まるでペットショップの端に追いやられたイグアナのごとく、私の肺は薄い呼吸を繰り返す。それは着慣れないスーツのせいか、或いはどこにでも無差別に漂う春の陽気のせいか。とにかく、詳細は分からないまま。名前しか知らない地下鉄の駅、ホームで友達を待つ私の横では誰が飲んだか分からない紙パックのカフェオレが、同じく誰かを待っていた。

「お待たせ! じゃあ行こう!」

パンプスをかこかこ鳴らしながら現れた友達の顔を見て、反射的に立ち上がる。体の動きに反して、硬いカバンをきつく握りしめていたはずの手首から先が、ぼとり、と落ちた。
気がした。

「え?」
「、なに? わすれもの?」

慌てて振り返るまでもなく、手はしっかりついている。思わず落ちたはずの手を探してしまった愚かな目を、置き去りのカフェオレは口をあけて笑う。

なんでもなかったように、友達に足並みを合わせて乗り込んだ電車で、手を広げたり握ったりと無意識に確認してしまったのは、まだあの感覚を気のせいで片付けることができないから。しかし、ついているのは確かに私の左手だ。爪の形、関節のシワ、恐らく手相も、何もかもが。改めて痛いくらい握った手すりは、いつまでも冷たいままだった。



この日を境に私は時折、手が落ちるという感覚に襲われた。痛みはなく、ただ、逃げるためにイモリが尻尾を切るように、私の手首もまた当たり前のごとく腕から、すぽりと抜けるのだ。しかし、どこまでいっても感覚のまま。
いつの間にか、目も確認するのをやめた。
この感覚に陥る時は、大体、人と居るからだ。私の感情や意思に関係なく、私は度々、感覚でだけ手を落とした。
それでも、頭の中では描けてしまう。地面に転がる私の手のひら、その付け根には腕時計。今までは気づかなかっただけで、数え切れないほどたくさんの手が仰向けのまま、私の背中を見ているのだろうか?

あまり気分の良くない想像をパソコン共々シャットダウンさせ、鍵を持って夜風に身を晒しに外へ出た。ちょうどアイスが食べたかったから。自分への言い訳は、夏に近付きつつある、曖昧な春風に消えた。
流石に深夜2時ともなると、人も車も無い。
不気味なくらいの静けさを助長する生ぬるい風が、ジャージの隙間から入ってくる。時々遠くで狂ったようなバイクのエンジン音が響き、静寂をかき乱す。煌々と明るいコンビニの明かりに引き寄せられるように、足はいつもよりも軽い足取りで先を目指す。白々と照らされた駐車場に車は無い。私の影が流れるのを眺めながら歩いていると、一陣の風が私の前髪をなぶった。思わず抑えようと持ち上げた左手は裾から先が欠落していた。
そんな、気づかなかった。
いつもの感覚の先、なんて知らない。振り向くのを躊躇っていると、後ろから声がして心臓が縮み上がる。

「あの、」

私の動揺を察したのか、男は再び話を切り出した。慌てて振り向いた男の容姿を確認する前に見てしまった、彼の差し出す私の手から、目が離せない。

「これ、落としましたよ」

男はあくまでも自然だった。まるでハンカチを拾った時のように、遠慮がちでありながらも親切な声だ。差し出された手に私の左腕を恐る恐る近付けてみる。袖が中指の先にぶつかった、瞬間、いつの間にか私は男と始まりの分からない握手をしていた。
分離した手のひらも、欠落した腕も、どこにもなかった。

「気を付けてくださいね」
「あ、はい……」

男はそれだけ言って、消えた。
たしかにそこに居たはずなのに、無駄に広い駐車場に左手を差し出したまま立っているのは、私一人だ。
どこからどこまでが、夢?
目をこすりながらコンビニに向き直り、改めて左手を見る。これが自分のものだと言い切る自信は、とっくに無くなってしまっていた。
あの男は、誰だったんだろう。知っているのは、深夜によく馴染む深くて優しい声と、冷たい手の温度だけだ。顔も服装もなにもかも、見ることはできなかった。ビニール袋をだらしなくぶらぶらさせている左手に問う。相変わらずの素知らぬ顔に、わざとらしくため息をついてみた。
もしかしたら、
今まで私の左手が本当に落ちなかったのは、彼と握手をするためだったのかもしれない。
何気無しに辿り着いた一つの想像を、肯定するように遠くでクラクションがひとつ、鳴った。



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