こんな日は早く帰宅してしまうに限る。ブラインド越しの雨雲が段々と分厚くなってきたのを確認し、思わず目を細めた。今日のコンディションは、天気に反して抜群にいい。デスクに戻り、パソコンの画面を覗き込むふりをしながら机上を指先で叩く。その度に、爪がカツカツと軽快に音を立てるのを聞きながら、堪え性のない自分を一周回って愛おしく感じてしまう。
(ま、要はバレなきゃいいんだ)
フロアではあちこちで電話が鳴り、女性従業員の足音がそれらを掻き回すように忙しなく響く。隣の席の男が離席したのを横目で見ながら、ほぼ決まりつつあるアフターファイブの予定を頭の中で組み立てる。肝心の標的は誰にしよう。前から目をつけていた駅前のカフェ店員か、それとも巡り合わせを大事にするべきだろうか? 雨の路地裏で美人とデートなんて、ロマンチックでいいかもしれない。想像を計画に落とし込んでいく作業も、嫌いじゃない。壁掛け時計が定時まであと一時間だと、チャイムで告げる。鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌で、溜まっていたメールをひとつずつチェックしていく。
(それに万が一バレたって構いやしないさ)
悪魔の囁きは、よく聞いたことのある声をしている。
(どうせ彼女は、私から離れられないんだ)



「また浮気してきたの? 貴方も懲りないのね」
「ああ、懲りないね。ただいま」
「おかえりなさい」

もっとゆっくりしてきても良かったのに、口をへの字にするのは彼女の不機嫌なサインだ。帰って早々バレるなんて、誤魔化しのためにあれこれと用意していた嘘と言い訳が泡のように弾けて消えた。

「仕方ないだろう。いつまでも君のイデアの両手で満足できるほど、私は高尚な人間じゃあないのでね」

ネクタイを解きながら、口をついて出た言葉。いつまでも返事が無いので彼女の小さな背中を見る。流し台の前でぼんやりしているようで、羽織っただけのエプロンの結び目が手を繋ぐことなく背中で垂れている。食事の用意なんて、私がやってやるのに。よほど空腹だったのか、思いながら彼女の下の名前を呼んだ。振り向かない。もう一度、今度はつとめて優しい声で声を掛ける。

「それでも君を側に置いているってどういうことか、理解して欲しいんだけど?」
「貴方の愛する平穏な生活を維持する以外に、私がここにいる意味ってあるのかしら」

聞いたかい、キラークイーン。思わず笑い出しそうになるのを堪えて、彼女の後ろまで歩いていき、エプロンのリボンに手をかける。結ばれている間も、黙り込んで何も言わない。何かに耐えているような横顔を覗き込んで、彼女の瞳が此方へ向くのを待つ。綺麗な黒髪を耳にかけてあげて、もう三度目だ、名前を呼ぶ。

「浮気してきた私のことは嫌い?」
「そんなふうに聞くのはやめて」
「どうして? 君が思ってることは、君の口から聞きたいな」
「答えられないって知ってるでしょう?」

やっとこっちを向いた、痛烈に光を放つ瞳ふたつともに私の笑顔が映る。泣いていたのか、少しだけ目が充血している。ああもう、堪らないな。思惑に気が付いたのか、視線が斜め下にそらされる。仕方ない、今日は水曜日だから思う存分とはいかないけど。彼女の膝裏と背中を抱え上げ、寝室へと真っ直ぐに向かう。抱えた腕から溢れて垂れるワンピースの裾が、ひらひらとはためく。ドールのように身体を無抵抗に預けるのは、諦めからだろうか。少しは期待も含まれてるといいんだけど。

「君の両の手が、存在が、何よりも美しくて愛おしいんだ。何度でも言うよ。ちゃんと、わかってもらえるまでね」
「ひと思いに私を殺してくれれば、すべて貴方の思うままなのに」
「私にとって人を殺すことは、邪魔になって捨てるのと同義だ」
「願ってもダメなの? 殺して欲しいって」
「君を失うなんて、冗談じゃない。やっと手に入れた、私のイデアなんだよ」

ダブルサイズのベッドにやさしく横たえた彼女は、四肢を持て余しているようで、黒のワンピースがあちこち捲れて白い肌が見えている。その上から華美な装飾の排されたエプロンが彼女の体に張り付いており、身体の形を否応無しに浮き彫りにする。上等な皿に盛り付けられた料理を目の前にしている心地だ。乾いた唇を舐めると、彼女の視線が私に注がれているのを感じた。

「君の両手は、神様が隠してしまうほど美しいんだから」
「あまりに醜くて捨てられたのかもしれないわ」

手首から先が産まれつき無いのだと、彼女は出会った時に教えてくれた。彼女の手を撫でることも指を絡めることもできない、見えないだけできっとそこに美しい手が存在するのに。どうしたって手に入らないものほど、切に求めてしまうのが人間なのだと彼女と出会ってから知った。知ってしまった。ベッドへ片膝を沈ませ、もう片方で彼女の体を跨ぐ。これが何の合図か、嫌という程知っている眼下の女は両腕を広げ、私を招き入れた。ああ、きっとどの女性よりも美しい指が、なめらかな手のひらがそこにはあるのだろう。君の手が美しいことを、愛をもって証明しよう。君に出逢ってから、私の心の平穏などとっくにありはしないのだから。


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