢に話し続ける。真剣に耳を傾けてはいるが、私は正確に意味を拾えているのだろうか。
「私は、どんな形であれ自分の目的を果たし、それから死ぬでしょう。きっと、そう遠くない未来に」
「死ぬって、佐々木さんがですか? どうして……」
「それは私が決めたことです。あなたにどうこうできる問題ではありませんので、ご心配なく」
反論しようと口を開いたが、それよりも早く佐々木さんが切り出す。戦場だったら間違いなく死んでる、なんて仮定の話を考えられるのは、今起きていることを信じたくないからだろうか。奪われたままの視線を逸らしたいなんて、求めたのは私なのに。
「つまり、あなたはおとぎ話の主人公になったのではない。今から起こりうる悲劇の読者のひとりとして、私に選ばれたにすぎません。私にやるべきことがあるように、あなたにもやるべきことがある。それは、自分の中に理想の佐々木異三郎をつくることではありません。現実の私が、いかにして崩落していくのか。その一部始終を大衆の目で見守ることです。あなたが感じることは、恐らく何人もの群衆が抱く感情と同じでしょう。あなたの憐れみは、この国に住まう幾多の人々の憐れみと私にとって同義なのです。理解できましたか?」
「……なんとなくは」
「満点の答えです、素晴らしい。分かったらさっさと立ち去りなさい。あなたは与えられた職務をまっとうしていればいいのです。それともくだらないことを考えられないように、明日から仕事を増やして差し上げましょうか?」
「そんなのアリですか?」
「勿論、あなたを選んだのは私ですから」
話はこれきりと落とされた視線に縋りつけるほど、馬鹿な女になりきれない。固く閉ざされた扉はいくら叩いても壊れないほど、すでに頑丈なつくりをしていたという訳だ。もしくは私の手持ちの武器が、役に立たなかったか。おそらくどっちも、なのだろう。生え抜き集団に選ばれたことへの過信や思い違いで天高く舞い上がり、随分長く帰ってこなかった自分自身があるべき場所に戻ってきたという感覚に襲われる。未だ棒のようになっている両脚に、動け動けと念じる。この部屋から出なきゃ。そして忘れよう、さっき言われたこと全部。私に背負いきれない物語なんて傍観するのもまっぴらだし、それに。
「私は、おっしゃる通り普通の人間です。どこにでもいるような、普通の。でも局長は、私を選んだ。それは、嘘じゃないですよね?」
「ええ、」
「私が局長のために死ねるって言ったの、あれも嘘じゃないです。だから、」
*
だから、
その続きは今でも明確に覚えている。病院の白い天井に、意味もなく右手をかざしてみた。手を握って開くと、痛みが走るけども気にならない。身体中を包帯が這っているものの、私は生きているのだ。
あの地獄の中を生き延びた。言いつけ通り、佐々木さんの目的が果たされていくのを見守った。そして、きっとこれから、私に彼が言ったような普通の幸せが送れるのだろう。寝返りを打ってみると、肋骨が窮屈そうに軋んだ。
佐々木さんは死んで、私は生きている。佐々木さんの最期までを鮮明に、胸の中で綴ることを許された唯一の大衆が、私だった。あの時の私には天才の考えることなんてと分かろうともしなかったけど、今なら少しだけ分かる気がする。私、幸せになりますよ。佐々木さんが思い描いた通りに、あなたのことをしっかりと覚えたまま、普通に幸せになってみせますから。無理やり作った笑顔は、いつの間にか流れていた涙でぐしゃぐしゃだった。
「だから、もし死ぬなと命じるなら、私は局長のために生きます」
あの日、佐々木さんにかけられた呪いを解く人はもういない。私自身が、彼が現へ縋るための蜘蛛の糸だったと理解してから、あなたがどこまでも愛おしい。愛おしくて、たまらないのです。汚れのないシーツの白に、佐々木さんの諦めたような笑顔を見た気がした。
あの日、あの時の。